一週間だけ。
その言葉は、僕にとって魔法の呪文みたいなものだった。
一週間だけなら我慢できる。一週間だけなら責任じゃない。一週間だけなら、いつもの帰宅部生活に戻れる。
そう思っていたのに、翌日の放課後、僕はなぜか弓道場の前で足を止めていた。
「……何してんだ、僕」
帰ればいい。
今日も先生に見つからないように裏門から抜けて、コンビニでアイスでも買って、家に帰って、だらだら動画を見ればいい。
それが正しい帰宅部の在り方だ。
なのに、道場の中から聞こえた弦の音に、僕の足は勝手に動いた。
「来たんだ」
板張りの端に立っていた白瀬遥斗が、こちらを見た。
昨日と同じ白い道着に黒い袴。相変わらず姿勢がよくて、同じ高校生なのに、僕とは違う種類の生き物みたいに見える。
「来たんだ、じゃない。来させられたんだよ」
「誰に?」
「昨日の先輩と、逃げたら負けな気がした僕自身に」
「面倒な性格」
「白瀬にだけは言われたくない」
そう返すと、白瀬はほんの少しだけまばたきをした。笑ったわけじゃない。でも、昨日より少しだけ空気がやわらかい気がした。
奥から藤宮先輩が手を振ってくる。
「千尋くん、来てくれて助かった。じゃあ、ここに座って。白瀬が何本中てたか、正の字で記録してくれればいいから」
「本当にそれだけですか?」
「うん。あとは白瀬が無口すぎて空気が重くなったら、適当にしゃべって」
「僕、空気清浄機じゃないんですけど」
「似たようなものだよ。明るいし」
そんな雑な理由で任命される係があっていいのか。
文句を言いながらも、僕は渡された記録用紙を膝に置いた。鉛筆を持ち、白瀬の名前の横にある空欄を見る。
白瀬遥斗。
昨日聞いたばかりの名前なのに、目で追うと、変に落ち着かない。
白瀬は射位に立った。
道場が静かになる。
僕はつい、鉛筆を握る指に力を入れた。
白瀬が弓を構える。
昨日と同じように背筋はまっすぐで、指先も腕も綺麗だった。何がどう綺麗なのかはわからない。ただ、無駄な動きがない。息をすることさえ、形になっているみたいだった。
弦が鳴る。
矢が飛ぶ。
けれど、乾いた音は的の中心から少し外れた場所で響いた。
「あ」
思わず声を出すと、白瀬の肩がほんのわずかに揺れた。
外れた、と言っていいのかも僕にはわからない。的には当たっている。でも、藤宮先輩が小さく眉を寄せたから、たぶん白瀬にとっては良くない結果なのだろう。
白瀬は何も言わなかった。
ただ、次の矢を取った。
二本目。
また、中心から外れる。
三本目。
今度は的の端。
白瀬は黙ったまま、矢を見ていた。
昨日、僕に「逃げるの得意なんだろ」と言ったときのまっすぐな目とは違う。今の白瀬は、自分の中のどこか遠い場所を見ているみたいだった。
僕は記録用紙に印をつけながら、落ち着かなくなった。
「……外したくらいで、世界終わった顔すんなよ」
口から勝手に出た。
道場の空気が一瞬止まった。
藤宮先輩が「おお」と小さく言う。ほかの部員たちも、ちらっとこっちを見た。
しまった。部外者が言うことじゃなかった。
でも白瀬は怒らなかった。振り返りもせず、低い声で言った。
「終わってない」
「じゃあ、そんな顔するなよ」
「どんな顔」
「……なんか、自分だけ置いていかれたみたいな顔」
白瀬がこちらを向いた。
今度こそ、目が合う。
僕は慌てて記録用紙に視線を落とした。自分で言っておいて、急に恥ずかしくなった。
「適当に言っただけだから、忘れて」
「忘れない」
「そこは忘れろよ」
「千尋が見てたことも、忘れない」
鉛筆の先が紙に引っかかって、変な線ができた。
名前を呼ばれただけだ。
昨日名乗ったのだから、呼ばれて当然だ。
