***
「ぐふうっ……」
口から自然とゲップのような音が漏れて、ゆっくりとまぶたを持ち上げる。
重たい頭を動かして窓の外の風景を見やると、夕暮れ時の茜色に染まる空が幻想的で綺麗だった。
「あらカノちゃん起きたのね」
すぐ近くから聞き慣れた声がして、はっと目を瞠る。
「おはよう~。もうすぐこんばんは、だけどね」
ベビーベッドに寝かされていた言音を覗き込んできたのは、他でもない言音の母親だった。
お母さん……。
六十代の言音の母親は年齢の割に若々しくバイタリティにあふれていた。実家に帰った時には、お弁当屋さんで毎日六時間ほどパートをしても全然疲れなど知らない様子で帰ってきて、家族の面倒を見ている。そんな元気な母の姿が、なんだかとても小さく見えて、普段は気にならなかった目尻の皺が、今日はとても気になった。
言音の母は、言音たちの家から車で一時間ほどの田舎に住んでいる。
でも言音が死んで、うちに手伝いに来てくれていることが分かった。平日、宏樹は朝から晩まで仕事だから、紫音の保育園の送り迎えや花音の世話をしてくれているのだろう。
お母さん、私が死んで苦労をかけてるね……。
子に先立たれることほど、親として辛いことはない。
母に苦しい経験させてしまって、内臓を引き摺り出されるような痛みが走る。
「カノちゃん起きたの!」
感傷的な気分に浸っていると、今度はぴょんと母の近くから紫音の声が飛んできた。
紫音……!
今朝、『言の葉書房』に戻る際に紫音が花音に擬態した自分のことを「ママ……?」と呼んだのを思い出す。
紫音は、今の花音が言音であることに気づいたのだろうか。
疑問に思っていた矢先、図らずも自分の口から「ふぇぇぇぇん」と泣き声が漏れた。言音の意思とは関係なく、まるで花音が今の言音を操っているかのように声を上げる。
「はいはい抱っこでちゅね~」
母が私を抱き上げる。
懐かしい……お母さんの匂いだ。
かつて言音が赤ちゃんだった頃、母はこうして言音のことを抱っこしてくれたはずだ。言音は、小さい頃に母親に抱っこをしてもらって安心した時の気持ちを思い出す。
こんなかたちでまた母親に抱き上げられるとは思ってもみなかったけれど。
母の腕の中はやっぱり安心できて、ずっとこのままこうされていたいと思うほどだった。
これも現世に戻った自分の特権かもしれない——そう思うと、胸にほっこりと温かい灯火がついた。
「シオくんも抱っこする?」
「うん!」
母が言音を抱っこしたままソファに座り、紫音を手招きする。紫音が嬉しそうに駆けてきて、母の隣に座った。
紫音にぎゅっと抱きしめられて、凍っていた心がどんどん溶けていく。
ずっと幼児らしいやわらかさを帯びていた彼の身体は、言音が知らない間にしっかりと子どものそれに近づいていることに気づいた。
「あ、やっぱりカノちゃん、ママみたいな顔する」
不意に言音を抱きしめていた紫音が、言音の顔をじっと見つめながらそう言った。
ママみたいな顔?
どういうことだろう、と疑問に思っていると、紫音が再び口を開いた。
「ママ、いつもこんな顔するんだよ。ぼくを見て、ふにゃって笑うの」
紫音が頬を綻ばせながら、母に語りかける。
母は一瞬驚いたような顔を浮かべて、それからふっと相好を崩した。
「へえ、そうなの。きっとシオくんのことが好きなんだよ」
「ぼくのことが?」
「そうだよ。大好きだから、見てるだけで笑顔になれるの。ママがシオくんのこと大好きな気持ちが顔に出ちゃってたのよ。カノちゃんも、シオくんのことが大好きなのよ」
「だいすき……」
四つの音を舌の上で転がすように、紫音が「だいすき」と再び口にした。
「うん、ぼくもママのことだいすき! カノちゃんもだいすきだよ」
無邪気に気持ちを言葉にする紫音に、言音の心がはっと揺れる。
紫音……。
息子の純粋な気持ちが、こんなにも言音の胸を喜びや切なさでいっぱいにしていく。
紫音みたいに自分も「大好き」という気持ちをなんとかして伝えたい。
この時確かに、言音の胸に強い決意が宿った。
でも同時に、笑みを浮かべていた紫音の顔が、次の瞬間にはくしゃっと悲しげに歪むのを見た。
「でもね……ばあば。だいすきなのに、ぼく、かなしくなるんだよ。ママのことかんがえて、かなしくなっちゃうの」
紫音の顔が涙で濡れていく。
紫音の泣き顔なんて、数えきれないほど目にしてきたはずなのに、凍った水が体内を流れていくような心地がした。
言音の母が、言音を抱っこしている紫音の身体を優しく包み込む。それから、紫音の背中をぽんぽんと撫でた。
「大好きだから、悲しくなるんだよ。それが普通の気持ちだから、シオくんは今、すっごく悲しくて当たり前。今はたくさん泣いて、ママのこと大好きって気持ちを大切にすればいいの」
それは、紫音に優しく教えているようでもあり、母自身に言い聞かせているようでもあった。
だが紫音は、ばあばの言葉に安心させられたように、彼女の胸の中で「うん」と小さく頷いた。
「ねえ、ばあば。今のカノちゃん、やっぱりママに似てる気がする」
「そっか。きっとママがシオくんのこと大好きな気持ちを、カノちゃんを通して伝えてくれようとしてるんじゃないかな?」
母親の確信めいた一言に、言音は思わず息をのんだ。
まさかお母さん、私が言音だってことに気づいてる?
