婚約が正式に周知されてからというもの、レオノーラの生活は穏やかなものになった。
穏やかすぎて、たまに思い出さなくてもいいことまで思い出してしまうのが難点ではあったけれど。
「……穴があったら入りたいですわ」
午後の茶会。
マティアスの私室にほど近い小さな応接間で、レオノーラはカップを置いたまま額を押さえた。
「どうした」
隣に腰掛けるマティアスが、面白そうに片眉を上げる。
「どうした、ではございません。あの時のことを思い出してしまったのです」
「あの時?」
「記憶喪失のふりをしていた時のことです!」
言ってしまってから、さらに恥ずかしくなる。
レオノーラは自分で自分の顔が熱くなるのを感じた。
婚約破棄の気配を察し、階段から突き落とされ、咄嗟に記憶喪失のふりをした。
あの時は必死で仕方なかったのだ。
けれど、今になって思い返せば思い返すほど、あまりにも滑稽すぎる。
「人生で指折りの黒歴史ですわ……」
「黒歴史」
マティアスはくすりと笑った。
その笑い方がいかにも楽しそうで、レオノーラはむっと頬を膨らませる。
「笑いごとではありません。わたくし、あなたの前で何度もすっとぼけたフリをしてましたのよ」
「可愛かったが」
「最悪です!」
即答されてしまい、レオノーラは勢いよく立ち上がった。
しかし、逃げようとしたところで手首を取られ、そのまま軽く引かれる。
気づけば、彼の膝の上に腰を落とす形になっていた。
「また何か嫌なことがあれば、いつでも記憶喪失になってくれて構わないよ」
「やめてくださいませ」
「私は困らない」
「わたくしが困るのです!」
マティアスは肩を震わせて笑っている。
絶対に面白がっている。
レオノーラはじとりと睨みつけたが、相手はまるで堪えた様子がない。
「だいたい、どうしてあの時、もっと早く教えてくださらなかったのです。最初から気づいていらしたのでしょう?」
「もちろん」
「もちろん、ではありません」
あっさり言われて、レオノーラは固まってしまう。
「殿下は、なぜ気が付いたのですか?わたくし、完璧に騙せていたつもりでしたのに」
「君は嘘をつくとき、目を逸らす癖がある」
「え?」
「目が覚めて、私の顔を見た瞬間、ほんの少しだけ目を逸らした。そのあと、考える間を置いてから『ここは、どこですか』と言った」
言い逃れのできない具体性だった。
レオノーラは両手で顔を覆う。
「やめてくださいませ……!そんな細かく覚えていらっしゃるなんて……!」
「ほかにもある」
「もう結構です!」
「私が手を握った時だけ、安心したように力が抜けただろう」
「やめてくださいと申し上げておりますのに!」
「それから——」
「殿下!」
レオノーラが本気で抗議すると、マティアスはとうとう声を上げて笑った。
ひどい。
ひどいけれど、笑い声はどこかやわらかくて、嫌ではない。
ひとしきり笑ったあと、彼はふっと目元を和らげた。
「だが、あの時の君は賢かった」
「……え?」
「追い詰められて、泣いて縋ることもできたはずだ。けれど君は、自分を守るためにその場で最善を選んだ」
からかいの色が消えた声に、レオノーラはそっと顔を上げた。
「たとえ見え見えの芝居だったとしても、私は嫌いじゃない」
「見え見え……お芝居は素人なので」
「そこは認めるんだな」
「今さら否定しても虚しいではありませんか」
マティアスはまた小さく笑い、今度は逃がさないように指を絡めてきた。
「安心しろ。たとえ本当に君が何かを忘れたとしても、私は何度でも君に思い出させる」
「……何を、ですの?」
「私が君の味方だということを」
レオノーラは瞬きをした。
「それから」
マティアスは、少しだけ意地悪く口元を上げる。
「君が私の婚約者で、いずれ妻になることも」
「もう」
結局、最後はそういうことを言うのだ。
頬が熱くなるのを感じながら、レオノーラは視線を逸らした。
「……もしまた嫌なことがあっても、もう記憶喪失のふりなどいたしませんわ」
「それはつまらないな」
「つまる、つまらないの話をしていません」
「なら、次は君がどんなふりをしても、私はもう騙されてやらない」
「騙すつもりはございません」
「そうか。では次は、素直に頼ってくれ」
低く甘い声でそう言われてしまうと、もう何も言い返せない。
レオノーラはしばらく黙り込み、それから小さく息をつく。
「……では、殿下」
「なんだ」
「今、少しだけ恥ずかしくて消えてしまいたいので、どうにかしてくださいませ」
すると彼は、待っていたかのように彼女の肩を抱き寄せる。
「それなら簡単だ」
「まあ」
「見えなくなるまで、こうして隠していればいい」
耳元で囁かれ、レオノーラはとうとう観念したように額を預けた。
記憶喪失のふりをしたあの日は、たしかに人生でも指折りの黒歴史。
けれど、それをこんなふうに笑って話せるなら、少しだけ悪くない過去になったのかもしれない。
