「レオノーラ。今日は顔色がいいな」
「……殿下。どうしてこちらへ」
「婚約者が怪我をしたんだ。見舞いに来るのは当然だろう」
当然ではない。
少なくとも、レオノーラの想像していた当然ではなかった。
形式だけの見舞いならまだわかる。
だがマティアスは、毎日来た。
薬が苦いだろうと果物を持ってくる。
日差しが強ければ自らカーテンを引く。
窓辺が冷えれば、いつの間にか膝掛けが増えている。
しかも、彼は当然のようにレオノーラの好みを口にした。
「温めた林檎だ。おまえはこれが好きだった」
「そう、なのですか」
「ああ。紅茶は香りの軽いものを好む。甘すぎる菓子は苦手だ」
「……ずいぶん詳しいのですね」
「婚約者だからな」
淡々と言うくせに、その声はどこかやわらかい。
おかしい。
どう考えてもおかしい。
今のマティアスは、ベアトリーチェを想っている男の振る舞いには見えなかった。
庭を歩けるまでに回復すると、その違和感はますます強くなった。
「段差がある」
「そのくらい、一人で」
「転んだら困る」
そう言って、自然に手を差し出してくる。
断る間もなく歩幅を合わせられ、足を止めればすぐ気づかれる。
「疲れたか」
「……少しだけ」
「なら戻ろう」
「まだ大丈夫です」
「無理をするな」
記憶を失ったという体裁のせいで、レオノーラも以前のようには振る舞えなかった。
完璧な令嬢でいる必要がない。
わからないことは、わからないと言っていい。
その解放感のせいだろうか。マティアスの前でだけ、つい素の反応がこぼれる。
「殿下は、いつも急に近いのです」
「いつも?」
「……っ」
しまった、と思った。
記憶があるような言い方だったからだ。
けれどマティアスは追及せず、ただ少しだけ口元を緩めただけ。
「それは困るな」
「何がですか」
「俺のことを忘れたのに、癖だけは覚えているらしい」
その目が、少しだけ楽しそうで、レオノーラは返す言葉を失った。
困る。
本当に困る。
婚約を解消するための芝居だったはずなのに、彼が近づけば近づくほど、やめどきを失っていく。
一方その頃、王城の空気は静かに張り詰めていた。
レオノーラの知らないところで、マティアスはベアトリーチェを疑っていた。
階段事故の直後からだ。
以前から彼女の取り巻きがレオノーラの周辺を嗅ぎ回っていたこと。
事故当日、東塔の近くで不自然に人払いが起きていたこと。
ベアトリーチェが誰より早く現場を離れようとしていたこと。
証言はいくつかあった。
だが、どれも決定打には欠ける。
伯爵家が口を回せば、曖昧に潰される程度のものだった。
中途半端に動けば、相手は証拠を消す。
レオノーラへの嫌がらせは、もっと巧妙になる。
だからマティアスは、口の堅い女官と近衛をレオノーラの周囲に配置した。
同時に、ベアトリーチェの侍女の中に味方を作り、彼女の指示や動きを記録させた。
必要なのは、言い逃れできない形。
それでも、もう二度とレオノーラを無防備にはしない。
それだけは最初から決めていた。
そのことを知らないまま、レオノーラは日々の中で混乱を深めていく。
ある雨の日、部屋で本を読んでいると、マティアスが温かな飲み物を持って現れた。
「外は冷える。飲むといい」
「……ありがとうございます」
「蜂蜜は少なめにした」
「それも、わたくしの好みだったのですか」
「そうだ」
「殿下は、本当に、何でもご存じなのですね」
「見ていればわかる」
見ていればわかる。
その言葉が、なぜだか胸の奥に残った。
レオノーラはずっと、マティアスに見られていないと思っていた。
完璧な婚約者として、置かれた場所にいるだけの存在だと。
けれど彼は、そんな細かなことまで覚えていたのだろうか。
「……どうして、そんなにお優しいのですか」
ぽつりと零すと、マティアスは一瞬だけ目を細めた。
「優しい?」
「だって、わたくしは何も覚えていないのに」
「覚えていないなら、なおさらだ」
「普通は、面倒だと思うのでは」
「おまえを面倒だと思ったことはない」
あまりにあっさりと言われて、レオノーラは言葉を失った。
こういうところなのだ。
記憶喪失のふりをやめられなくなるのは。
そして、事件は秋に起きた。
庭園の薔薇が盛りを過ぎ、香りだけを細く残し始めた頃。
ベアトリーチェから「話がしたい」と手紙が届いたのは、その日の朝のことだった。
もちろん一人で向かうつもりはなかった。レオノーラは侍女を伴い、石造りの遊歩道を歩いていた。
「少し風が冷たいですね」
「はい。でも、香りはまだ残っていて……」
そう答えたところで、背後に気配を感じて振り返る。
そこに立っていたのは、ベアトリーチェだった。
彼女の顔は痩せ、目の下には薄く影が落ちている。
けれどその瞳だけは、ぎらつくように光っていた。
「あなたが何も覚えていないなんて、嘘でしょう」
侍女が息を呑む。
レオノーラは反射的に身を固くした。
「何のお話か、わかりません」
「しらばっくれないで。あなたが倒れてから、殿下はおかしくなったの。毎日あなたのところへ通って、あなたばかり見て……どうして?」
「ベアトリーチェ様」
「どうしてよ!」
一歩、また一歩と近づいてくる。
石橋の欄干が背に当たった。
その瞬間、レオノーラははっきり悟った。
この人は、またやる。
逃げようとしたが、遅かった。
ベアトリーチェの手が肩へ伸びる。
だが次の瞬間、その手首を別の手が強く掴んだ。
