黒漆のいちかは笑わない

第2話 番犬が狂犬でした

 四月第三週の月曜、睦は市役所二階の生活相談窓口で、ワカツキ総合企画の名を三度見た。相談に来た店主は別々なのに、契約書の奥には、店名の使用、顧客名簿の共有、意匠の無償利用という似た文言が沈んでいる。

 昼休み、睦が十歩堂へ走ると、窓際の席にいちかが座っていた。黒い帳面の横には、領収書、名刺、無料相談会のチラシが、珈琲の香りの中で整然と並んでいる。

「一人で危ない交渉をしないでください」

 睦が言うと、いちかはチラシの端をそろえた。

「一人の方が、誰も巻き込まなくて済みます」
「それであなたが危ない目に遭ったら」
「危ない顔をしている人間には、危ない話が寄ってきます」

 その夜、いちかはストライクゾーン工事用フェンスの近くで、若槻の部下と会った。睦は少し離れた街灯の陰に立つ。約束はしていない。心配が足を動かしただけだった。

 いちかは、昼間よりさらに冷えた声で言った。

「旧市街をまとめて買いたいなら、値段を上げてください。泣いている店主は、使い道があります」

 睦の胸がひやりとした。芝居だとわかっている。けれど、言葉だけを聞いた人は本気にする。

 部下の男が笑い、いちかの腕へ手を伸ばした。その瞬間、睦は近くの休憩所にあった椅子を抱えたまま飛び出していた。

「そこまでです!」

 男が後ずさる。いちかは睦と椅子を交互に見た。

「番犬のつもりですか」
「椅子は、たまたまです」
「たまたま椅子を持って走る人は、あまりいません」

 男は舌打ちして去った。いちかは何も言わず、睦を清瀬黒漆堂まで連れて帰る。

 事情を聞いた彩明は、珈琲を注ぎながら肩を震わせた。

「番犬が狂犬でした」
「彩明さん、笑いごとでは」
「椅子を抱えた市役所職員が夜道から出てきたら、誰だって逃げるわよ」

 一善は入り口に立ち、胸を張った。

「では次から僕が番犬を」

 そこへ宅配業者が来る。一善は反射的に道を譲り、荷物まで店内へ運び入れた。

「番犬以前に便利屋です」

 いちかの一言で、彩明がまた笑った。

 夜が深まるころ、睦は頭を下げた。

「すみません。あなたの段取りを壊しました」

 いちかは黒帳を開く。名前の横には、金額だけではなく、短いメモがあった。娘へ言えない。怒る体力がない。店を閉めたくない。

「泣いている人は、強い言葉を出す余裕がありません。だから、私が先に嫌われます」

 睦は契約書の束へ手を伸ばした。

「次は飛び出す前に、何を守るべきか見ます」
「飛び出さないでください」
「努力します」
「その返事は、飛び出す人の返事です」

 いちかは黒い付箋へ「二」と書き、帳面へ貼った。睦は椅子ではなくペンを握り直した。今度こそ、隣に立つために。
【終】