言の葉はさよならまでの栞

「未練解消、か」

 誰もいない『言の葉書房』で、ハルサカは一人、『葉山紬』と背表紙に書かれたノートを本棚にしまう。
 紬は現世で隼人と気持ちを通じ合わせたあと、『言の葉書房』に戻ってこなかった。
 もう何も、紬の中で残っている言葉がなかったのだろう。
 現世で満足したまま、天国へ昇っていった。そういう最後もあるのだと、ハルサカは初めて知った。

「お久しぶりだわね、春坂(はるさか)くん」

「‼︎」

 ここにやってきた人たちのノートの背表紙を見つめていると、不意に後ろから女性の声が飛んできた。その瞬間、時が止まったかのよ
うに、ハルサカの心臓が跳ねる。

「そんなに驚かなくてもいいじゃない。私だってもう、八十過ぎてるのよ? 死んだっておかしくないでしょ」

 その声は、女性の声だった。
 年相応にしわがれていて、「八十を過ぎている」女性の声そのものだ。
 ハルサカこと春坂(かなめ)の耳にはやわらかく澄んだ響きを帯びているように感じられた。
 瞬時に誰の声なのか理解した。理解した途端、鼓動がぐんぐん速まって平静を保っていられなくなった。
 初めて聞いた、あの人の声。
 春坂の初恋の人——江藤夏海(えとうなつみ)が、振り返った先に立っていた。
 八十過ぎのおばあちゃんとは思えないほど、背筋はピンと伸びて髪の毛も綺麗に整えられている。春坂の記憶の中の彼女は四十代で止まっているけれど、はっきりと面影があった。

「……夏海先輩」

 ハルサカの声が震えている。夏海が「はい」と瞳を三日月型に細めた。

「どうしてここに……。お亡くなりになりはったんですか……?」

「ええ、そうみたい。肺の病気でね。参っちゃうわよね。年取ったら軽い病気でもぽっくり逝っちゃうことがあるんだって実感した
わ」

 自分のことなのに、他人事のように笑いながら話す夏海は、春坂が知っている彼女そのものだった。
何事にも動じずに、凛としたまなざしでまっすぐ前を見つめている人。
春坂の中の彼女は、いつもそういう強くしなやかな女性だった。

「春坂くんが〝番人〟をやってる古本屋があるっていう情報を仕入れてね。それでなんとかここに漕ぎ着けたの。すごいでしょ」

 えへん、と胸を反らしながら得意げに夏海が言う。

「情報って、どうやって? いやそんなことより、どうして僕のところに」

 春坂は普段、ここにやってくる人たちに対しては「私」という一人称を使っているが、夏海の前では素の自分が出てしまっていた。

「私の未練を解消しにきたの。あなたと言葉を交わしてみたいっていう」

「……!」

 あなたと言葉を交わしてみたい。
 夏海の願いを聞いて、春坂はすんと息をのんだ。
 春坂は、自然と自分の生きていた頃の記憶を手繰り寄せる。