その後も、言音は何度も宏樹と紫音に自分が言音であることを訴えようとしたが、全然うまくいかなかった。
今日は日曜日のようで宏樹はずっと自宅にいてくれたのに、何も伝えられないのがもどかしくて仕方がない。
やがて夜が来て、みんなが寝静まった後も言音は時々起きて、どうするべきかずっと考えていた。
「ママ……ママぁ」
深夜、だいぶ意識が遠のいてきてようやく眠れそうだと感じていた時、キングサイズのベッドの上で、宏樹を挟んで向こう側に眠っていた紫音のうわ言のような声が聞こえてきた。
その刹那、言音の意識が再び覚醒する。
「ううっ……ママ……どこにいるの」
聞いたことのないようなか細い声。寝言なのか、意識があるのか判然としない。
言音はなんとか起き上がって紫音のほうへと行こうとするも、まだ寝返りをし始めたばかりの花音の運動能力では、まともに顔を上げることすらできなかった。
紫音……紫音……!
今すぐ彼の元へ行って抱きしめたいと、言音は切に思う。
寂しかったね。
突然死んじゃってごめんね。
会いたかったよ。
これからもずっと一緒にいたいよ。
ありったけの「ごめんね」を伝えて、「ママはここにいるよ」と言いたいのに。
身体がいうことをきかない。なにより、伝えられるはずがない。花音は言葉を話すことができないのだから。
言音自身迷った末に、それでも戻ってきたのは、どうしても愛する家族に会いたかったから。もう一度だけ会って、どうにかして彼らへの想いを伝えたかったから。
だけど、やっぱり……。
(こんなの、苦しいだけじゃない)
近くにいるのに抱きしめることも口を利くこともできないということが、予想以上にきつい。
その事実を思い知って、言音は胸がちりちりと焼けるような気持ちを覚えた。
やがて紫音は再び睡魔に襲われたのか、すーすーと寝息を立てて眠ってしまった。
そっと隣で眠っている宏樹を見やる。
彼も、眉根をギュッと寄せて寝苦しそうに歯軋りをしていた。
そんな夫の寝顔を見つめては、襲い来る胸の痛みがどんどん増しているのに気づかないふりをして、言音は静かに目を閉じるのだった。
翌朝、よく眠れないまま目が覚める。
花音は普段、夜通しで六時間ほど寝るが、まだまだ夜中に授乳をしている時期だった。だから宏樹も花音が夜中に目を覚ますと思っていたんだろう。朝七時に起きてきた宏樹は「ぐっすりだったね」と花音に擬態した言音に語りかける。
「あう、あううう」
お腹が空いた。
本当は宏樹にもっと伝えたいことがあるはずなのに、最初に出てきた感情はあまりにも単純な欲求だった。
「はいはい、ミルクでしゅね」
紫音はまだ眠っている。ワイシャツの袖を通しながら、宏樹がミルクを作り始める。片手には食パンを持ち、食パ
ンをトースターに入れた。
そうか。今日は平日なんだ。
言音が死んでも、宏樹の仕事はもちろん続いていく。会社からはしばらく休んでもいいと言われたとは思うが、真面目な宏樹のことだ。こんな時だからこそ働かねばと、頑張っているに違いなかった。
トースターがチン、と鳴る音と、湯沸かしポットでお湯が沸いた音がしたのが同時だった。
「パパ……」
寝室から、毛布を片手に持った紫音が起きてくる。まぶたも涙袋も真っ赤に腫れていて、昨日の夜の出来事が瞬時にフラッシュバックした。
「おお、どうした紫音。怖い夢でも見た?」
食パンに齧り付いていた宏樹が、食パンをお皿の上に置いてから紫音に近づいた。
「ママがいなくて……」
言葉足らずなその一言で宏樹はすぐに紫音の気持ちに気づいたらしく、「そうだな」と紫音の背中をさする。
「紫音はママが大好きだったもんな」
「うん……。カノちゃんもパパも、ママのことだいすきでしょ?」
「……ああ」
「ぼく、ママがいつ帰ってきてもいいようにうんといい子になるから。カノちゃんにミルクだってあげるし、パパのお仕事もお手伝いする。そしたらママ、すぐ帰ってきてくれるかな」
「っ‼︎」
宏樹の口から、声にならない悲鳴のような吐息が漏れるのを、言音は息を潜めて見守っていた。
ドクドクドクドク、と小さな花音の心臓がものすごい速さで脈打ち始める。
これ以上、紫音の言葉を聞きたくないっ。
心が勝手に拒否してしまう。
あんなに紫音にも宏樹にも会いたかったはずなのに。
自分が死んだせいで悲しい顔をしている紫音も、そんな紫音の心中を察して悲痛な表情を浮かべる宏樹も、言音は見ているだけであまりに辛かった。
「……カノちゃんにミルクあげよう。手伝ってくれる?」
