***
再び、目を覚ます。
橙色の光が、アスファルトを染め上げていた。
三日目の夕方。紬が現世から離れるまで、およそ三時間といったところだろうか。
時間がない。
一刻も早く学校に行くべく、自宅近くの住宅街の道を駆け出した。
「あら、猫ちゃん」
その時ふと、後ろから聞き覚えのある声が飛んできて足を止めた。
振り返ると、そこに立っていたのは百日紅の花を一つ手にした紬の母だった。
「にゃん」
まさか道端で母親に出くわすとは思っておらず、紬は困惑する。でも、会えて嬉しいという素直な気持ちが湧き上がってきた。
母親は紬に近寄ってきて、どういうわけか、手に持っていて百日紅を耳の横につけてくれた。
「防犯カメラに映ってたの。あなたがうちの玄関にこれを届けてくれたんでしょう? 白い毛並みによく似合うわ」
防犯カメラ。
そういえば、紬の家には安物の防犯カメラが設置してあるのだった。普段全然映像を確認することがないので忘れていたけれど、そこに百日紅を置いていく自分の姿が映っていたのかと理解する。
「なんだか紬みたいなことをするのねぇ。嬉しかったわ。ありがとう」
紬の頭を優しく撫でながら、母親の目がすっと細められる。
昔、紬がまだほんの小さな子どもだった頃、何かにつけて母親がこうして「よくできたね」「頑張ったね」と紬の頭を撫でてくれたのを思い出す。
(お母さん……)
母親を呼ぶことは叶わない。「紬だよ」と教えてあげることもできない。
でも、紬の母は目の前にいる白猫から、紬の存在を感じてくれているのだ。
——言葉を話せなくても、伝えられる気持ちはある。
ハルサカの言っていたことが本当だったのだと、紬は初めて実感した。
「にゃ、にゃにゃん」
ひとしきり母親に頭を撫でられた後、紬はくるりと尻尾を母親のほうに向けて歩き出す。
「あら、行ってらっしゃい」
十七年間聞き続けた、ありふれたその言葉を背中で受け止める。
頭には百日紅。まだ、母親の手の温もりがじんわりと残っていた。
「にゃにゃ!」
学校にたどり着き、バスケ部の部室へと向かうと部室の扉が少し、開いていた。
どうやらまだ部活は始まっていないらしい。紬が部室の中を覗くと、他の部員たちはみんな体育館へ向かったのか、隼人だけが部室の真ん中に突っ立っていた。
「ああ、おもちか」
窓から差し込む西日に黄昏ていたのか、紬が部室に入ってきても、隼人はしばらくぼうっとしていた。足元に来て
ようやく白猫の存在に気づく。
「なんだその花。綺麗だな」
隼人の手が紬の耳に伸びてくる。百日紅にそっと触れた後、「似合ってるぞ」と言ってくれた。
「なぁおもち。今日はもう、帰ろうかな」
「にぃ……?」
今から部活だというのになぜ。
それとも今日は、部活が休みなのだろうか?
と一瞬考えたが、部室の中に他のメンバーの荷物が置かれているところを見ると、休みではなさそうだ。
だったらなぜ……隼人が「帰ろう」なんて言うのか、理解できなかった。
「気分が乗らなくなったんだよなー。ってこんなこと言っても伝わらねえか」
(伝わってるよ、全部)
心の中で返事をする。だけどもちろん、紬の言葉は隼人には伝わらない。
今日の隼人はなんだか元気がない。もしかして、暦と一緒に帰った際に暦から言われたことを気にしているのだろうか。それとも単に、体調が悪いとか……?
