隣のコートが青すぎる

 水曜日になると、体育館の隣のコートに鳥人が現れる。
 軽やかに上がったトスに合わせて床を踏み、身体をしならせながら高く飛んで、最頂点で打つ。

 ――ダンッ。

 レフトからのクロス打ちが決まった。隣のコートから試合を見ていた俺は、思わず息をのんだ。

「タカ、ナイスキー」
「調子いいじゃん」

 ホイッスルが鳴って得点が入ると、チームメイトが彼のもとに集まっていく。
 あんな見事なスパイクを決めたのだから浮かれてもよさそうなものだけど、打った本人は集中力を切らすことなく真剣な眼差しでコートを見つめていた。

 ――やっぱりカッコいいよな、あいつ。

 高瀬駿介(たかせしゅんすけ)。強豪と知られる笹塚高校のバレー部二年で、アウトサイドヒッターというポジションについている、らしい。
 バレーボールのことはよくわからないけど、人間離れした跳躍力を持つ彼のことは、つい目で追ってしまった。一年の頃から、ずっと。

「もっちー、よそ見してんなよ」

 ぼんやり隣のコートを眺めていると、ポカッと頭にシャトルが激突する。対面には、むくれ顔をした短髪の男子が立っていた。
 バドミントン部の二年、古河(こが)だ。俺のダブルスの相方でもある。そういえば今は、基礎打ちの最中だったな。

「ごめん。続けよう」

 気を取り直して、床に落ちたシャトルを拾う。少し伸びた前髪を耳にかけ、何気なく隣のコートに視線を送った瞬間、俺は息の仕方を忘れた。

 高瀬がこっちを見ている。切れ長の目で見つめられると、ドッドッドッと心臓が暴れまわった。
 こっそり見てるのバレた? いや、まさか、そんなはずは……。
 俺は慌てて目を逸らし、シャトルを打った。



望月(もちづき)、ノート見せてー」

 木曜日の四時間目終わり。隣の席の高瀬から、眠たげな目で声をかけられた。その要求に呆れつつも、俺は化学のノートを差し出す。

「またかよ。はい」
「さんきゅ」

 ノートを受け取った高瀬は、切れ長の目をさらに細めて微笑んだ。
 カリカリとシャーペンを走らせながら、ノートを写していく高瀬。その横顔を、隣からぼんやり眺めていた。

 運動部にしては少し長いセンター分けにした黒髪、すっと通った鼻筋、ぽってりとした下唇。右目の下に刻まれた小さなほくろは、日に焼けていない白い肌の上では目立っていた。
 整った横顔を眺めていると、高瀬が「ん?」と顔を上げる。

「なに?」
「あ、いや……。どこまで写せたかなって」
「まだ全然だよ。最初から最後まで一切板書してなかったから、結構時間かかるかも」
「堂々と言うなよ、そういうこと」

 俺は呆れながらも、ハハッと乾いた笑いを浮かべた。

 コートの中では戦闘モードの高瀬だが、教室では驚くほどゆるい。
 授業中は基本寝ているし、クラスメイトに話しかけられても空返事ばかり。そんな彼の意外な一面は、二年で同じクラスになってから知った。今日みたいにノートを貸してと頼まれたのも、一度や二度ではない。

「だって化学の御堂(みどう)先生って、催眠術使ってくんじゃん。真面目に話を聞こうとしても、だんだんと瞼が重くなって」
「あー……まあ、それはわからんでもない」

 ぼそぼそっと喋る御堂先生の授業は、眠気を誘われる。居眠りをしても咎められることはないから、俺もしょちゅうウトウトしていた。高瀬のように堂々と寝る度胸はないから、どうにか眠気を制しているわけだけど。

「それよりさ、望月ってノートまとめるの上手いよね。もしかして頭いい?」
「頭は普通だよ。でも、綺麗にノートを取るのは趣味みたいなところもある。色ペン使ってカラフルに書くと、後で見返した時に気分上がるじゃん」

 ほら、とペンケースにしまったカラーペンを机に並べていく。赤、青の定番色だけでなく、ラベンダー、フューシャピンク、オリーブグリーンなどの変わり種も揃えていた。

「おお、すっげー。細かく色分けされてて分かりやすいなって思ってたけど、こんなに使い分けてたんだ」

 高瀬は眠たげな目を見開いて、カラーペンをまじまじと見つめる。ノートやペンのことを褒められると、ちょっと嬉しくなった。

「なんかさ、望月にノート借りると、女子に借りてるみたいでドキドキするんだよね」
「それは……普通に女子に借りればいいじゃん」

 うち、共学なわけだし。高瀬がお願いすれば、喜んで貸してくれる女子も大勢いると思う。
 もっともらしい指摘をしたつもりだったが、高瀬はぶるぶると首を振る。

「女子に借りんのはムリ。対価要求されそうで怖いし」
「対価って?」
「なんか奢れとか、どっか行くの付き合えとか」

 それは……人によると思う。肯定も否定もできずにいると、高瀬は頬杖を突きながらゆるっとした笑顔を浮かべた。

「望月は、無償で俺に尽くしてくれるから、好き」

 好き。羽のように軽い言葉に、過剰に反応している自分がいた。
 勘違いするな。気軽にノートを貸してくれる便利な隣人だと思われているだけだ。特別な意味なんてない。
 無駄に暴れまわった心臓を落ち着かせるように深く息を吐き出していると、教室の入り口が騒がしくなった。

