放課後、君の弦音が好きになる

「瀬川ぁ! 今日こそ陸上部の仮入部、来るよな!」

 校庭の向こうから飛んできた体育教師の声に、僕は反射で踵を返した。

「すみません先生! 僕、今日は急ぎの用事が!」

「昨日も一昨日も聞いたぞ、それ!」

「じゃあ今日は新鮮味のない急ぎの用事で!」

 叫び返して、僕は全力で走りだした。

 六月の放課後。校舎の窓には夕方の光が斜めに刺さっていて、廊下を歩く生徒たちの笑い声があちこちで跳ねている。部活に向かうやつらは、みんな当たり前みたいに自分の居場所へ行く。

 僕にはそれが少しだけ、まぶしい。

 だから逃げる。

 部活から。期待から。誰かに「おまえならできる」と言われることから。

 足だけは速い。中学のころから、そこだけは取り柄だった。けれど取り柄というのは厄介だ。誰かに見つかると、いつの間にか義務になる。

 走るのが好きだったはずなのに、タイムを聞かれ、順位を聞かれ、次の大会を期待されるうちに、息の仕方まで忘れそうになった。

 だから高校では帰宅部になった。

 なのに、体育の授業でうっかり本気を出したせいで、陸上部の顧問に目をつけられてしまった。人生は油断ならない。

「瀬川、待て!」

「待てと言われて待つ帰宅部はいません!」

 校舎裏へ回り込み、階段を飛ばして降りる。渡り廊下を抜けるつもりだったのに、後ろから足音が近づいてきて、僕は適当に右へ曲がった。

 普段なら行かない奥のほう。

 人気の少ない校舎の端。

 木の匂いがした。

 ふと足を止めると、開け放たれた引き戸の向こうに、見慣れない空間が広がっていた。

 板張りの床。白い道着と袴。静かに並んだ的。

 弓道場だ。

 入っていい場所じゃない、と頭では思った。けれど、背後から聞こえる先生の声に負けて、僕は反射的に道場脇の陰へ滑り込んだ。

 その瞬間。

 ぴん、と空気が張った。

 誰かが弓を構えていた。

 白い道着に、黒い袴。すっと伸びた背筋。弓を引く腕は細いのに、少しも揺れていない。

 その横顔を見た瞬間、僕は息を止めた。

 静かだった。

 校庭の声も、先生の怒鳴り声も、僕の荒い呼吸さえ遠くなる。

 弓を引いている男子は、世界に自分と的しかないみたいな顔をしていた。

 やがて、弦が鳴った。

 鋭くて、でもどこか澄んだ音。

 放たれた矢はまっすぐ飛び、的の真ん中近くに吸い込まれた。

 乾いた音が響く。

 胸の奥にまで、届いた気がした。

「……すげ」

 思わずこぼれた声に、男子がこちらを向いた。

 目が合った。

 切れ長の目。汗で少し額に張りついた黒髪。無表情なのに、視線だけがやけに強い。

 まずい。見つかった。

「えっと、すみません。通りすがりの帰宅部です」

 僕は両手を上げて、なるべく害のない人間の顔を作った。

 男子は弓を下ろし、少しだけ首を傾げた。

「見てた?」

「いや、見てない。ちょっとだけ、目に入っただけ」

「ちょっとだけで、そんな顔するんだ」

「どんな顔だよ」

「逃げるの忘れた顔」

 言われて、僕は一瞬返事に詰まった。

 たしかに、忘れていた。追われていたことも、逃げていたことも。ほんの数秒、全部どこかへ消えていた。

「……弓道部って、意外と口悪いんだな」

「俺だけかも」

「自己申告するタイプの口悪い人、初めて見た」

 男子は少しも笑わない。けれど、ほんのわずかに目元がやわらいだ気がした。

 そのとき、道場の奥から別の声がした。

「白瀬、誰?」

 袴姿の先輩らしい人が近づいてくる。僕は反射で一歩下がった。

「不審者じゃないです。迷える帰宅部です」

「帰宅部が弓道場に迷い込むことある?」

「現代社会は複雑なので」

 先輩は僕を見て、それから白瀬と呼ばれた男子を見ると、何かを思いついたように手を打った。

「あ、ちょうどいい。君、今日から一週間だけ記録係やらない?」

「はい?」

「部員が一人ケガで休んでて、的中の記録つける人が足りないんだよね。立って見るだけ。簡単」

「いやいや、僕、帰宅部なので。帰宅する部活が忙しくて」

「逃げ足、速そうだし」

「それ記録係に関係あります?」

 先輩はにこにこしている。逃がす気がない笑顔だった。

 僕は助けを求めるように白瀬を見た。白瀬は弓を片づけながら、淡々と言った。

「嫌なら逃げれば」

「さっき逃げ込んだ先でそれ言う?」

「逃げるの、得意なんだろ」

 胸のどこかを、軽く突かれた気がした。

 むっとして言い返そうとしたのに、白瀬の視線はからかっているようには見えなかった。ただ、まっすぐだった。

 そういう目が、僕は少し苦手だ。

「……一週間だけだからな」

 気づけば、そんなことを言っていた。

 先輩が満足そうにうなずく。

「決まり。名前は?」

「瀬川千尋です」

「二年?」

「はい」

「じゃあ白瀬と同じだ。白瀬遥斗。うちのエース」

 エース。

 その言葉を聞いて、僕は白瀬を見た。

 白瀬遥斗は、特に誇らしそうな顔をしなかった。ただ静かに、さっき矢が当たった的を見ていた。

 僕はなぜか、その横顔から目を離せなかった。

 逃げ込んだだけだった。

 ただ先生から逃げて、部活から逃げて、いつも通り帰るはずだった。

 なのに、放課後の弓道場で聞いた弦の音が、まだ耳の奥に残っている。

 僕の帰宅部生活は、その日、少しだけ予定と違う方向へ曲がった。