「うん」
宏樹が紫音の頭をよしよしと撫でる。紫音が少しだけ安心したように眉を上げた。
昨日と同じように、宏樹に抱き上げられる。でも、昨日とは違って、宏樹の傍らからミルクをくれたのは紫音だった。哺乳瓶を持つ紫音の手が、思っていた以上に大きいことに気づく。
(ああ、私)
ごくごくと喉を鳴らしながら、言音は気づいた。
花音が生まれてから、花音の世話に追われて紫音の成長に気づいていなかったんだ——。
今更そんなことに気づかされて、込み上げるものがあった。
もっと……もっと紫音のことを見てあげたら良かった。
どうしても赤ん坊の花音のほうに気がいきがちになっていたここ数ヶ月間のことを思い出して、古傷が痛むようにじわじわと切ない気持ちが広がっていく。
「ぐっふう~」
ミルクを飲み終えてゲップを出すと、紫音が花音の——言音の口元を指で拭ってくれた。
「カノちゃんがんばったね」
優しい兄の言葉に、妹である花音がきゃっきゃっと笑う——そんな兄妹の仲睦まじい光景も、もう二度と見ることができないのだ。
それならばせめて、今この瞬間に紫音に「愛してる」と伝えたい。
伝えたいのに——それが叶わない。
昨晩も感じた痛みが、死んでしまった言音の心を暗闇に引き摺り込む。
こんなことなら、現世に戻ってくるんじゃなかった。
ハルサカさんに頼んで、もう終わりにしてもらうしかない。
そうでないと、紫音や宏樹の心が擦り切れていく姿を何度も目の当たりにして、もっと辛い気持ちになるだけだ。
決意した言音は、「ハルサカさん」と心の中で名前を呼ぶ。
『言の葉書房』に戻してください。
目を瞑り、必死に願いを唱えると、まぶたの向こうの光景がぱああっと白く光った。
上へ昇っていく——その感覚に包まれながら、言音は口を固く結んで、荒れていた心をできるだけ平坦になるように戻していく。
そして、言音が現世から離れていく瞬間。
「ママ……?」
不意に、紫音の声がした。それから「言音?」と宏樹が言音を呼ぶ声も。
(え……?)
声を出せない言音は、心の声で反応をする。でももちろん、二人には届かない。
ちょっと待って……!
言音は叫んだ。声にならない声で、精一杯に。けれど、言音の願いも虚しく、言音の魂は再びあの古紙の香りが漂う『言の葉書房』へと舞い戻るのだった。
今日は日曜日のようで宏樹はずっと自宅にいてくれたのに、何も伝えられないのがもどかしくて仕方がない。
やがて夜が来て、みんなが寝静まった後も言音は時々起きて、どうするべきかずっと考えていた。
「ママ……ママぁ」
深夜、だいぶ意識が遠のいてきてようやく眠れそうだと感じていた時、キングサイズのベッドの上で、宏樹を挟んで向こう側に眠っていた紫音のうわ言のような声が聞こえてきた。
その刹那、言音の意識が再び覚醒する。
「ううっ……ママ……どこにいるの」
聞いたことのないようなか細い声。寝言なのか、意識があるのか判然としない。
言音はなんとか起き上がって紫音のほうへと行こうとするも、まだ寝返りをし始めたばかりの花音の運動能力では、まともに顔を上げることすらできなかった。
紫音……紫音……!
今すぐ彼の元へ行って抱きしめたいと、言音は切に思う。
寂しかったね。
突然死んじゃってごめんね。
会いたかったよ。
これからもずっと一緒にいたいよ。
ありったけの「ごめんね」を伝えて、「ママはここにいるよ」と言いたいのに。
身体がいうことをきかない。なにより、伝えられるはずがない。花音は言葉を話すことができないのだから。
言音自身迷った末に、それでも戻ってきたのは、どうしても愛する家族に会いたかったから。もう一度だけ会って、どうにかして彼らへの想いを伝えたかったから。
だけど、やっぱり……。
(こんなの、苦しいだけじゃない)
近くにいるのに抱きしめることも口を利くこともできないということが、予想以上にきつい。
その事実を思い知って、言音は胸がちりちりと焼けるような気持ちを覚えた。
やがて紫音は再び睡魔に襲われたのか、すーすーと寝息を立てて眠ってしまった。
そっと隣で眠っている宏樹を見やる。
彼も、眉根をギュッと寄せて寝苦しそうに歯軋りをしていた。
そんな夫の寝顔を見つめては、襲い来る胸の痛みがどんどん増しているのに気づかないふりをして、言音は静かに目を閉じるのだった。
翌朝、よく眠れないまま目が覚める。
花音は普段、夜通しで六時間ほど寝るが、まだまだ夜中に授乳をしている時期だった。だから宏樹も花音が夜中に目を覚ますと思っていたんだろう。朝七時に起きてきた宏樹は「ぐっすりだったね」と花音に擬態した言音に語りかける。
