***
「お戻りになりはったんですね」
ぱちり、とまぶたを開いた瞬間、すでに懐かしさすら覚えているハルサカの声が、言音の耳朶を揺らした。
「……本当に戻ってこられるんだ」
「最初に言いませんでしたけ? いつでも戻ってこられますと」
「聞いていたけれど、本当かどうか試してみないと分からなかったから」
「まあそれもそうですね。現世に行けること自体、半信半疑になられる方がほとんどですから」
言音の目には、『言の葉書房』に佇むハルサカの輪郭がかすんでいるように見える。ハルサカの声はどこまでもやわらかく、自分が死の淵を彷徨っていることなど微塵も感じさせなかった。
でも、鼻をかすめる古い紙の匂いはやっぱり現実的ではなく、夢の中にいるような心地がした。
「なんで戻って来はったのか、聞いても良いですか」
「それは」
蛇口からすーっと水が流れるように、当然のようにハルサカの口から出てきた疑問に、言音はごくりと唾をのみ込む。
「大好きな家族が近くにいるのに、気持ちを伝えられないのがやっぱり辛かったからです」
そう。現世に戻る前に言音自身が懸念していたことは、実際に経験すると想像以上に苦しいことだった。
言音は胸がひりつくのを感じながら、続けた。
「だから、お願いしに来たんです。もう現世に戻るのはやめにしたいって」
ハルサカの身体がぴくりと揺れる。
言音のお願いが予想外だったのだろうか。
だがすぐに彼はふっと軽く息を吐き出して「そうですか」と呟いた。
「内海さんがやめたいというのなら、もちろんやめにしても構いません。ですが」
ハルサカはそこで一旦言葉を切る。
ですが、なんだというのだろうか。
言音はじっとハルサカの唇が動くのを見つめていた。
「私には内海さんが、本当はまだ現世に戻りたいと感じているように見えます」
ハルサカの言葉に、丸め潰された紙みたいに、心がぐしゃりと縮むのを感じた。
「もっともっと、ご家族と一緒にいたい。伝えたい言葉がある。言い残した言葉を伝えて未練を解消したい——そう思うのに、うまくいかなくて自分の本当の気持ちから逃げているんとちゃいますか」
いつになく強い口調で窘めるようように言うハルサカに、現実世界では止まっているはずの言音の心臓が大きく脈を打った。
分かっている。
分かっている……そんなこと。
言われなくても、本当は言音自身が一番感じていたことだ。
でも、仕方ないじゃないか。
言葉を話すことができない生き物に擬態して、どうやって気持ちを伝えたらいいのだ。
それができないから、歯痒い気持ちから目を逸らして逃げるしかなかったんだ……。
そんな自分の弱さを感じていたからこそ、心中を言い当ててきたハルサカに身勝手な憤りを感じた。
「言葉は」
打ちのめされたままの言音の耳元にそっと囁くように、ハルサカが言葉を紡ぎ出す。言音は嫌でも彼の一言一言に、じっと耳を傾けるしかなかった。密やかな二人だけの空間に、ハルサカの声は想像していたよりもずっと優しく降ってきた。
「言葉は死ぬまでの——さよならまでの特別な切符やと、私は思っています。あなたは生きている間、いくらでも愛する人に伝えたい言葉を伝えることができたんです。でも、それでも伝えられなかった言葉があるんやないですか?」
ハルサカの問いかけに、言音はすっと目を細めた。胸に手を当てて、とくりとくりと鳴り続ける心臓の音が、「そうだ」と訴えかけてくる。
生きている時に、大好きな人たちに伝えられなかった言葉なら、数えきれないほどある。
たとえば、紫音からわがままを言われた時。言音はカッと頭に血が上って感情任せに叱ってしまうことが多かった。その後、しゅんとした紫音から「ママ、ごめんなさい」と素直に謝られても、先ほど怒ってしまった手前、「いいよ」と許してあげることができなかった。