それなのに、白瀬の声で「千尋」と言われると、胸の中が一瞬だけ静かになる。さっき弦の音を聞いたときみたいに。
「……さっさと次、引けば」
「うん」
白瀬はまた前を向いた。
その日の白瀬は、結局あまり中らなかった。
藤宮先輩は「今日はここまで」と声をかけたけれど、白瀬はうなずいただけで、納得した顔はしていなかった。
練習が終わると、ほかの部員たちは片づけを始めた。僕も記録用紙をまとめて、藤宮先輩に渡す。
「助かったよ。明日もよろしく」
「本当に一週間だけですからね」
「はいはい」
絶対に聞いていない返事だった。
帰ろうとしたとき、道場の奥で白瀬がまだ弓を手にしているのが見えた。
「あいつ、まだやるんですか」
「白瀬はいつも残るよ。大会近いしね」
「でも、今日かなりやってましたよ」
「うん。だから心配なんだけど、止めても聞かない」
藤宮先輩は苦笑した。
「あいつ、外すと黙るだろ」
「はい」
「黙って、自分だけでどうにかしようとする。まあ、そこが白瀬らしいんだけど」
僕は道場の奥を見た。
白瀬はひとりで的を見ていた。
誰も責めていないのに、自分だけが自分を許していないような背中だった。
「……面倒くさいですね」
「でしょ。でも、いいやつだよ」
「いいやつは、だいたい面倒くさいです」
「それ、名言っぽい」
「適当です」
帰るつもりだった。
今度こそ本当に帰るつもりだった。
なのに、僕は道場の外に出たあとも、すぐには歩き出せなかった。夕方の風が汗を冷ましていく。校庭からはサッカー部の声が聞こえ、体育館からはバッシュの音が響いていた。
みんな、自分の場所で何かをしている。
僕だけが、どこにも属していない。
そう思うのは慣れているはずなのに、今日は少しだけ居心地が悪かった。
弦の音が、また聞こえた。
振り返ると、開け放たれた道場の奥で、白瀬が弓を引いていた。
一人だった。
誰も見ていないところで、何度も、何度も。
さっきより疲れているはずなのに、姿勢だけは崩れない。的を見つめる横顔は、悔しそうで、苦しそうで、それでも逃げようとはしていなかった。
胸の奥が、きゅっと変なふうに縮んだ。
僕は、逃げるのが得意だ。
嫌なことから逃げる。期待から逃げる。好きだったものからも、逃げた。
だからこそ、逃げないやつを見ると、腹が立つ。
まぶしくて、見ていられない。
でも、白瀬からは目が離せなかった。
また一本、矢が飛ぶ。
今度は的の真ん中に近かった。
それでも白瀬は笑わない。
僕は思わず道場の入り口に戻っていた。
「白瀬」
呼ぶと、白瀬が振り返った。
「帰ったんじゃなかったの」
「帰る途中で、道に迷った」
「校内で?」
「現代社会は複雑なんだよ」
昨日と同じ言い訳をすると、白瀬の目元がほんの少し緩んだ。
やっぱり、笑った気がした。
僕は道場の端に腰を下ろす。
「見てていい?」
「記録係はもう終わった」
「じゃあ、ただの見学」
「面白い?」
「わかんない」
正直に答えると、白瀬は少しだけ首を傾げた。
「でも、白瀬が外すたびに黙るのは、気になる」
「それ、面白い?」
「面倒くさい」
「じゃあ帰れば」
「面倒くさいものほど、ちょっと気になるだろ」
言ってから、自分で驚いた。
僕は何を言っているんだ。
白瀬も少しだけ目を見開いた。けれど、すぐに前を向いた。
「じゃあ、見てて」
短い言葉だった。
でも、頼まれたように聞こえた。
僕は鉛筆も記録用紙も持っていない。ただ、道場の端に座って、白瀬の背中を見る。
弦の音が響く。
矢が飛ぶ。
中っても、外れても、白瀬はまた弓を引く。
その横顔を見ながら、僕は思った。
この一週間は、もしかしたら少し長くなるかもしれない。
帰宅部の僕が、放課後に帰らない理由を見つけてしまった気がした。
