黒漆のいちかは笑わない

第1話 トンネルの向こう側

 四月第二週の夕方、市役所の生活相談窓口を閉めた有佐睦は、千鳥町と新駅前をつなぐ歩行者トンネルへ入った。

 新駅前の空には、六月上旬に開業する大型娯楽施設「ストライクゾーン」の看板が、夕日を受けてまぶしく浮かんでいる。反対側の千鳥町には、喫茶店、金物店、蒔絵修復店の細い灯りが、古い路地に一つずつ残っていた。

 トンネルの中央だけ、照明が切れていた。そこで、低い女の声がした。

「払えないなら、看板も店も置いていって」

 睦は足を止めた。黒い服の女性が、老職人の三枝から茶封筒を取り上げている。三枝は小さな肩をさらに丸め、何か言いかけて黙った。

「やめてください」

 睦は考えるより先に間へ入った。女性は黒い手袋の指先で封筒の角を整え、睦を一瞥した。

「正義の味方は営業時間内だけにしてください」

 冷たい声だった。女は封筒を抱えたまま、千鳥町側へ歩いていく。黒い背中が、切れた照明の影に溶けた。

 睦が三枝の話を聞いたのは、その数分後だった。三枝は、ストライクゾーンへの出店話に誘われていた。出店料は安い。だが契約書には、意匠使用、顧客名簿の共有、途中解約時の違約金が、細い字で並んでいたという。

「さっきの封筒は、お金ですか」

 三枝は首を振った。

「契約書と、領収書と、向こうの人の名刺だ。渡す前に、あの娘が持っていった」

 夜、睦は清瀬黒漆堂を訪ねた。格子戸の奥には、壊れた看板、欠けた椀、古い筆箱が並んでいる。作業台で、あの黒服の女性――清瀬いちかが黒漆を練っていた。棚の小箱には、片方だけの誕生石のピアスが置かれている。

 若い手伝いの一善が、紙袋を抱えて駆け込んできた。

「いちかさん、金粉ここでいいですか」
「それは砂糖です」
「金粉と同じ棚にありました」
「あなたが同じ棚に置いたからです」

 店先から、十歩堂の彩明が声を立てて笑った。睦の肩に入っていた力が、少し抜ける。

 いちかは睦の前に、三枝の封筒を置いた。

「助けたいなら、同情より契約書を読んで」

 睦は反発しかけた。けれど紙束に目を落とすと、窓口で見た別の相談書類と似た言葉がいくつもあった。出店料。違約金。意匠使用。顧客名簿。

「これは、一人の話じゃない」

 いちかは黒い帳面を開いた。表紙の内側に、ワカツキ総合企画の名刺が挟まっている。彼女は小さな黒い付箋へ「一」と書き、帳面の端へ貼った。

「ええ。だから一から十まで並べます」

 黒漆の匂いが夜へ沈んだ。睦は、トンネルで見た黒い背中が何を守っていたのかを、まだ半分も知らなかった。
【終】