「タカ、学食行こうぜ。コバが席取っといてくれてるから」

 ぞろぞろと教室に入ってきたのは、バレー部の二年男子。彼らが現れると、教室内が一気に華やいだ。

「おー、行くー」

 高瀬は軽く手を挙げてから、エナメルバッグから財布とスマホを取り出す。椅子を引いて立ち上がったところで、俺と目が合った。

「あ、ノート、借りてていい?」
「いいよ。次の化学の授業までに返してくれれば」
「ありがと」

 高瀬はきゅっと目を細めながら笑うと、ノートが折れたり捲れたりしないように丁寧に鞄にしまっていた。
 高瀬はチームメイトを引き連れて、教室の外へ向かう。

「味噌バターラーメン、まだあるかな?」
「コーチにタンパク質とれって言われたろ? 肉食え、肉」
「そういうアスリート飯は、家で散々食わされてるからいいの。学食に行く日くらい、好きなもん食わせろよ」
「マキは、タカのおかんみがあるよなぁ」
「あー、言えてる」

 クラスメイトとはあまり喋らない高瀬も、チームメイトとはよく喋る。部活で長く一緒に過ごしているから、心を開いているのだろう。
 バレー部男子の声が聞こえなくなったところで、斜め前に座っていた女子が「はあぁ~」とわざとらしくため息をつく。

「うちのバレー部って、なんであんなにビジュいいの?」

 その意見に賛同するように、華やかな女子たちが集まってきた。

「それな! 運動部補正かかってなくてもカッコいい」
「てかさぁ、昨日ミホが上げたショート動画見た?」
「見た見た! 『リアルハイスピ』ってやつでしょ? 高瀬くんがめーちゃめちゃ高くジャンプして、その位置に合わせて牧野(まきの)くんがトスを出すやつ」
「そうそう! 漫画で出てくるプレイをリアルでやるって、うちのバレー部、レベル高すぎ」

 興奮気味に話す女子たちを、斜め後ろからこっそり眺める。
 ショート動画って……そんなの上げていいのか? 他校に手の内バレるぞ?
 心配しつつも、気になってしまったので俺も探してみる。動画サイトを漁ってみると、あった。

 動画が上がったのは昨日の晩だけど、おぞましいほど再生回数が表示されている。コメントもたくさん付いていた。

[え、やば! マジでハイスピじゃん]
[セッターが上手すぎるんだよ。これ本当に高校生?]
[アタッカーの跳躍力すげー]
[鳥じゃん。人間のジャンプじゃない]

 高瀬が褒められていると、俺まで嬉しくなる。
 そうだ。あいつはすごいんだ。カッコいいんだ。その足で、もっともっと高く飛んでいくようなやつなんだ。
 ほくほくした気分でコメント欄を眺めていると、「よっ」と誰かに肩を叩かれる。バド部の古河だ。

「もっちー、なにニヤニヤしてんの?」
「……別に、ニヤニヤなんてしてないし。それよりなに? 隣のクラスまできて」
「昼飯食おうぜ。もっちー、ぼっち飯だろ?」

 痛いところを突いてくるな……。決まりの悪さを感じながら、俺は無言でリュックから弁当を取り出して蓋を開けた。

「あ、図星なんだ。新しいクラスで友達できないの?」
「普通に話すやつはいるし」
「誰?」
「高瀬とか」

 苦し紛れで隣の席のやつの名前を上げてみる。普通に話す、というのはあながち間違いではないからいいだろう。

「マジ? もっちー、あの高瀬と友達になったん?」
「ノートはよく貸すよ。さっきも見やすいって、褒めてくれたし」

 正直に伝えると、古河は残念そうに目を細める。

「それ、友達ちがう。利用されてるだけ。もっちー、優しいから」

 そんなきっぱり否定しなくてもいいじゃないか。むっとしながらも、俺はミニトマトを口に放り込んだ。

「まあ、クラスで友達できなくても、俺はもっちーの親友だから。バド部でもダブルス組めたわけだし、これからも友情を深めていこうぜ」
「いや、これ以上深める余地ないだろ。何年一緒にいると思ってんだ?」
「かれこれ十年? うわぁ、言っててキモいわー」

