後宮では、噂の足が何よりも早い。
誰かが水を汲みに立つ。
誰かが髪を梳く手を止める。
誰かが朝餉の膳を受け取りながら、袖の陰で目配せをする。
噂は水面に落ちた雫のように広がった。
その伝播は人を替え、袖を替え、同じ一句が幾度も耳へ戻ってくる。
朝になっても、梅壺女御さまが帝の寝所から戻られなかった、と。
朝餉の時分には渡殿の端から端まで、女房たちの袖がひそひそと揺れていた。
――帝のお召しが長引いたのだ。
――昨夜、寝所の灯が青く揺れたのを見た者がある。
――梅壺さまが物忌みだと大騒ぎ。
どれもこれも似たり寄ったり、碌な噂ではない。
文子は廂の下、板敷の途中で足を止めた。
朝の光は格子越しに白く差し、磨かれた板へ長く伸びている。
そこへ、向こうから早足に女官がやって来た。
志乃だ。
尚侍の下に仕える典侍であり、文子の数少ない友人の一人でもある。
ただし、女学校から続く友人の間柄であることと、面倒事を押し付けて来ないことは全く別物である。
「ねえ、文子。恰度いいところへ来たわ」
その一言で、文子は嫌な予感を覚えた。
なんだかんだ四、五年も付き合いが続いている。
志乃が恰度いい、と言う時は、大概文子にとって都合が悪い。
そして今の志乃は、まさしくその顔をしていた。
「……何が恰度いいの?」
「梅壺さまのところへ行って来て」
「はあ?」
思わず、華族の娘らしからぬ間の抜けた返事が口から零れた。
志乃が頼みごとをする時は、いつだってこちらの都合など考えていない。
「なぜ、わたくしが?」
「今、もう帝妃付きの占い師になったんでしょ」
志乃は当然のように言った。
その顔には、困っている者特有の強引さがある。
助けを求めているのに、その頼み方は女学生時代の気楽さそのままだった。
確かに今、文子は、帝妃専門の占い師という名目で、後宮へ押し込められている。
「……左遷先されたのよ。後宮に。……その上、朝の御座所へ押し入れ、だなんて」
「押し入らなくていいの!」
志乃は小声で叫んだ。
否、叫んだ、というには声量が足りない。
けれど、目だけは本気の様相を帯びている。
声を荒らげれば、渡殿の端に控える女房たちに拾われると判っているのだろう。
「方違えだとか何だとか言って、あの姫を退かしてよ! どーせ仮病みたいなもんなんだから。このままでは、主上のご公務に差し障るわ!」
文子は額を押さえたくなった。
洞見の才を持つ姫――。
内裏初の女陰陽師として、そのように諸手を挙げて迎えられたのは、最初だけだった。
国の傾き。家の断絶。血筋の行く末。
人の一生を越えて流れる、大きな運命の綻びを観る。
目に見えぬものの輪郭を、誰より先に読み取るその異能は、陰陽寮でも稀とされた。
ただし、その才は、自らの関わる運命を観通すことができない。
そして後宮は、まさに文子が観なければならぬものほど、霧に沈む場所だった。
それなのに、帝妃たちは寵愛争いに都合のよい、些事ともいえる占いばかりを欲しがる。
吉か、凶か。
障りがあるか、ないか。
己の望みに、陰陽道や方術の名で箔を付けてほしいだけなのだ。
後宮へ押し込められてから、文子の洞見は畢竟、悉く霧の底へ沈んだ。
自ら関わり始めた姫たちの行く末を、先んじて読むことは能わない。
文子にとって、そこは才を活かす場所ではなかった。
洞見の眼を曇らせる、美しい檻だった。
予言が開かぬ。
式神も持たぬ。
ならば内裏初の女陰陽師など、男たちにとっては扱いに困る厄介者でしかない。
陰陽寮は、文子の異能を侮っている。
――国の傾きなどと大仰な。
――女に観えるのは、大方誰が誰に召されたかであろう。
――家の断絶だの血筋の行く末だの、姫君の夢語りに過ぎぬ。
――女の勘を、洞見などと呼べば聞こえはよいな。
――予言が開かぬ? ならば、それは才が尽きたということではないのか。
――大きな運命を観るなどと申すなら、まず己の行く末くらい観てみせよ。
観えなくなったのではない。