と一瞬母親の顔をまじまじと見つめてしまったが、そんなはずはない。きっとわざと母が紫音をなだめるために言ったのだと分かった。
言音の母親は昔からおとぎ話やファンタジーを語るタイプだった。
『見て見てこっちゃん、お庭に小人さんがいる! 泣いてるこっちゃんを励ましに来たんだよ』
小さい頃、不機嫌に泣いていた自分を、母がそんなふうにしてなだめてくれたのを思い出す。小人なんて絶対に嘘だ、と分かっていたのだけれど、母のその言い方があまりにも楽しそうだから、なんで泣いていたのかもころっと忘れて涙が引っ込んだんだっけ。
母はきっと、今までそうやってピンチを乗り越えてきたのだ。
命を失って、言音はようやく母の偉大さに気づいた。
「そっかー。カノちゃん、きょうはママなんだね」
涙で濡れた顔を綻ばせて、紫音が納得した様子で言う。言音のほっぺをふにふにと両手で挟んで頭を撫でてくれた。
紫音の中で、悲しい気持ちはきっとまだたくさんあるだろう。
でも、今この一瞬だけでも、辛い気持ちが和らいでくれていたら嬉しい。言葉を話すことができないのに、言音には不思議と、今のこの自分の気持ちが紫音に伝わっているような気がした。
「ぐふうっ……」
口から自然とゲップのような音が漏れて、ゆっくりとまぶたを持ち上げる。
重たい頭を動かして窓の外の風景を見やると、夕暮れ時の茜色に染まる空が幻想的で綺麗だった。
「あらカノちゃん起きたのね」
すぐ近くから聞き慣れた声がして、はっと目を瞠る。
「おはよう~。もうすぐこんばんは、だけどね」
ベビーベッドに寝かされていた言音を覗き込んできたのは、他でもない言音の母親だった。
お母さん……。
六十代の言音の母親は年齢の割に若々しくバイタリティにあふれていた。実家に帰った時には、お弁当屋さんで毎日六時間ほどパートをしても全然疲れなど知らない様子で帰ってきて、家族の面倒を見ている。そんな元気な母の姿が、なんだかとても小さく見えて、普段は気にならなかった目尻の皺が、今日はとても気になった。
言音の母は、言音たちの家から車で一時間ほどの田舎に住んでいる。
でも言音が死んで、うちに手伝いに来てくれていることが分かった。平日、宏樹は朝から晩まで仕事だから、紫音の保育園の送り迎えや花音の世話をしてくれているのだろう。
お母さん、私が死んで苦労をかけてるね……。
子に先立たれることほど、親として辛いことはない。
母に苦しい経験させてしまって、内臓を引き摺り出されるような痛みが走る。
「カノちゃん起きたの!」
感傷的な気分に浸っていると、今度はぴょんと母の近くから紫音の声が飛んできた。
紫音……!