穏やかすぎて、たまに思い出さなくてもいいことまで思い出してしまうのが難点ではあったけれど。
「……穴があったら入りたいですわ」
午後の茶会。
マティアスの私室にほど近い小さな応接間で、レオノーラはカップを置いたまま額を押さえた。
「どうした」
隣に腰掛けるマティアスが、面白そうに片眉を上げる。
「どうした、ではございません。あの時のことを思い出してしまったのです」
「あの時?」
「記憶喪失のふりをしていた時のことです!」
言ってしまってから、さらに恥ずかしくなる。
レオノーラは自分で自分の顔が熱くなるのを感じた。
婚約破棄の気配を察し、階段から突き落とされ、咄嗟に記憶喪失のふりをした。
あの時は必死で仕方なかったのだ。
けれど、今になって思い返せば思い返すほど、あまりにも滑稽すぎる。
「人生で指折りの黒歴史ですわ……」
「黒歴史」
マティアスはくすりと笑った。
その笑い方がいかにも楽しそうで、レオノーラはむっと頬を膨らませる。
「笑いごとではありません。わたくし、あなたの前で何度もすっとぼけたフリをしてましたのよ」
「可愛かったが」
「最悪です!」
即答されてしまい、レオノーラは勢いよく立ち上がった。
しかし、逃げようとしたところで手首を取られ、そのまま軽く引かれる。
気づけば、彼の膝の上に腰を落とす形になっていた。
「また何か嫌なことがあれば、いつでも記憶喪失になってくれて構わないよ」
「やめてくださいませ」
「私は困らない」
「わたくしが困るのです!」
マティアスは肩を震わせて笑っている。
絶対に面白がっている。
レオノーラはじとりと睨みつけたが、相手はまるで堪えた様子がない。
「だいたい、どうしてあの時、もっと早く教えてくださらなかったのです。最初から気づいていらしたのでしょう?」
「もちろん」
「もちろん、ではありません」
あっさり言われて、レオノーラは固まってしまう。
「殿下は、なぜ気が付いたのですか?わたくし、完璧に騙せていたつもりでしたのに」
「君は嘘をつくとき、目を逸らす癖がある」
「え?」
「目が覚めて、私の顔を見た瞬間、ほんの少しだけ目を逸らした。そのあと、考える間を置いてから『ここは、どこですか』と言った」
言い逃れのできない具体性だった。
レオノーラは両手で顔を覆う。
「やめてくださいませ……!そんな細かく覚えていらっしゃるなんて……!」
「ほかにもある」
「もう結構です!」
「私が手を握った時だけ、安心したように力が抜けただろう」
「やめてくださいと申し上げておりますのに!」
「それから——」
「殿下!」
レオノーラが本気で抗議すると、マティアスはとうとう声を上げて笑った。
ひどい。
ひどいけれど、笑い声はどこかやわらかくて、嫌ではない。
ひとしきり笑ったあと、彼はふっと目元を和らげた。
「だが、あの時の君は賢かった」
「……え?」
「追い詰められて、泣いて縋ることもできたはずだ。けれど君は、自分を守るためにその場で最善を選んだ」
からかいの色が消えた声に、レオノーラはそっと顔を上げた。
「たとえ見え見えの芝居だったとしても、私は嫌いじゃない」
「見え見え……お芝居は素人なので」
「そこは認めるんだな」
「今さら否定しても虚しいではありませんか」
マティアスはまた小さく笑い、今度は逃がさないように指を絡めてきた。
「安心しろ。たとえ本当に君が何かを忘れたとしても、私は何度でも君に思い出させる」
「……何を、ですの?」
「私が君の味方だということを」
レオノーラは瞬きをした。
「それから」
マティアスは、少しだけ意地悪く口元を上げる。
「君が私の婚約者で、いずれ妻になることも」
「もう」
結局、最後はそういうことを言うのだ。
頬が熱くなるのを感じながら、レオノーラは視線を逸らした。
「……もしまた嫌なことがあっても、もう記憶喪失のふりなどいたしませんわ」
「それはつまらないな」
「つまる、つまらないの話をしていません」
「なら、次は君がどんなふりをしても、私はもう騙されてやらない」
「騙すつもりはございません」
「そうか。では次は、素直に頼ってくれ」
低く甘い声でそう言われてしまうと、もう何も言い返せない。
レオノーラはしばらく黙り込み、それから小さく息をつく。
「……では、殿下」
「なんだ」
「今、少しだけ恥ずかしくて消えてしまいたいので、どうにかしてくださいませ」
すると彼は、待っていたかのように彼女の肩を抱き寄せる。
「それなら簡単だ」
「まあ」
「見えなくなるまで、こうして隠していればいい」
耳元で囁かれ、レオノーラはとうとう観念したように額を預けた。
記憶喪失のふりをしたあの日は、たしかに人生でも指折りの黒歴史。
けれど、それをこんなふうに笑って話せるなら、少しだけ悪くない過去になったのかもしれない。