観えぬ場所へ、押し込められたのだ。
後宮には、志乃を含め、顔見知りが多い。
春の歌合で同じ組になった姫。
かつて管絃の遊びで箏を合わせた姫。
そうした華族令嬢たちが、今は帝の寵を競い合っている、中へと――。
文子自身の縁が濃く絡む場所で、予言が開く筈もない。
そして、観えなくなったことを理由に、男たちはますます文子を莫迦にする。
物忌み、方違え、夢見の吉凶。
言葉だけは厳かでも、かつて同じ席で笑った姫たちに求められるのは真実ではない。
寵愛争いを少しでも有利に運ぶための、都合のよい口実だ。
陰陽道の名を被った、その都合よい言葉――。
今まさに、友人である筈の志乃は、それを文子の口から出させようとしていた。
友人のよしみを笠に着て。
「志乃、あなたの仕事でしょ!」
「でも、私が言って命令したところで、聞く耳を持つような姫じゃないわ!」
それでは、本人と全く同じではないか。
文子は喉まで出かかった言葉を、どうにか呑み込んだ。
志乃は昔から、すぐに自分の好きな話に話題が飛んでしまう娘だった。
「文子に、占いがどうのォ不吉がどうのォと言われれば、女御様といえど生半に逆らえないじゃない」
「……陰陽道、莫迦にしてる?」
「そんなあ、滅相もない」
文子は、深く息を吸った。
そのために、嘘方便を使えということか。
女御の我がままを、陰陽師の言葉で包む。
障りがあるだの、占形に出ただの。
尤もらしく飾り立て、帝の寝所から退く口実を作ってやれ、ということだ。
「尚侍不在で、私にも権威が足りない、でしょ? ね、文子もそう思うよね」
なるほど。
まったく腹立たしいほど筋は通っている。
「……判ったわよ。行くわ」
志乃の顔が、ぱあっと明るくなった。
「助かるわァ。さすが親友!」
「ただし、貸し一つだからね」
「はいはーい。三つでも、四つでも!」
軽い。
あまりにも軽い。
文子は渡殿の向こう、帝の寝所へ続く廊を見た。
どう考えても、碌な一日にはならない。
誰かが水を汲みに立つ。
誰かが髪を梳く手を止める。
誰かが朝餉の膳を受け取りながら、袖の陰で目配せをする。
噂は水面に落ちた雫のように広がった。
その伝播は人を替え、袖を替え、同じ一句が幾度も耳へ戻ってくる。
朝になっても、梅壺女御さまが帝の寝所から戻られなかった、と。
朝餉の時分には渡殿の端から端まで、女房たちの袖がひそひそと揺れていた。
――帝のお召しが長引いたのだ。
――昨夜、寝所の灯が青く揺れたのを見た者がある。
――梅壺さまが物忌みだと大騒ぎ。
どれもこれも似たり寄ったり、碌な噂ではない。
文子は廂の下、板敷の途中で足を止めた。
朝の光は格子越しに白く差し、磨かれた板へ長く伸びている。
そこへ、向こうから早足に女官がやって来た。
志乃だ。
尚侍の下に仕える典侍であり、文子の数少ない友人の一人でもある。
ただし、女学校から続く友人の間柄であることと、面倒事を押し付けて来ないことは全く別物である。
「ねえ、文子。恰度いいところへ来たわ」
その一言で、文子は嫌な予感を覚えた。
なんだかんだ四、五年も付き合いが続いている。
志乃が恰度いい、と言う時は、大概文子にとって都合が悪い。
そして今の志乃は、まさしくその顔をしていた。
「……何が恰度いいの?」
「梅壺さまのところへ行って来て」
「はあ?」
思わず、華族の娘らしからぬ間の抜けた返事が口から零れた。
志乃が頼みごとをする時は、いつだってこちらの都合など考えていない。
「なぜ、わたくしが?」
「今、もう帝妃付きの占い師になったんでしょ」
志乃は当然のように言った。
その顔には、困っている者特有の強引さがある。
助けを求めているのに、その頼み方は女学生時代の気楽さそのままだった。
確かに今、文子は、帝妃専門の占い師という名目で、後宮へ押し込められている。
「……左遷先されたのよ。後宮に。……その上、朝の御座所へ押し入れ、だなんて」
「押し入らなくていいの!」