「あう、あううう」
お腹が空いた。
本当は宏樹にもっと伝えたいことがあるはずなのに、最初に出てきた感情はあまりにも単純な欲求だった。
「はいはい、ミルクでしゅね」
紫音はまだ眠っている。ワイシャツの袖を通しながら、宏樹がミルクを作り始める。片手には食パンを持ち、食パ
ンをトースターに入れた。
そうか。今日は平日なんだ。
言音が死んでも、宏樹の仕事はもちろん続いていく。会社からはしばらく休んでもいいと言われたとは思うが、真面目な宏樹のことだ。こんな時だからこそ働かねばと、頑張っているに違いなかった。
トースターがチン、と鳴る音と、湯沸かしポットでお湯が沸いた音がしたのが同時だった。
「パパ……」
寝室から、毛布を片手に持った紫音が起きてくる。まぶたも涙袋も真っ赤に腫れていて、昨日の夜の出来事が瞬時にフラッシュバックした。
「おお、どうした紫音。怖い夢でも見た?」
食パンに齧り付いていた宏樹が、食パンをお皿の上に置いてから紫音に近づいた。
「ママがいなくて……」
言葉足らずなその一言で宏樹はすぐに紫音の気持ちに気づいたらしく、「そうだな」と紫音の背中をさする。
「紫音はママが大好きだったもんな」
「うん……。カノちゃんもパパも、ママのことだいすきでしょ?」
「……ああ」
「ぼく、ママがいつ帰ってきてもいいようにうんといい子になるから。カノちゃんにミルクだってあげるし、パパのお仕事もお手伝いする。そしたらママ、すぐ帰ってきてくれるかな」
「っ‼︎」
宏樹の口から、声にならない悲鳴のような吐息が漏れるのを、言音は息を潜めて見守っていた。
ドクドクドクドク、と小さな花音の心臓がものすごい速さで脈打ち始める。
これ以上、紫音の言葉を聞きたくないっ。
心が勝手に拒否してしまう。
あんなに紫音にも宏樹にも会いたかったはずなのに。
自分が死んだせいで悲しい顔をしている紫音も、そんな紫音の心中を察して悲痛な表情を浮かべる宏樹も、言音は見ているだけであまりに辛かった。
「……カノちゃんにミルクあげよう。手伝ってくれる?」
「うん」
宏樹が紫音の頭をよしよしと撫でる。紫音が少しだけ安心したように眉を上げた。
昨日と同じように、宏樹に抱き上げられる。でも、昨日とは違って、宏樹の傍らからミルクをくれたのは紫音だった。哺乳瓶を持つ紫音の手が、思っていた以上に大きいことに気づく。
(ああ、私)
ごくごくと喉を鳴らしながら、言音は気づいた。
花音が生まれてから、花音の世話に追われて紫音の成長に気づいていなかったんだ——。
今更そんなことに気づかされて、込み上げるものがあった。
もっと……もっと紫音のことを見てあげたら良かった。
どうしても赤ん坊の花音のほうに気がいきがちになっていたここ数ヶ月間のことを思い出して、古傷が痛むようにじわじわと切ない気持ちが広がっていく。
「ぐっふう~」
ミルクを飲み終えてゲップを出すと、紫音が花音の——言音の口元を指で拭ってくれた。
「カノちゃんがんばったね」
優しい兄の言葉に、妹である花音がきゃっきゃっと笑う——そんな兄妹の仲睦まじい光景も、もう二度と見ることができないのだ。
それならばせめて、今この瞬間に紫音に「愛してる」と伝えたい。
伝えたいのに——それが叶わない。
昨晩も感じた痛みが、死んでしまった言音の心を暗闇に引き摺り込む。
こんなことなら、現世に戻ってくるんじゃなかった。
ハルサカさんに頼んで、もう終わりにしてもらうしかない。
そうでないと、紫音や宏樹の心が擦り切れていく姿を何度も目の当たりにして、もっと辛い気持ちになるだけだ。
決意した言音は、「ハルサカさん」と心の中で名前を呼ぶ。
『言の葉書房』に戻してください。
目を瞑り、必死に願いを唱えると、まぶたの向こうの光景がぱああっと白く光った。
上へ昇っていく——その感覚に包まれながら、言音は口を固く結んで、荒れていた心をできるだけ平坦になるように戻していく。
そして、言音が現世から離れていく瞬間。
「ママ……?」
不意に、紫音の声がした。それから「言音?」と宏樹が言音を呼ぶ声も。
(え……?)
声を出せない言音は、心の声で反応をする。でももちろん、二人には届かない。
ちょっと待って……!
言音は叫んだ。声にならない声で、精一杯に。けれど、言音の願いも虚しく、言音の魂は再びあの古紙の香りが漂う『言の葉書房』へと舞い戻るのだった。