紫音は素直に気持ちを言葉にして伝えてくれていたのに。
自分はそんな息子の気持ちにすら応えてあげられないことがあった。
それも、一度や二度じゃない。子育てでストレスが溜まっていくうちに、何度も同じような場面に出くわして、
「ママのほうこそ怒ってごめんね」という言葉をのみ込んでしまった。母として、余計なプライドが邪魔をして素直になれなかった自分。感情を言葉にして伝える能力がまだまだ乏しいはずの四歳の息子のほうが、ずっと上手く胸のうちを吐き出してくれていた。
それから、夫の宏樹に対しても、思い当たる節がある。
宏樹とは大学生の頃から付き合い始めた。
お互いに二十一になる歳で、その後大学を卒業し、社会人四年目を迎える二十六歳の春に結婚した。だからもう、かれこれ十年以上そばにいることになる。
学生時代に宏樹と付き合い始めた頃は「好き」や「ありがとう」を躊躇いなく伝えられていたのに、最近はお互いの生活に干渉しまいとするように、「お疲れ」と「おやすみ」ぐらいしか、まともに言葉を交わせていなかった気がする。言音は育児に、宏樹は仕事に追われていて、一緒に暮らしているのにまるで別々の人生を歩んでいるかのような錯覚に陥っていた。
それでも宏樹が仕事で帰りが遅くなった夜に、先に眠っている言音に「今日もありがとう」と囁いてくれているのを知っていた。言音は布団に入ってから眠れないことが多く、目を閉じてじっとしていると、宏樹にそう言われて胸がじわりと温かくなるのを感じていた。
でも、眠っていると思われている手前、飛び起きて「こちらこそありがとう」と言うわけにもいかず、そのまま寝ているふりをして朝を迎えた。
紫音にも宏樹にも、もっと伝えられることがあったはずなのに。
ずっと、チャンスを自ら逃し続けて死んでしまった。
もう彼らに何も伝えられないやるせなさに、過去の自分のふがいなさに、胸がぎゅうぎゅうと締め付けられる。
「お戻りになりはったんですね」
ぱちり、とまぶたを開いた瞬間、すでに懐かしさすら覚えているハルサカの声が、言音の耳朶を揺らした。
「……本当に戻ってこられるんだ」
「最初に言いませんでしたけ? いつでも戻ってこられますと」
「聞いていたけれど、本当かどうか試してみないと分からなかったから」
「まあそれもそうですね。現世に行けること自体、半信半疑になられる方がほとんどですから」
言音の目には、『言の葉書房』に佇むハルサカの輪郭がかすんでいるように見える。ハルサカの声はどこまでもやわらかく、自分が死の淵を彷徨っていることなど微塵も感じさせなかった。
でも、鼻をかすめる古い紙の匂いはやっぱり現実的ではなく、夢の中にいるような心地がした。
「なんで戻って来はったのか、聞いても良いですか」
「それは」
蛇口からすーっと水が流れるように、当然のようにハルサカの口から出てきた疑問に、言音はごくりと唾をのみ込む。
「大好きな家族が近くにいるのに、気持ちを伝えられないのがやっぱり辛かったからです」
そう。現世に戻る前に言音自身が懸念していたことは、実際に経験すると想像以上に苦しいことだった。
言音は胸がひりつくのを感じながら、続けた。
「だから、お願いしに来たんです。もう現世に戻るのはやめにしたいって」
ハルサカの身体がぴくりと揺れる。
言音のお願いが予想外だったのだろうか。
だがすぐに彼はふっと軽く息を吐き出して「そうですか」と呟いた。
「内海さんがやめたいというのなら、もちろんやめにしても構いません。ですが」
ハルサカはそこで一旦言葉を切る。
ですが、なんだというのだろうか。
言音はじっとハルサカの唇が動くのを見つめていた。
「私には内海さんが、本当はまだ現世に戻りたいと感じているように見えます」
ハルサカの言葉に、丸め潰された紙みたいに、心がぐしゃりと縮むのを感じた。