その言葉は、僕にとって魔法の呪文みたいなものだった。
一週間だけなら我慢できる。一週間だけなら責任じゃない。一週間だけなら、いつもの帰宅部生活に戻れる。
そう思っていたのに、翌日の放課後、僕はなぜか弓道場の前で足を止めていた。
「……何してんだ、僕」
帰ればいい。
今日も先生に見つからないように裏門から抜けて、コンビニでアイスでも買って、家に帰って、だらだら動画を見ればいい。
それが正しい帰宅部の在り方だ。
なのに、道場の中から聞こえた弦の音に、僕の足は勝手に動いた。
「来たんだ」
板張りの端に立っていた白瀬遥斗が、こちらを見た。
昨日と同じ白い道着に黒い袴。相変わらず姿勢がよくて、同じ高校生なのに、僕とは違う種類の生き物みたいに見える。
「来たんだ、じゃない。来させられたんだよ」
「誰に?」
「昨日の先輩と、逃げたら負けな気がした僕自身に」
「面倒な性格」
「白瀬にだけは言われたくない」
そう返すと、白瀬はほんの少しだけまばたきをした。笑ったわけじゃない。でも、昨日より少しだけ空気がやわらかい気がした。
奥から藤宮先輩が手を振ってくる。
「千尋くん、来てくれて助かった。じゃあ、ここに座って。白瀬が何本中てたか、正の字で記録してくれればいいから」
「本当にそれだけですか?」
「うん。あとは白瀬が無口すぎて空気が重くなったら、適当にしゃべって」
「僕、空気清浄機じゃないんですけど」
「似たようなものだよ。明るいし」
そんな雑な理由で任命される係があっていいのか。
文句を言いながらも、僕は渡された記録用紙を膝に置いた。鉛筆を持ち、白瀬の名前の横にある空欄を見る。
白瀬遥斗。
昨日聞いたばかりの名前なのに、目で追うと、変に落ち着かない。
白瀬は射位に立った。
道場が静かになる。
僕はつい、鉛筆を握る指に力を入れた。
白瀬が弓を構える。
昨日と同じように背筋はまっすぐで、指先も腕も綺麗だった。何がどう綺麗なのかはわからない。ただ、無駄な動きがない。息をすることさえ、形になっているみたいだった。
弦が鳴る。
矢が飛ぶ。
けれど、乾いた音は的の中心から少し外れた場所で響いた。
「あ」
思わず声を出すと、白瀬の肩がほんのわずかに揺れた。
外れた、と言っていいのかも僕にはわからない。的には当たっている。でも、藤宮先輩が小さく眉を寄せたから、たぶん白瀬にとっては良くない結果なのだろう。
白瀬は何も言わなかった。
ただ、次の矢を取った。
二本目。
また、中心から外れる。
三本目。
今度は的の端。
白瀬は黙ったまま、矢を見ていた。
昨日、僕に「逃げるの得意なんだろ」と言ったときのまっすぐな目とは違う。今の白瀬は、自分の中のどこか遠い場所を見ているみたいだった。
僕は記録用紙に印をつけながら、落ち着かなくなった。
「……外したくらいで、世界終わった顔すんなよ」
口から勝手に出た。
道場の空気が一瞬止まった。
藤宮先輩が「おお」と小さく言う。ほかの部員たちも、ちらっとこっちを見た。
しまった。部外者が言うことじゃなかった。
でも白瀬は怒らなかった。振り返りもせず、低い声で言った。
「終わってない」
「じゃあ、そんな顔するなよ」
「どんな顔」
「……なんか、自分だけ置いていかれたみたいな顔」
白瀬がこちらを向いた。
今度こそ、目が合う。
僕は慌てて記録用紙に視線を落とした。自分で言っておいて、急に恥ずかしくなった。
「適当に言っただけだから、忘れて」
「忘れない」
「そこは忘れろよ」
「千尋が見てたことも、忘れない」
鉛筆の先が紙に引っかかって、変な線ができた。
名前を呼ばれただけだ。
昨日名乗ったのだから、呼ばれて当然だ。