志乃は小声で叫んだ。
否、叫んだ、というには声量が足りない。
けれど、目だけは本気の様相を帯びている。
声を荒らげれば、渡殿の端に控える女房たちに拾われると判っているのだろう。
「方違えだとか何だとか言って、あの姫を退かしてよ! どーせ仮病みたいなもんなんだから。このままでは、主上のご公務に差し障るわ!」
文子は額を押さえたくなった。
洞見の才を持つ姫――。
内裏初の女陰陽師として、そのように諸手を挙げて迎えられたのは、最初だけだった。
国の傾き。家の断絶。血筋の行く末。
人の一生を越えて流れる、大きな運命の綻びを観る。
目に見えぬものの輪郭を、誰より先に読み取るその異能は、陰陽寮でも稀とされた。
ただし、その才は、自らの関わる運命を観通すことができない。
そして後宮は、まさに文子が観なければならぬものほど、霧に沈む場所だった。
それなのに、帝妃たちは寵愛争いに都合のよい、些事ともいえる占いばかりを欲しがる。
吉か、凶か。
障りがあるか、ないか。
己の望みに、陰陽道や方術の名で箔を付けてほしいだけなのだ。
後宮へ押し込められてから、文子の洞見は畢竟、悉く霧の底へ沈んだ。
自ら関わり始めた姫たちの行く末を、先んじて読むことは能わない。
文子にとって、そこは才を活かす場所ではなかった。
洞見の眼を曇らせる、美しい檻だった。
予言が開かぬ。
式神も持たぬ。
ならば内裏初の女陰陽師など、男たちにとっては扱いに困る厄介者でしかない。
陰陽寮は、文子の異能を侮っている。
――国の傾きなどと大仰な。
――女に観えるのは、大方誰が誰に召されたかであろう。
――家の断絶だの血筋の行く末だの、姫君の夢語りに過ぎぬ。
――女の勘を、洞見などと呼べば聞こえはよいな。
――予言が開かぬ? ならば、それは才が尽きたということではないのか。
――大きな運命を観るなどと申すなら、まず己の行く末くらい観てみせよ。
観えなくなったのではない。
観えぬ場所へ、押し込められたのだ。
後宮には、志乃を含め、顔見知りが多い。
春の歌合で同じ組になった姫。
かつて管絃の遊びで箏を合わせた姫。
そうした華族令嬢たちが、今は帝の寵を競い合っている、中へと――。
文子自身の縁が濃く絡む場所で、予言が開く筈もない。
そして、観えなくなったことを理由に、男たちはますます文子を莫迦にする。
物忌み、方違え、夢見の吉凶。
言葉だけは厳かでも、かつて同じ席で笑った姫たちに求められるのは真実ではない。
寵愛争いを少しでも有利に運ぶための、都合のよい口実だ。
陰陽道の名を被った、その都合よい言葉――。
今まさに、友人である筈の志乃は、それを文子の口から出させようとしていた。
友人のよしみを笠に着て。
「志乃、あなたの仕事でしょ!」
「でも、私が言って命令したところで、聞く耳を持つような姫じゃないわ!」
それでは、本人と全く同じではないか。
文子は喉まで出かかった言葉を、どうにか呑み込んだ。
志乃は昔から、すぐに自分の好きな話に話題が飛んでしまう娘だった。
「文子に、占いがどうのォ不吉がどうのォと言われれば、女御様といえど生半に逆らえないじゃない」
「……陰陽道、莫迦にしてる?」
「そんなあ、滅相もない」
文子は、深く息を吸った。
そのために、嘘方便を使えということか。
女御の我がままを、陰陽師の言葉で包む。
障りがあるだの、占形に出ただの。
尤もらしく飾り立て、帝の寝所から退く口実を作ってやれ、ということだ。
「尚侍不在で、私にも権威が足りない、でしょ? ね、文子もそう思うよね」
なるほど。
まったく腹立たしいほど筋は通っている。
「……判ったわよ。行くわ」
志乃の顔が、ぱあっと明るくなった。
「助かるわァ。さすが親友!」
「ただし、貸し一つだからね」
「はいはーい。三つでも、四つでも!」
軽い。
あまりにも軽い。
文子は渡殿の向こう、帝の寝所へ続く廊を見た。
どう考えても、碌な一日にはならない。