「もっともっと、ご家族と一緒にいたい。伝えたい言葉がある。言い残した言葉を伝えて未練を解消したい——そう思うのに、うまくいかなくて自分の本当の気持ちから逃げているんとちゃいますか」
いつになく強い口調で窘めるようように言うハルサカに、現実世界では止まっているはずの言音の心臓が大きく脈を打った。
分かっている。
分かっている……そんなこと。
言われなくても、本当は言音自身が一番感じていたことだ。
でも、仕方ないじゃないか。
言葉を話すことができない生き物に擬態して、どうやって気持ちを伝えたらいいのだ。
それができないから、歯痒い気持ちから目を逸らして逃げるしかなかったんだ……。
そんな自分の弱さを感じていたからこそ、心中を言い当ててきたハルサカに身勝手な憤りを感じた。
「言葉は」
打ちのめされたままの言音の耳元にそっと囁くように、ハルサカが言葉を紡ぎ出す。言音は嫌でも彼の一言一言に、じっと耳を傾けるしかなかった。密やかな二人だけの空間に、ハルサカの声は想像していたよりもずっと優しく降ってきた。
「言葉は死ぬまでの——さよならまでの特別な切符やと、私は思っています。あなたは生きている間、いくらでも愛する人に伝えたい言葉を伝えることができたんです。でも、それでも伝えられなかった言葉があるんやないですか?」
ハルサカの問いかけに、言音はすっと目を細めた。胸に手を当てて、とくりとくりと鳴り続ける心臓の音が、「そうだ」と訴えかけてくる。
生きている時に、大好きな人たちに伝えられなかった言葉なら、数えきれないほどある。
たとえば、紫音からわがままを言われた時。言音はカッと頭に血が上って感情任せに叱ってしまうことが多かった。その後、しゅんとした紫音から「ママ、ごめんなさい」と素直に謝られても、先ほど怒ってしまった手前、「いいよ」と許してあげることができなかった。
紫音は素直に気持ちを言葉にして伝えてくれていたのに。
自分はそんな息子の気持ちにすら応えてあげられないことがあった。
それも、一度や二度じゃない。子育てでストレスが溜まっていくうちに、何度も同じような場面に出くわして、
「ママのほうこそ怒ってごめんね」という言葉をのみ込んでしまった。母として、余計なプライドが邪魔をして素直になれなかった自分。感情を言葉にして伝える能力がまだまだ乏しいはずの四歳の息子のほうが、ずっと上手く胸のうちを吐き出してくれていた。
それから、夫の宏樹に対しても、思い当たる節がある。
宏樹とは大学生の頃から付き合い始めた。
お互いに二十一になる歳で、その後大学を卒業し、社会人四年目を迎える二十六歳の春に結婚した。だからもう、かれこれ十年以上そばにいることになる。
学生時代に宏樹と付き合い始めた頃は「好き」や「ありがとう」を躊躇いなく伝えられていたのに、最近はお互いの生活に干渉しまいとするように、「お疲れ」と「おやすみ」ぐらいしか、まともに言葉を交わせていなかった気がする。言音は育児に、宏樹は仕事に追われていて、一緒に暮らしているのにまるで別々の人生を歩んでいるかのような錯覚に陥っていた。
それでも宏樹が仕事で帰りが遅くなった夜に、先に眠っている言音に「今日もありがとう」と囁いてくれているのを知っていた。言音は布団に入ってから眠れないことが多く、目を閉じてじっとしていると、宏樹にそう言われて胸がじわりと温かくなるのを感じていた。
でも、眠っていると思われている手前、飛び起きて「こちらこそありがとう」と言うわけにもいかず、そのまま寝ているふりをして朝を迎えた。
紫音にも宏樹にも、もっと伝えられることがあったはずなのに。
ずっと、チャンスを自ら逃し続けて死んでしまった。
もう彼らに何も伝えられないやるせなさに、過去の自分のふがいなさに、胸がぎゅうぎゅうと締め付けられる。



