*
忘れたくても忘れられない記憶を思い出した春坂は、古びた本の匂いに、現実に引き戻された。
四十二歳で命を落とした春坂は、夏海に想いを伝えられなかった後悔を抱えていた。心の中で夏海への想いを叫び続けた結果、『言の葉書房』をつくりだしたのかもしれない。
ここにやってきた人たちに「言葉じゃなくても伝わる思いはある」と諭してきたけれど、それは春坂自身が一番できなかったことだった。
みんなには、自分と同じような後悔を抱えて死んでほしくなかったから——。
目の前にいる老婆の夏海が、「いろいろ思い出したのね」と呟く。
「あなたは最後、私を庇ってくれたわよね。そのお礼をずっと言いたかったの。言えないと分かっていたけれど、死んだ後でもいいから、どうにかして伝えたいって。そのチャンスに恵まれたのね」
「お礼なんて、そんなもの……」
「必要ないって、あなたは言うでしょうね。でも言わせて。あの時、命を救ってくれてありがとう」
「夏海先輩……」
夏海がなぜ、『言の葉書房』までたどり着けたのか分からない。けれど、「春坂に助けてもらったお礼を伝えられなかった」という未練が、夏海をこの場所まで連れてきてくれたのかもしれないと強く感じた。
「僕は、あの時」
夏海が春坂に、ずっと伝えたいことを伝えてすっきりした表情をしていた。
でも春坂だって、彼女に伝えたいことがあった。
夏海が「何?」とやさしく耳を傾ける。
「伝えようと思ってたんです。夏海先輩のことが好きだって……。でも、伝えられなかった。夏海先輩が告白してく
れた時、本当はすごく嬉しかったんですけど、僕が気持ちを伝えたら迷惑かけるかもって思うと、できませんでした。だけど事故に遭った時、やっぱり伝えたいって強く思ったです。でも、手が動かなくてできなくて、ずっと後悔していました」
関西弁ではない、生まれ育った土地の綺麗な標準語で夏海に後悔を伝えていく春坂。
夏海は一瞬目を丸くしたあと、やわらかく微笑んで言った。
「知ってたわ」
「え?」
何を? と春坂は夏海を見つめ返す。
「あなたが私を好きでいてくれること、知ってたよ。私に迷惑をかけるかもと遠慮していることも、分かってた。春坂くんは春坂くんなりに私のことを考えてくれたんだって分かったから、身を引いたの」
学生時代と変わらない口調で言いながら、夏海が眉を下げて笑った。二人の間に暖かな空気が流れ込んできたようだった。
「……バレていましたか」
「ええ、気づいてないと思うけど春坂くん、嘘をつくとすぐ顔に出るもの。私の告白を断った時もすぐに気づいた
わ。とはいえ、やっぱりショックだったけれどね」
「すみませんでした」
「謝ってほしいわけじゃないの。ねえ、実はね、あの日……あなたが事故に遭った日、あなたは二人の命を救ったのよ」
「……どういうことですか?」
夏海の言うことの意味が分からなかった。あの事故で、春坂が助けたのは夏海だけだったはずだ。
疑問に思いつつ夏海の顔を見つめていると、夏海が「娘よ」と笑みをこぼした。
「あの時、私のお腹に娘がいたの。私、三十過ぎに結婚したんだけどなかなか子どもに恵まれなくてね。不妊治療の末に授かった子だった。安定期に入って、ふとあなたに会いに行きたいと思ってた。もちろん、夫の了承を得た後よ」
夏海の話に、春坂は素直に目を丸くした。
まさかあの時、夏海のお腹に新しい命が宿っていたなんと思いもよらなかったのだ。
「僕は……ただ、夏海先輩を助けたくて」
「分かってるわ。でも結果的にあなたは私と娘の二人分の命を救ってくれた。本当に、ありがとう」
夏海が満足そうに言う。彼女の顔つきは、家庭を築き、一人の子どもを育て上げた立派な母親そのものだった。
「僕は」
どこからか『言の葉書房』に光が差し込んできた。春坂にはそれが天国へと続く道のように感じられた。
「後悔していました。あなたに気持ちを伝えられなかったことを。でも、あの事故に遭った日、気持ちを伝えなかっ
た自分を褒めてやりたくもなりました」
夏海が両目を見開く。
事故の時、春坂は夏海に気持ちを伝えないことで、夏海の子どもや夏海の家族との幸せな時間を守ったのだと感じることができた。
「……やっぱり春坂くんは、素敵な人ね」
ここに来て良かった、と夏海が呟く。
「初めてあなたと直接おしゃべりをしたけど、言葉が大事なわけじゃなかったのかもしれないわね。大切なのは、伝
えようとする気持ちだったのね」
長い人生の果てにようやく答えを見つけたというように、夏海はくふくふと笑いながら言った。
それから、春坂からくるりと踵を返して、先ほど春坂が見た光のほうへと進んでいく。よく見るとその光は『言の葉書房』の天井を突き抜ぬけて差して込んでいると分かった。
「夏海先輩、大好きでした」
夏海は振り返らない。
本棚に囲まれた場所で、光の筋に向かって手を伸ばす。
春坂はそんな彼女に寂しさを覚えつつも、精一杯の応援の気持ちを込めて、彼女の背中に声をかけた。
「いってらっしゃい」
〈了〉