 ゾゾゾッと身震いする古河。自分から言い出して、なに引いてんだ。
 古河とは小学校からの付き合いで、中学のバド部でも一緒に活動していた。頭の出来も同じくらいだから、こうして同じ高校に通っている。イラッとさせられることもあるが、俺にとっては大切な親友だ。

「隣、使っていい?」

 俺が許可を出すよりも先に、古河は高瀬の席に座る。

「使うのはいいけど、綺麗に使ってね」
「言われなくても」

 古河は、へらっと笑いながら弁当の蓋を開けた。
 古河は俺と違って明るくて人懐っこい性格だから、新しいクラスでも友達ができたに違いない。それでもわざわざ弁当を持ってやってくるのは、俺を気にかけてのことだろう。優しいのだ。こいつは、昔から。

 少し開いた教室の窓からは、あたたかな春の風が吹き込む。制服のジャケットも、そろそろ必要なくなりそうだ。
 新しいクラスになって一か月が経ったけど、俺の毎日はあまり変わり映えしない。そこそこ勉強して、そこそこ部活も頑張って、家に帰って寝るだけ。
 唯一変わったことと言えば、高瀬と喋るようになったことだ。

「最近ハマったゲーム配信者がいてさぁ、声が田中に似てんの」
「へえ」

 古河の話に適当に相槌を打ちながらも、頭の中では高瀬のことを考えていた。
 高瀬は、味噌バターラーメンを食べられたかな? あれ、人気だからすぐになくなるんだよな。高瀬のもとにも無事に回ってくればいいけど。
 だけど、あんな糖質の塊みたいなものを食べたら、午後の授業で眠くなるのは確実だ。またノート貸してって言われるかもしれない。午後はしっかりノートをとっておかないと。

「もっちー、またニヤニヤしてんじゃん。なんかいいことあったろ?」

 古河に顔を覗き込まれたところで、慌てて緩んだ頬を引き締める。

「なんもない」

 そう誤魔化しながら、白米をかきこんだ。



 放課後。バドミントン部の部室で着替えた後に、何気なく体育館を覗いてみた。
 体育館では、今日もバレー部が練習をしている。集団の中でも隅でアップをしている高瀬の姿はすぐに見つけられた。

 床に座って脚を大きく開き、股関節のストレッチをしている。まだコートに立っているわけではないけど、その顔つきは既に戦闘モードだった。
 教室にいる時とは、全然違う。きりっとした鋭い目元に惹きつけられた。
 ぽーっと見惚れてしまったが、ハッと我に返る。俺も、部活行かないと。



 金曜日の朝。席でスマホを弄ってると、ふわりと柑橘系の爽やかな香りが漂ってきた。顔を上げると、眠たげな目をした高瀬が「ふわーあ」とあくびをしていた。

「はよー、望月」
「おはよ。今日も朝練?」
「今日も、つーか、毎日。毎朝五時起き。ねみぃ」

 毎朝五時起きというのはご苦労なことだ。バドミントン部はゆるいから基本的に朝練はない。そのことにあらためて感謝していた。

「そうだ、忘れないうちにノート返さないと」

 高瀬はエナメルバッグから、化学と数学のノートを取り出す。昨日の五時間目は、案の定高瀬は爆睡だったから、数学のノートも追加で貸していたのだ。

「ありがとう。助かった」
「ん、どういたしまして」
「望月のノートは見やすくていいね。授業まったく聞いてなくても内容入ってくるし」
「だから、そういうことを堂々と言うなって」

 ジトッとした眼差しを送ると、高瀬は目を細めながらふにゃふにゃと笑った。そういう気の抜けた笑顔は部活中は見たことがないからレアだ。
 そそくさとノートをしまっていると、高瀬が「そうだ」と声をあげる。

「一個分かんないとこあったから教えてくんない? 今じゃなくていいから」
「いいけど。化学と数学、どっち?」
「んー、どちらかというと化学。最後のページんとこに書いてあるから」

 どちらかというとって、なんだ? 聞き返す間もなく、高瀬はばたんと机に突っ伏して、眠りの体勢に入った。
 別に今教えたって構わないんだけど……。パラパラとページをめくっていると、見覚えのない筆跡が目に留まる。その文字を読んだ瞬間、サアッと血の気が引いた。

【なんで部活中、俺のこと見てんの?】

 え? 嘘だろ? バレてた? 俺が部活中にこっそり見ていたことを……。
 ドッドッドと激しく心臓が暴れまわる。制服の下では嫌な汗をかいてきた。
 恐る恐るノートから顔を上げると、高瀬はすうすうと寝息を立てていた。