そろそろ放課後だろうと学校に戻り部室の前までたどり着く頃には、紬はすっかり疲れていた。眠い。そういえば生きていた頃に、なんとなく気になって猫の睡眠時間を調べたことがある。一日十二〜十六時間眠るのが普通らしい。
(閉まってる……)
太陽は西へ大きく傾いていて、とっくに部活が始まっている時間だと分かった。部室の扉が閉まっていたので、部室棟の近くにある木の下で丸くなった。そのままうとうととし、気がつけば深い眠りについていた。
「……か」
「……い」
誰かの声がかすかに聞こえてきて、紬はゆっくりと目を開ける。
辺りはいつのまにか暗くなっており、すでに夜になっていることに気づいた。
声のしたほうへ顔を向ける。部室棟一階、男子バスケ部の部室からちょうど隼人が出てきたところだった。
「にゃ……」
紬が存在を知らせるために声を上げようとしたところで、別の人間の声が響いた。
「隼人先輩、ちょっと待ってくださいよ」
隼人の後ろから出てきた秋山暦の姿を見て、紬の心臓がきゅっと音を立てたように感じた。
「待ってるって。ほら、帰ろう」
「はい!」
部活が終わり、二人で一緒に帰るのだと分かった。
隼人に笑いかける暦の姿を見ていると、胸のざわめきが止まらない。だったら目を逸らせばいいのに、どうしても気になってしまう。
「お疲れー」と部室の中から二人を送り出す他の部員たちの声が聞こえる。中には「ひゅう!」と二人を揶揄うように囃し立てる声もあった。隼人は「やめろよ」とわざとらしくツッコミを入れていたが、暦のほうは顔を赤らめて、照れたような笑みを浮かべていた。
気がつけば紬は二人の後をつけ始めていた。
趣味が悪い。やめておけばいいのにと、自分でも分かっていた。だけど、止まらないのだ。二人が、紬の知らない場所でどんどん心の距離を近付けているところを見るのが嫌だった。
(ああ、そっか。私ってこんなに隼人のこと)
ずっと恋焦がれていた相手だった。
隼人にちゃんと、気持ちを伝えれば良かった。
他の誰かにとられる前に、私のことをちゃんと見て、と——。
「隼人先輩、いつも帰りは一人ですよね。部長たちはみんなで固まって帰ってるのに」
「まあ、な。あいつらとは家の方向が違うし」
「でも途中まで一緒でしょう? 部長たちが誘っても断ってるの知ってますよ。なんでですか?」
暦の質問には遠慮がない。いや、それだけ彼女が切羽詰まっているのが伝わってきた。彼女だって本当はきっと気遣いができる優しい子なんだろう、と紬は察していた。それでも隼人にぐいぐい疑問をぶつけているのは、隼人のことをもっとよく知りたいからだ。
「……なんでだろうな。なんか、そうしなきゃいけないような気がしてさ」
遠い目をしながら隼人が答える。
(隼人)
今、あなたは何を考えてる?
誰を思い浮かべてる?
隼人に聞いてみたい。だけど、聞くことができない。それが苦しくて、夜闇に紛れて溶けてしまいそうな心地がした。
「紬さんへの弔いのつもりですか?」
ドクン。
心臓が跳ねて、同時に隼人が歩みを止めた。
暦の口から紬の名前が出てきたことに、紬も隼人も驚きを隠せない。紬は心の中で「やめて」と叫ぶ。
「部長から聞きました。いつもは、紬さんと一緒に帰ってたって。だから、紬さんが亡くなった今、紬さんの居場所を空けておくために、頑なに一人で帰ってるんじゃないかって」
その場の空気が凍りつきそうなほど真剣な声が響き渡った。少し後ろを歩いていた紬の心臓が暴れ始める。
「それは」
隼人の声色から動揺がありありと伝わってきた。暦を見る彼の瞳には深淵が広がっている。暗いからそう見えるだけなのかもしれない。でも、無邪気で明るい少年のはずの隼人が今、後輩の女の子の言葉にひどく心を乱されていることがよく分かった。
「ただの後付けの理由だよ。俺はこう見えて、みんなでワイワイするより一人でぽーっとするほうが好きなんだ。それに、一人で帰ることが、なんで紬の居場所をつくることになるんだ? あいつはもう……どこにもいないのに。絶対に帰ってこないのに」
隼人の言葉に、紬は弾丸で胸を撃ち抜かれたような痛みを覚えた。
だんだんと湿り気を帯びていく彼の声が、何度も耳に残響する。
あいつはもうどこにもいないのに。
隼人の苦しげな声と言葉が、紬の胸を抉り、大量の涙を流させた。
「……ごめんなさい」
暦の申し訳なさそうな声が降ってくる。好きな人が目の前で苦しんでいる。それが自分の発言のせいだと知った彼女自身も、とても辛そうだった。
暦はただ、隼人に振り向いてほしいだけなのだ。だからこそ、隼人がもうこの世にいない人間のほうを向いているかもしれないという事実を確認したくてした質問。それが二人をこんなにも追い詰めた。
紬は、自分のせいだと思い始めていた。
隼人と紬が悲しそうな顔をしているのは、自分が死んだせいだと。
「いや、秋山が謝ることじゃないよ」
「先輩っ……あの」
「どうした?」
「隼人先輩がしんどい時はあたしがそばにいます。だから、隼人先輩の隣を、時々あたしのために空けておいてもらえませんか……?」
すがるような声だった。青春の痛みを一心に受けた暦が、逃げることなく本心をぶちまける。紬にはそれがとても美しいと思う。暦は、紬には決して手に入らない宝石のような煌めきを放っていた。
「……ああ、そうだな」
蚊の鳴くような声で隼人が返事をした。暦がはっと隼人を見つめる。
「そうできるようなったら俺も……」
その先は続かなかった。
俺も嬉しい。
俺も救われる。
俺も前に進める。
どれだろう。隼人は何を言いたかったんだろう。紬には分からない。けれど、隼人が紬のために空けているかもしれないその場所を、暦に譲りたいと考えているのかもしれないと思うと、もうダメだった。
紬はその場から、さっと逃げ出した。
それからの時間は、自分でもどうしたいのか分からず、ただ現世を彷徨い続ける亡霊と同じだった。
学校周辺をうろうろしたり、校内を散歩したりして気を紛らわせる。時々、見知った先生や同級生に出くわすと、その人たちをまじまじと見つめてしまった。
だけど、当然ながら相手は一匹の白猫が紬であることなど知る由もなく。
みんなの視界の中のただのオブジェクトとして存在しているのだった。
こんなことなら、やっぱり現世に戻らないほうが良かったんだろうか。
紬は悩み、考える。
一人の時間が多いからこそ、葛藤で心が揺れた。
現世に戻ってきても、隼人に想いを伝えることができない。それどころか、暦という女の子が隼人に恋をしているところを見て、胸が疼く。
こんなことなら、こんなことなら……。
つい思考が後ろ向きになってしまう。
やっぱり自分は弱虫のままだ。
(隼人がいないと、私は……)
みぃ、とか細く鳴いた声がそのまま地面に落ちる。
——もしまた辛いと思ったら、帰ってきて大丈夫ですよ。
不意に頭をよぎる、ハルサカの声が恋しく感じられた。
帰ろう。
今、唯一言葉で意思疎通ができる人の元へ。
紬は目を閉じて、再び『言の葉書房』に帰るように唱えた。