「そこまでだ」
「……殿下。どうしてこちらへ」
「婚約者が怪我をしたんだ。見舞いに来るのは当然だろう」
当然ではない。
少なくとも、レオノーラの想像していた当然ではなかった。
形式だけの見舞いならまだわかる。
だがマティアスは、毎日来た。
薬が苦いだろうと果物を持ってくる。
日差しが強ければ自らカーテンを引く。
窓辺が冷えれば、いつの間にか膝掛けが増えている。
しかも、彼は当然のようにレオノーラの好みを口にした。
「温めた林檎だ。おまえはこれが好きだった」
「そう、なのですか」
「ああ。紅茶は香りの軽いものを好む。甘すぎる菓子は苦手だ」
「……ずいぶん詳しいのですね」
「婚約者だからな」
淡々と言うくせに、その声はどこかやわらかい。
おかしい。
どう考えてもおかしい。
今のマティアスは、ベアトリーチェを想っている男の振る舞いには見えなかった。
庭を歩けるまでに回復すると、その違和感はますます強くなった。
「段差がある」
「そのくらい、一人で」
「転んだら困る」
そう言って、自然に手を差し出してくる。
断る間もなく歩幅を合わせられ、足を止めればすぐ気づかれる。
「疲れたか」
「……少しだけ」
「なら戻ろう」
「まだ大丈夫です」
「無理をするな」
記憶を失ったという体裁のせいで、レオノーラも以前のようには振る舞えなかった。
完璧な令嬢でいる必要がない。
わからないことは、わからないと言っていい。
その解放感のせいだろうか。マティアスの前でだけ、つい素の反応がこぼれる。
「殿下は、いつも急に近いのです」
「いつも?」
「……っ」
しまった、と思った。
記憶があるような言い方だったからだ。
けれどマティアスは追及せず、ただ少しだけ口元を緩めただけ。
「それは困るな」
「何がですか」
「俺のことを忘れたのに、癖だけは覚えているらしい」
その目が、少しだけ楽しそうで、レオノーラは返す言葉を失った。
困る。
本当に困る。
婚約を解消するための芝居だったはずなのに、彼が近づけば近づくほど、やめどきを失っていく。
一方その頃、王城の空気は静かに張り詰めていた。
レオノーラの知らないところで、マティアスはベアトリーチェを疑っていた。
階段事故の直後からだ。
以前から彼女の取り巻きがレオノーラの周辺を嗅ぎ回っていたこと。
事故当日、東塔の近くで不自然に人払いが起きていたこと。
ベアトリーチェが誰より早く現場を離れようとしていたこと。
証言はいくつかあった。
だが、どれも決定打には欠ける。
伯爵家が口を回せば、曖昧に潰される程度のものだった。
中途半端に動けば、相手は証拠を消す。
レオノーラへの嫌がらせは、もっと巧妙になる。
だからマティアスは、口の堅い女官と近衛をレオノーラの周囲に配置した。
同時に、ベアトリーチェの侍女の中に味方を作り、彼女の指示や動きを記録させた。
必要なのは、言い逃れできない形。
それでも、もう二度とレオノーラを無防備にはしない。
それだけは最初から決めていた。
そのことを知らないまま、レオノーラは日々の中で混乱を深めていく。
ある雨の日、部屋で本を読んでいると、マティアスが温かな飲み物を持って現れた。
「外は冷える。飲むといい」
「……ありがとうございます」
「蜂蜜は少なめにした」
「それも、わたくしの好みだったのですか」
「そうだ」
「殿下は、本当に、何でもご存じなのですね」
「見ていればわかる」
見ていればわかる。
その言葉が、なぜだか胸の奥に残った。
レオノーラはずっと、マティアスに見られていないと思っていた。
完璧な婚約者として、置かれた場所にいるだけの存在だと。
けれど彼は、そんな細かなことまで覚えていたのだろうか。
「……どうして、そんなにお優しいのですか」
ぽつりと零すと、マティアスは一瞬だけ目を細めた。
「優しい?」
「だって、わたくしは何も覚えていないのに」
「覚えていないなら、なおさらだ」
「普通は、面倒だと思うのでは」
「おまえを面倒だと思ったことはない」
あまりにあっさりと言われて、レオノーラは言葉を失った。
こういうところなのだ。
記憶喪失のふりをやめられなくなるのは。
そして、事件は秋に起きた。
庭園の薔薇が盛りを過ぎ、香りだけを細く残し始めた頃。
ベアトリーチェから「話がしたい」と手紙が届いたのは、その日の朝のことだった。
もちろん一人で向かうつもりはなかった。レオノーラは侍女を伴い、石造りの遊歩道を歩いていた。
「少し風が冷たいですね」
「はい。でも、香りはまだ残っていて……」
そう答えたところで、背後に気配を感じて振り返る。
そこに立っていたのは、ベアトリーチェだった。
彼女の顔は痩せ、目の下には薄く影が落ちている。
けれどその瞳だけは、ぎらつくように光っていた。
「あなたが何も覚えていないなんて、嘘でしょう」
侍女が息を呑む。
レオノーラは反射的に身を固くした。
「何のお話か、わかりません」
「しらばっくれないで。あなたが倒れてから、殿下はおかしくなったの。毎日あなたのところへ通って、あなたばかり見て……どうして?」
「ベアトリーチェ様」
「どうしてよ!」
一歩、また一歩と近づいてくる。
石橋の欄干が背に当たった。
その瞬間、レオノーラははっきり悟った。
この人は、またやる。
逃げようとしたが、遅かった。
ベアトリーチェの手が肩へ伸びる。
だが次の瞬間、その手首を別の手が強く掴んだ。
「そこまでだ」