それなのに、白瀬の声で「千尋」と言われると、胸の中が一瞬だけ静かになる。さっき弦の音を聞いたときみたいに。
「……さっさと次、引けば」
「うん」
白瀬はまた前を向いた。
その日の白瀬は、結局あまり中らなかった。
藤宮先輩は「今日はここまで」と声をかけたけれど、白瀬はうなずいただけで、納得した顔はしていなかった。
練習が終わると、ほかの部員たちは片づけを始めた。僕も記録用紙をまとめて、藤宮先輩に渡す。
「助かったよ。明日もよろしく」
「本当に一週間だけですからね」
「はいはい」
絶対に聞いていない返事だった。
帰ろうとしたとき、道場の奥で白瀬がまだ弓を手にしているのが見えた。
「あいつ、まだやるんですか」
「白瀬はいつも残るよ。大会近いしね」
「でも、今日かなりやってましたよ」
「うん。だから心配なんだけど、止めても聞かない」
藤宮先輩は苦笑した。
「あいつ、外すと黙るだろ」
「はい」
「黙って、自分だけでどうにかしようとする。まあ、そこが白瀬らしいんだけど」
僕は道場の奥を見た。
白瀬はひとりで的を見ていた。
誰も責めていないのに、自分だけが自分を許していないような背中だった。
「……面倒くさいですね」
「でしょ。でも、いいやつだよ」
「いいやつは、だいたい面倒くさいです」
「それ、名言っぽい」
「適当です」
帰るつもりだった。
今度こそ本当に帰るつもりだった。
なのに、僕は道場の外に出たあとも、すぐには歩き出せなかった。夕方の風が汗を冷ましていく。校庭からはサッカー部の声が聞こえ、体育館からはバッシュの音が響いていた。
みんな、自分の場所で何かをしている。
僕だけが、どこにも属していない。
そう思うのは慣れているはずなのに、今日は少しだけ居心地が悪かった。
弦の音が、また聞こえた。
振り返ると、開け放たれた道場の奥で、白瀬が弓を引いていた。
一人だった。
誰も見ていないところで、何度も、何度も。
さっきより疲れているはずなのに、姿勢だけは崩れない。的を見つめる横顔は、悔しそうで、苦しそうで、それでも逃げようとはしていなかった。
胸の奥が、きゅっと変なふうに縮んだ。
僕は、逃げるのが得意だ。
嫌なことから逃げる。期待から逃げる。好きだったものからも、逃げた。
だからこそ、逃げないやつを見ると、腹が立つ。
まぶしくて、見ていられない。
でも、白瀬からは目が離せなかった。
また一本、矢が飛ぶ。
今度は的の真ん中に近かった。
それでも白瀬は笑わない。
僕は思わず道場の入り口に戻っていた。
「白瀬」
呼ぶと、白瀬が振り返った。
「帰ったんじゃなかったの」
「帰る途中で、道に迷った」
「校内で?」
「現代社会は複雑なんだよ」
昨日と同じ言い訳をすると、白瀬の目元がほんの少し緩んだ。
やっぱり、笑った気がした。
僕は道場の端に腰を下ろす。
「見てていい?」
「記録係はもう終わった」
「じゃあ、ただの見学」
「面白い?」
「わかんない」
正直に答えると、白瀬は少しだけ首を傾げた。
「でも、白瀬が外すたびに黙るのは、気になる」
「それ、面白い?」
「面倒くさい」
「じゃあ帰れば」
「面倒くさいものほど、ちょっと気になるだろ」
言ってから、自分で驚いた。
僕は何を言っているんだ。
白瀬も少しだけ目を見開いた。けれど、すぐに前を向いた。
「じゃあ、見てて」
短い言葉だった。
でも、頼まれたように聞こえた。
僕は鉛筆も記録用紙も持っていない。ただ、道場の端に座って、白瀬の背中を見る。
弦の音が響く。
矢が飛ぶ。
中っても、外れても、白瀬はまた弓を引く。
その横顔を見ながら、僕は思った。
この一週間は、もしかしたら少し長くなるかもしれない。
帰宅部の僕が、放課後に帰らない理由を見つけてしまった気がした。



