言の葉はさよならまでの栞

 それから母親と紫音にミルクを与えられた言音は、その後数時間また眠っていた。
 目が覚めると母親は帰ったのか、姿が見えなくなっていた。代わりに仕事から帰ってきた宏樹が、スーパーで買ったお惣菜と炊き立てのご飯をダイニングテーブルに並べているのが見えた。

「紫音、ご飯だぞ」

「わーい」

 ソファで座って絵本を開いていた詩音が、本を閉じてそれをローテーブルに置き、パタパタとテーブルのほうへ歩いていく。
 あの絵本……確か、私が子どもの頃に読んでいた本だ。
 確か、タイトルは『あめのひ、はれのひ』。
 雨の日も晴れの日も、それぞれに楽しいことがあるということを教えてくれる絵本だった気がする。
 自室のクローゼットにしまっていたのに、どうして紫音が読んでいるんだろう——と疑問に思ったが、紫音が母か宏樹に出してほしいとねだったのかもしれない。
 紫音には、言音が昔読んでいた絵本がクローゼットにあると教えたことがあるから。
 言音のことを思い出して、言音が好きだった絵本を読みたくなったのかも。紫音の気持ちが伝わって、言音の胸がきゅっと鳴った。

「ごめんな。今日もスーパーのお惣菜で」

「ううん、だいじょーぶ」

 いただきまーす、と紫音が両手を合わせる。
 ベビーベッドからだとあまりよく見えないが、おそらく鶏の唐揚げやコロッケなんかの揚げ物とサラダ、副菜の惣菜が並んでいるのだろう。
 副菜はもしかして、インゲンだろうか。
 インゲンは紫音が苦手な食材なんだけど……と言音は心配する。
 宏樹は紫音の好き嫌いをあまり把握していないような気がする。きっと宏樹は、紫音がインゲンを嫌いなことを知らないのだ。
 ドキドキしながら紫音の様子を見守っていると、紫音はしばらくじいっとテーブルに並んだ料理を見つめた後、真っ先にインゲンに手を伸ばした。
 お箸で掴んだインゲンを、ぱくりと口に入れる様子を言音は呆然と眺めていた。
 もぐもぐ、と彼の口が動く。若干眉を顰めながら、それでも頑張って咀嚼してごくんと飲み込むのを目にして、心臓が飛び上がりそうなほど驚いた。
 今まで、インゲンは絶対口に入れようとしなかったのに。
 一度インゲンを食べたくなさすぎてイヤイヤと癇癪を起こされてから、インゲンは出さないようにしていた。それなのに今、紫音は自ら苦手な食材に手を伸ばし、きちんと食べた。

「……おいしい」

 紫音がそう呟く声が聞こえる。宏樹は無邪気に「良かった」と安心しているようだが、言音の胸はじわじわと言葉にできない喜びや切なさで湿っていく。

(紫音……きっと、無理して頑張って食べたんだね)

 忙しい中ご飯を用意してくれたパパに悲しい顔をさせないように。
 苦手な料理を一生懸命食べたんだね。
 偉いよ、紫音。 
 偉すぎるよ。
 言音は紫音を今すぐ抱きしめて頭を撫でてあげたいという衝動に駆られた。
 でも当たり前だがそんなことはできない。できないから、紫音がインゲンをもう一つ、また一つと咀嚼する様子を遠くから眺めて、人知れず涙を流した。

「ごちそうさまでした!」

 インゲンも、唐揚げとコロッケも、ご飯も即席味噌汁もすべて食べ終えた紫音が得意げににっこりと笑いながら手を合わせた。

「お、完食じゃないか。偉いな、紫音は。やっぱりお兄ちゃんだな」

 宏樹が手放しで誉めたので、紫音は満足げに照れたように笑う。

「へへっ、がんばったよ! ぼく、おにいちゃんだもん」

「うん、立派なお兄ちゃんだ。きっと天国からママも見てるよ。偉いねって言ってくれてるさ」

「ママが?」

「ああ。紫音がたくさん成長するたび、ママが応援してくれる。大変なことがあっても、ママが励ましてくれる。ママは紫音のこと、ずっと見てるよ」

「そっかぁ。ママ、ぼくのことみててね!」

 なぜか紫音はそこでベビーベッドのほうを振り返り、言音を見つめながら言ったのだ。
 言音はじわりと熱くなる胸の鼓動を感じながら、「うん、ずっと見てるよ」と心の中で呟いた。