忘れたくても忘れられない記憶を思い出した春坂は、古びた本の匂いに、現実に引き戻された。
四十二歳で命を落とした春坂は、夏海に想いを伝えられなかった後悔を抱えていた。心の中で夏海への想いを叫び続けた結果、『言の葉書房』をつくりだしたのかもしれない。
ここにやってきた人たちに「言葉じゃなくても伝わる思いはある」と諭してきたけれど、それは春坂自身が一番できなかったことだった。
みんなには、自分と同じような後悔を抱えて死んでほしくなかったから——。
目の前にいる老婆の夏海が、「いろいろ思い出したのね」と呟く。
「あなたは最後、私を庇ってくれたわよね。そのお礼をずっと言いたかったの。言えないと分かっていたけれど、死んだ後でもいいから、どうにかして伝えたいって。そのチャンスに恵まれたのね」
「お礼なんて、そんなもの……」
「必要ないって、あなたは言うでしょうね。でも言わせて。あの時、命を救ってくれてありがとう」
「夏海先輩……」
夏海がなぜ、『言の葉書房』までたどり着けたのか分からない。けれど、「春坂に助けてもらったお礼を伝えられなかった」という未練が、夏海をこの場所まで連れてきてくれたのかもしれないと強く感じた。
「僕は、あの時」
夏海が春坂に、ずっと伝えたいことを伝えてすっきりした表情をしていた。
でも春坂だって、彼女に伝えたいことがあった。
夏海が「何?」とやさしく耳を傾ける。
「伝えようと思ってたんです。夏海先輩のことが好きだって……。でも、伝えられなかった。夏海先輩が告白してく
れた時、本当はすごく嬉しかったんですけど、僕が気持ちを伝えたら迷惑かけるかもって思うと、できませんでした。だけど事故に遭った時、やっぱり伝えたいって強く思ったです。でも、手が動かなくてできなくて、ずっと後悔していました」
関西弁ではない、生まれ育った土地の綺麗な標準語で夏海に後悔を伝えていく春坂。
夏海は一瞬目を丸くしたあと、やわらかく微笑んで言った。
「知ってたわ」
「え?」
何を? と春坂は夏海を見つめ返す。
「あなたが私を好きでいてくれること、知ってたよ。私に迷惑をかけるかもと遠慮していることも、分かってた。春坂くんは春坂くんなりに私のことを考えてくれたんだって分かったから、身を引いたの」
学生時代と変わらない口調で言いながら、夏海が眉を下げて笑った。二人の間に暖かな空気が流れ込んできたようだった。
「……バレていましたか」
「ええ、気づいてないと思うけど春坂くん、嘘をつくとすぐ顔に出るもの。私の告白を断った時もすぐに気づいた
わ。とはいえ、やっぱりショックだったけれどね」
「すみませんでした」
「謝ってほしいわけじゃないの。ねえ、実はね、あの日……あなたが事故に遭った日、あなたは二人の命を救ったのよ」
「……どういうことですか?」
夏海の言うことの意味が分からなかった。あの事故で、春坂が助けたのは夏海だけだったはずだ。
疑問に思いつつ夏海の顔を見つめていると、夏海が「娘よ」と笑みをこぼした。
「あの時、私のお腹に娘がいたの。私、三十過ぎに結婚したんだけどなかなか子どもに恵まれなくてね。不妊治療の末に授かった子だった。安定期に入って、ふとあなたに会いに行きたいと思ってた。もちろん、夫の了承を得た後よ」
夏海の話に、春坂は素直に目を丸くした。
まさかあの時、夏海のお腹に新しい命が宿っていたなんと思いもよらなかったのだ。
「僕は……ただ、夏海先輩を助けたくて」
「分かってるわ。でも結果的にあなたは私と娘の二人分の命を救ってくれた。本当に、ありがとう」
夏海が満足そうに言う。彼女の顔つきは、家庭を築き、一人の子どもを育て上げた立派な母親そのものだった。
「僕は」
どこからか『言の葉書房』に光が差し込んできた。春坂にはそれが天国へと続く道のように感じられた。
「後悔していました。あなたに気持ちを伝えられなかったことを。でも、あの事故に遭った日、気持ちを伝えなかっ
た自分を褒めてやりたくもなりました」
夏海が両目を見開く。
事故の時、春坂は夏海に気持ちを伝えないことで、夏海の子どもや夏海の家族との幸せな時間を守ったのだと感じることができた。
「……やっぱり春坂くんは、素敵な人ね」
ここに来て良かった、と夏海が呟く。
「初めてあなたと直接おしゃべりをしたけど、言葉が大事なわけじゃなかったのかもしれないわね。大切なのは、伝
えようとする気持ちだったのね」
長い人生の果てにようやく答えを見つけたというように、夏海はくふくふと笑いながら言った。
それから、春坂からくるりと踵を返して、先ほど春坂が見た光のほうへと進んでいく。よく見るとその光は『言の葉書房』の天井を突き抜ぬけて差して込んでいると分かった。
「夏海先輩、大好きでした」
夏海は振り返らない。
本棚に囲まれた場所で、光の筋に向かって手を伸ばす。
春坂はそんな彼女に寂しさを覚えつつも、精一杯の応援の気持ちを込めて、彼女の背中に声をかけた。
「いってらっしゃい」
〈了〉



