言の葉はさよならまでの栞

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「私、やっぱりダメみたいです」

『言の葉書房』に戻ってから、開口一番に紬はそう言った。ハルサカが「ほう」と紬の話に耳を傾ける。

「現世に行くのはもうやめはるんですか?」

「それは……」

 ここで「やめる」と口にすれば、ハルサカは本当に紬を現世に行けなくしてしまうだろう。もうやめにしてしまいたいという気持ちが確かにあるはずなのに、はっきりと「やめる」と口にできない。ちぐはぐな感情に、紬自身、戸惑っていた。
 表情に迷いを浮かべたまま固まった紬を見かねたのか、ハルサカが徐に立ち上がり、本棚のほうへと手を伸ばす。例の、みんなのノートが収納されている本棚だ。そこから、『内海言音』と背表紙に書かれた一冊を取り出して、開いた。
 角度的に紬にはノートの中身が見えなかったけれど、ハルサカがそこに書かれている一文を、声に出して読んでくれた。

「『言葉は……私にとって、さよならの時までずっと挟んでおきたい栞みたいなものでした。さよならをした後、それでもまだ伝えられることがあるって、続いていくものがあるって、信じていたいです』——これが、ここにやって来た女性の言葉です」

「さよならの時までの、栞……」

 詩的な表現だなと思った。
栞自体に、「まだ伝えられることがある」「続いていくものがある」と意味を見出しているところが素敵だと感じた。

「私はこの女性に——内海さんに、『言葉は死ぬまでの、さよならまでの特別な切符』と言ったんですよ。死ぬまでに使えるのが言葉。死んでしまったらもう使うことができない。だから、生きている間に愛する人たちに言葉を伝えなければならないと、お教えしたはずやったんです」

「それって……」

 死んだ人に向かってそんなことを言うのは辛辣ではないか。
 と、紬は声に出して主張しかかった。でも、ハルサカの表情がくしゃりと泣き出しそうに歪んでいたから、できなかった。
 きっとハルサカにも、言葉を伝えられなくて後悔したことがあるんだ——紬は気づく。初めて彼の人間らしい一面を垣間見た気がした。

「分かりますよ、あなたの言いたいことは。そんな辛辣なこと言ってくれるなって思ってはるんでしょう。あの時、内海さんも今のあなたのように心が折れかけていたんです」

「その女性も……?」

「ええ、そうですよ。みなさん、言葉を話すことができない生き物に擬態して現世に戻っているのは同じ条件でしたからね。家族や恋人が目の前にいるのに、言葉をかけられない辛さは、みなさんが感じてきたものです」

「じゃ、じゃあ……ここに来た人たちは、最終的にどうやって現世で好きな人たちに想いを伝えたんですか?」

 紬が前のめり気味に答えた。手には汗が滲んでいて、答えを知りたいという気持ちが湧き上がる。
 ハルサカが優しげに微笑んだ。

「言葉を交わさなければ、気持ちは伝えられへんのでしょうか?」

「え?」

 戸惑う紬に、ハルサカはゆっくりと続ける。

「内海さんが見つけた答え——言葉はさよならまでの栞だったというのは、彼女なりの気づきでした。言葉を話せなくても、伝えられる気持ちはある。続いていくものはある、と。葉山さんも、きっと伝えられますよ」

「言葉を話せなくても、伝えられる気持ちはある」

 ハルサカが——いや、これまで紬と同じように死に戻りを経験した人たちが得た答えを、声に出して反芻してみる。 
 そもそもどうして言葉を話せない生き物に擬態する必要があるのか。
 ハルサカがこの条件をつくったとして、彼はなぜこんな過酷な条件を考えついたのか。
 それは、ここに来る人たちに、他者に気持ちを伝えることがいかに難しいことなのか、伝えたかったからじゃないか。
 紬はそう考えた。

「ハルサカさんも……言葉で伝えられなかった経験があるんですか?」

 ふと心に浮かんだ疑問をハルサカにぶつけてみる。
 ハルサカは、微笑みを崩さないまま、「さあ、どうでしょうねえ」と曖昧に答えてみせた。

「私のことよりも、葉山さん。あなたはどうしはりますか? もう一度現世に戻られますか? それとも、もう戻るのはやめにしはりますか?」

「私は——戻りたいです」

 紬の意志はただ一つ。
 隼人に想いを伝えることだ。
 暦の件で心がぶれかけていたが、暦と隼人との関係は、紬には関係ない。それは隼人が考えることだ。紬は紬の心を、隼人に伝えるのだ。
 言葉を喋れなくても、伝えられる方法がきっとある。
 紬が決意を口にすると、ハルサカが「それは良かったです」と柔和に答えてくれた。

「それでは葉山紬さん。行ってらっしゃい」