今朝、『言の葉書房』に戻る際に紫音が花音に擬態した自分のことを「ママ……?」と呼んだのを思い出す。
紫音は、今の花音が言音であることに気づいたのだろうか。
疑問に思っていた矢先、図らずも自分の口から「ふぇぇぇぇん」と泣き声が漏れた。言音の意思とは関係なく、まるで花音が今の言音を操っているかのように声を上げる。
「はいはい抱っこでちゅね~」
母が私を抱き上げる。
懐かしい……お母さんの匂いだ。
かつて言音が赤ちゃんだった頃、母はこうして言音のことを抱っこしてくれたはずだ。言音は、小さい頃に母親に抱っこをしてもらって安心した時の気持ちを思い出す。
こんなかたちでまた母親に抱き上げられるとは思ってもみなかったけれど。
母の腕の中はやっぱり安心できて、ずっとこのままこうされていたいと思うほどだった。
これも現世に戻った自分の特権かもしれない——そう思うと、胸にほっこりと温かい灯火がついた。
「シオくんも抱っこする?」
「うん!」
母が言音を抱っこしたままソファに座り、紫音を手招きする。紫音が嬉しそうに駆けてきて、母の隣に座った。
紫音にぎゅっと抱きしめられて、凍っていた心がどんどん溶けていく。
ずっと幼児らしいやわらかさを帯びていた彼の身体は、言音が知らない間にしっかりと子どものそれに近づいていることに気づいた。
「あ、やっぱりカノちゃん、ママみたいな顔する」
不意に言音を抱きしめていた紫音が、言音の顔をじっと見つめながらそう言った。
ママみたいな顔?
どういうことだろう、と疑問に思っていると、紫音が再び口を開いた。
「ママ、いつもこんな顔するんだよ。ぼくを見て、ふにゃって笑うの」
紫音が頬を綻ばせながら、母に語りかける。
母は一瞬驚いたような顔を浮かべて、それからふっと相好を崩した。
「へえ、そうなの。きっとシオくんのことが好きなんだよ」
「ぼくのことが?」
「そうだよ。大好きだから、見てるだけで笑顔になれるの。ママがシオくんのこと大好きな気持ちが顔に出ちゃってたのよ。カノちゃんも、シオくんのことが大好きなのよ」
「だいすき……」
四つの音を舌の上で転がすように、紫音が「だいすき」と再び口にした。
「うん、ぼくもママのことだいすき! カノちゃんもだいすきだよ」
無邪気に気持ちを言葉にする紫音に、言音の心がはっと揺れる。
紫音……。
息子の純粋な気持ちが、こんなにも言音の胸を喜びや切なさでいっぱいにしていく。
紫音みたいに自分も「大好き」という気持ちをなんとかして伝えたい。
この時確かに、言音の胸に強い決意が宿った。
でも同時に、笑みを浮かべていた紫音の顔が、次の瞬間にはくしゃっと悲しげに歪むのを見た。
「でもね……ばあば。だいすきなのに、ぼく、かなしくなるんだよ。ママのことかんがえて、かなしくなっちゃうの」
紫音の顔が涙で濡れていく。
紫音の泣き顔なんて、数えきれないほど目にしてきたはずなのに、凍った水が体内を流れていくような心地がした。
言音の母が、言音を抱っこしている紫音の身体を優しく包み込む。それから、紫音の背中をぽんぽんと撫でた。
「大好きだから、悲しくなるんだよ。それが普通の気持ちだから、シオくんは今、すっごく悲しくて当たり前。今はたくさん泣いて、ママのこと大好きって気持ちを大切にすればいいの」
それは、紫音に優しく教えているようでもあり、母自身に言い聞かせているようでもあった。
だが紫音は、ばあばの言葉に安心させられたように、彼女の胸の中で「うん」と小さく頷いた。
「ねえ、ばあば。今のカノちゃん、やっぱりママに似てる気がする」
「そっか。きっとママがシオくんのこと大好きな気持ちを、カノちゃんを通して伝えてくれようとしてるんじゃないかな?」
母親の確信めいた一言に、言音は思わず息をのんだ。
まさかお母さん、私が言音だってことに気づいてる?
と一瞬母親の顔をまじまじと見つめてしまったが、そんなはずはない。きっとわざと母が紫音をなだめるために言ったのだと分かった。
言音の母親は昔からおとぎ話やファンタジーを語るタイプだった。
『見て見てこっちゃん、お庭に小人さんがいる! 泣いてるこっちゃんを励ましに来たんだよ』
小さい頃、不機嫌に泣いていた自分を、母がそんなふうにしてなだめてくれたのを思い出す。小人なんて絶対に嘘だ、と分かっていたのだけれど、母のその言い方があまりにも楽しそうだから、なんで泣いていたのかもころっと忘れて涙が引っ込んだんだっけ。
母はきっと、今までそうやってピンチを乗り越えてきたのだ。
命を失って、言音はようやく母の偉大さに気づいた。
「そっかー。カノちゃん、きょうはママなんだね」
涙で濡れた顔を綻ばせて、紫音が納得した様子で言う。言音のほっぺをふにふにと両手で挟んで頭を撫でてくれた。
紫音の中で、悲しい気持ちはきっとまだたくさんあるだろう。
でも、今この一瞬だけでも、辛い気持ちが和らいでくれていたら嬉しい。言葉を話すことができないのに、言音には不思議と、今のこの自分の気持ちが紫音に伝わっているような気がした。