どうしよう、と紬は迷った。
紬が現世にいられるのはあと三時間ほどだ。
さっき、紬の母親と出会ったことで、「言葉を話せなくても伝えられる気持ちがある」ということを肌で実感した。
だったら隼人にだって、言葉がなくても伝えられる気持ちがあるんじゃないだろうか。
一度そう思い立つと、いても立ってもいられなくなった。
紬は、隼人の制服のズボンを口に咥えて引っ張る。
「わ、おもちどうした?」
不思議そうな隼人の声が静寂に満ちた部室に響き渡る。それでも構わず、紬は「こっち」と言うように、スボンを咥えたまま、扉のほうへと行こうとした。
「外に出たいのか? いいよ」
紬の真意にようやく気づいてくれた隼人が、部室の外へと歩き出す。
「え、まだ行くの? ひょっとして俺と散歩したい?」
「にゃん!」
「なんだろうな。でも楽しそうだし、一緒に散歩すっか」
部室から出た後も歩みを止めない紬に、訝しがりながらも隼人はついてきてくれた。
隼人がついてきてくれることが分かって、紬はようやく彼のズボンから口を離す。
次第に隼人の足取りが軽くなっていくのを感じていた。
再び、目を覚ます。
橙色の光が、アスファルトを染め上げていた。
三日目の夕方。紬が現世から離れるまで、およそ三時間といったところだろうか。
時間がない。
一刻も早く学校に行くべく、自宅近くの住宅街の道を駆け出した。
「あら、猫ちゃん」
その時ふと、後ろから聞き覚えのある声が飛んできて足を止めた。
振り返ると、そこに立っていたのは百日紅の花を一つ手にした紬の母だった。
「にゃん」
まさか道端で母親に出くわすとは思っておらず、紬は困惑する。でも、会えて嬉しいという素直な気持ちが湧き上がってきた。
母親は紬に近寄ってきて、どういうわけか、手に持っていて百日紅を耳の横につけてくれた。
「防犯カメラに映ってたの。あなたがうちの玄関にこれを届けてくれたんでしょう? 白い毛並みによく似合うわ」
防犯カメラ。
そういえば、紬の家には安物の防犯カメラが設置してあるのだった。普段全然映像を確認することがないので忘れていたけれど、そこに百日紅を置いていく自分の姿が映っていたのかと理解する。
「なんだか紬みたいなことをするのねぇ。嬉しかったわ。ありがとう」
紬の頭を優しく撫でながら、母親の目がすっと細められる。
昔、紬がまだほんの小さな子どもだった頃、何かにつけて母親がこうして「よくできたね」「頑張ったね」と紬の頭を撫でてくれたのを思い出す。
(お母さん……)
母親を呼ぶことは叶わない。「紬だよ」と教えてあげることもできない。
でも、紬の母は目の前にいる白猫から、紬の存在を感じてくれているのだ。
——言葉を話せなくても、伝えられる気持ちはある。
ハルサカの言っていたことが本当だったのだと、紬は初めて実感した。
「にゃ、にゃにゃん」
ひとしきり母親に頭を撫でられた後、紬はくるりと尻尾を母親のほうに向けて歩き出す。
「あら、行ってらっしゃい」
十七年間聞き続けた、ありふれたその言葉を背中で受け止める。
頭には百日紅。まだ、母親の手の温もりがじんわりと残っていた。
「にゃにゃ!」
学校にたどり着き、バスケ部の部室へと向かうと部室の扉が少し、開いていた。
どうやらまだ部活は始まっていないらしい。紬が部室の中を覗くと、他の部員たちはみんな体育館へ向かったのか、隼人だけが部室の真ん中に突っ立っていた。
「ああ、おもちか」
窓から差し込む西日に黄昏ていたのか、紬が部室に入ってきても、隼人はしばらくぼうっとしていた。足元に来て
ようやく白猫の存在に気づく。
「なんだその花。綺麗だな」
隼人の手が紬の耳に伸びてくる。百日紅にそっと触れた後、「似合ってるぞ」と言ってくれた。
「なぁおもち。今日はもう、帰ろうかな」
「にぃ……?」
今から部活だというのになぜ。
それとも今日は、部活が休みなのだろうか?
と一瞬考えたが、部室の中に他のメンバーの荷物が置かれているところを見ると、休みではなさそうだ。
だったらなぜ……隼人が「帰ろう」なんて言うのか、理解できなかった。
「気分が乗らなくなったんだよなー。ってこんなこと言っても伝わらねえか」
(伝わってるよ、全部)
心の中で返事をする。だけどもちろん、紬の言葉は隼人には伝わらない。
今日の隼人はなんだか元気がない。もしかして、暦と一緒に帰った際に暦から言われたことを気にしているのだろうか。それとも単に、体調が悪いとか……?
どうしよう、と紬は迷った。
紬が現世にいられるのはあと三時間ほどだ。
さっき、紬の母親と出会ったことで、「言葉を話せなくても伝えられる気持ちがある」ということを肌で実感した。
だったら隼人にだって、言葉がなくても伝えられる気持ちがあるんじゃないだろうか。
一度そう思い立つと、いても立ってもいられなくなった。
紬は、隼人の制服のズボンを口に咥えて引っ張る。
「わ、おもちどうした?」
不思議そうな隼人の声が静寂に満ちた部室に響き渡る。それでも構わず、紬は「こっち」と言うように、スボンを咥えたまま、扉のほうへと行こうとした。
「外に出たいのか? いいよ」
紬の真意にようやく気づいてくれた隼人が、部室の外へと歩き出す。
「え、まだ行くの? ひょっとして俺と散歩したい?」
「にゃん!」
「なんだろうな。でも楽しそうだし、一緒に散歩すっか」
部室から出た後も歩みを止めない紬に、訝しがりながらも隼人はついてきてくれた。
隼人がついてきてくれることが分かって、紬はようやく彼のズボンから口を離す。
次第に隼人の足取りが軽くなっていくのを感じていた。



