言の葉はさよならまでの栞

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 春坂はごく普通の一般家庭に生まれ育った。中学生になるまで特に何事もなく、多くはないが友達にも囲まれて楽しく過ごしていた。
 けれど、中学一年生から中学二年生にかけて、春坂は聴覚障害を発症してしまった。
 だんだんと耳が聞こえなくなり、ついに音を失った。
 最初は突発的なものかと思っていたが、そうではない。
 春坂の耳は思春期以降、四十二歳で死ぬまでずっと、聞こえないままだった。
 開けていた彼の世界は急速に幅を狭め、春坂から当たり前の日常を奪っていった。
 友達と仲良く話すことも、外で元気に遊ぶこともしなくなった。
 耳が聞こえないということは、思っていた以上に日常での支障が大きく、春坂はどんどん自分の殻に閉じこもるようになった。
 唯一、本を読むことだけは好きだった。
 本を読んでいる時は、周りの音が聞こえなくなったって平気だった。頭の中で物語の世界を想像するだけで済む。それが、春坂の心を温めた。けれど、物語に触れるたび、外の世界の春坂は死んでいくようだった。

 そんな春坂に人生の転機が訪れたのは、大学一年生の春のこと。
 その頃になると手話もマスターし、音のない世界には慣れていた。 
 しかし、対人関係に関してはずっと平行線のまま。誰かと深い仲になるのを避け、自分の世界の中でひっそりと息を潜めて生きていた。
 大学生になっても、サークルなどには入らず、自分のペースで勉学だけに励もうと思っていたのだが——。

——ねえ、良かったら手話サークルに入らない?

 四月、大学構内を歩いていると、サークルの勧誘をしている先輩たちが春坂に次々と声をかけてくるのが分かった。でも、耳の聞こえない春坂にはもちろん誰の勧誘の声も届かない。
 そんな中、春坂の肩をトントンと叩き、手話でそう話しかけてくれたのが、江藤夏海だったのだ。

——……手話サークル?

——そう。手話で会話をするだけのサークル。のんびりやってるよ。きみにぴったりじゃないかと思って。

 どういうわけか、夏海は春坂が聴覚障害者だということに気づいていたらしい。
 何のサークルに入る予定もなかったけれど、この時春坂は夏海が自分を健常者と同じように扱ってくれるような気がして、気がつけば深く頷いていた。

 それからの日々は、まさに、春坂にとっての〝春〟だった。
 手話サークルで他愛のない会話をし、夏海ともたくさんおしゃべりをした。サークルのメンバーは全員で十人と少なめだったが、みんな本気で手話を学んでいるようで、流れるように会話をすることができた。時折、春坂が先輩たちに手話を教えることもあり、みんなで盛り上がった。
 久しぶりの感覚に、春坂はようやく生きた心地がした。
 夏海とはサークル以外でも度々落ち合うようになり、一緒に食事をしに行ったり、遊びに行ったりした。
 学年は違うけれど、同じ講義を受けて、教授が話すことを翻訳してくれることもあった。
 夏海は、春坂が生きていく道を見失わないように、そばで支え続けてくれた。
 そんな彼女を好きになるのも、時間の問題だった。
 けれど、彼女に告白するなんておこがましいことは、春坂にはできなかった。


——春坂くんのことが好きなの。これからもずっと好きだと思う。私と、付き合ってください。

 社会人一年目の春。
 夏海から告白された。
 夏海は社会人二年目で、二人とも大人になっていた。 
 春坂も夏海のことがまだ好きだったが、夏海の告白を断った。 
 だって、自分と一緒にいたら、この人はずっと大変な思いをするじゃないか——。
 春坂の中でどうしても、自分が健常者と付き合ったり結婚したりする未来を思い浮かべられなかったのだ。 
 春坂から告白の返事を聞いた夏海の顔がくしゃりと歪むのを、春坂は間近で目にした。胸がひりついて、心が砕けた。
 もうだめだと思った。
 もう夏海には会えない。二度と会うことは許されない。
 支えてくれた人を鋭い刃で傷つけてしまった自分は、彼女に会う資格はないのだ。
 そう感じた春坂は、夏海の前から姿を消した。
 すべてを忘れようと、東京から離れ、京都までやってきた。
 京都で古本屋『道端(みちばた)書房』をひっそりと開き、自分一人で切り盛りしてきた。お店の扉が開くと、「ちりん」という風鈴のような音がする店を、春坂は大切な居場所だと感じるようになった。
 二十年ほどの時が流れ、いつしかこの地で暮らす自分の人生がすべてだったような錯覚に陥った。ゆっくりと、胸の痛みは薄れていった。何かが鈍くなっていくような感覚だった。
 だけど、夏海のことはただの一度も忘れられなかった。

 忘れられないまま、二十年の時が流れた。
 
 春、どこからともなく桜の花びらが飛んできて、お店の前にぽつぽつと模様をつくった。
 夏、灼熱の太陽がアスファルトを照りつけ、客足はぐっと減った。
 秋、紅葉シーズンでやってくる観光客たちが時々店を訪れてくれて、読書の秋を深く感じた。
 冬、枯葉の擦れる音がそこかしこから聞こえてきて、人恋しさに両手を擦り合わせ——。

 ブブーッ!!
 
 耳をつんざくような車のブレーキ音が静かな道路に響き渡る。
 ある冬の日の夕方、『道端書房』を一時的に閉めて買い物をして帰ってくると、すぐ近くの交差点を一台の車が突進してきたのだ。
 そして、どういうわけか交差点に見知った人物が立っていた。
 最後に目にした時からだいぶ年はとっているけれど、春坂にはそれが夏海であることがすぐに分かった。しかも、急ブレーキをかけた車が、ブレーキを十分に効かせられず夏海にぶつかろうとしていた。夏海は目を大きく見開き、 自分に向かってくる車を捉えたまま、恐怖で身体が固まって動けなくなっているようだった。
 どうして東京にいるはずの夏海がここに——と考える暇もなく、春坂は全力で走って、夏海を突き飛ばしていた。
 その刹那、車は夏海ではなく、春坂にぶつかって——。
 ひどい衝撃と共に、春坂は倒れた。
 夏海が春坂に向かって何かを叫んでいるのが見えた。
 車から降りた運転手が駆け寄ってくるのが見えた。
 春坂は自分が死に近づいているのを悟った。

(いやや……こんなことなら、夏海先輩に気持ちを)

 伝えておけば良かった。
 すべてわがままだと自覚していたが、死の間際、自分のことしか考えられなくなったのだ。
 春坂はだらりと力の抜けた腕をなんとか動かして、夏海に向かって「好き」と伝えようとした。夏海はすでに結婚しているかもしれないとも思ったが、それでも伝えたかった。
 だが、できなかった。
 身体は自分のものではないかのように、少しも動かなかったのだ。
 この時ほど、喋れないことを恨んだことはない。
 声だけでも発することができれば……伝えられたかもしれないのに。
 やがて春坂は、涙で顔を濡らす夏海に何も言うことができず、そのまま息を引き取ったのだ。