黒漆のいちかは笑わない

第3話 一から十の黒帳

 四月第四週の水曜、清瀬黒漆堂の作業台には、黒い帳面と十枚の付箋が並んでいた。外では春の雨がトンネルの床を濡らし、新駅前の工事灯だけが白く光っている。

 いちかは一枚目の付箋を指で押さえた。

「一、無料相談会。二、出店誘導。三、意匠使用許可。四、顧客名簿の共有。五、違約金」

 睦はペンを止めた。三枝の書類と、窓口に来た相談者の書類が、頭の中で重なる。

「六は、職人の体力切れですね」
「七、店名の買い取り。八、旧市街の空洞化。九、新施設での模倣品販売。十、元職人への口止め」

 いちかは淡々と続けた。けれど、八の付箋を置く時だけ、指先がわずかに止まった。

 睦は資料を並べ直した。契約の文言は、どれも一つだけなら断言しづらい。だが順番に並べると、弱った店から看板と技を抜いていく流れが見える。

「泣いている人に、また一から説明させるのは残酷です」

 いちかが言う。睦は申立書の下書きを引き寄せた。

「だから、話せる形に整えるのが僕の仕事です。日付、相手名、渡された書面、言われた言葉。思い出せるところだけでいい」

 夕方、貴巳が清瀬黒漆堂へ来た。市の契約審査を担当する睦の先輩で、濡れた傘を静かに畳み、書類の束を置く。

「ストライクゾーンは民間の施設です。ただし、千鳥町観光回廊整備補助金、旧市街連携協定、歩行者トンネル壁面使用許可が関係している。証拠がそろえば、再審査に乗せられます」

 いちかは黒帳を閉じなかった。閉じてしまえば、そこに書かれた人たちまで一度黙らせる気がした。

 一善は十枚の付箋を覚えようとして、店の壁へ番号札を貼り始めた。柱、棚、茶箪笥、格子戸。気づけば作業場は、銭湯の靴箱のようになっている。

「一善」
「覚えます」
「まず、椀に貼った七番を外してください」

 彩明が差し入れの菓子を持って来て、「十歩堂より番号が多い店になったわね」と笑った。いちかは怒らず、その番号札を証拠袋の分類へ使った。

 雨が強くなったころ、格子戸が控えめに叩かれた。戸の向こうに、紺のスーツを着た女性が立っている。

「清瀬いちかさんですね。ストライクゾーンの広報を請け負っています。瑠依です」

 睦の肩に力が入る。いちかは帳面を閉じず、ただ付箋の端をそろえた。

 瑠依は濡れた封筒を胸に抱いたまま、棚の片方だけの誕生石のピアスを見た。

「施設の壁面デザインとロゴが、古い蒔絵意匠に似ています。偶然とは思えません」
「私を信用して来たのですか」

 瑠依は首を横に振る。

「信用はしません。でも、話はします」

 雨音が黒漆の匂いに混じる。いちかは黒い付箋へ「三」と書き、帳面の端へ貼った。
【終】