***
「おっと、あなたも帰ってこられましたか」
次に目を開けた時、紬の視界に映ったのは、ハルサカがロッキングチェアに腰掛けて本を読んでいる姿だった。何の本か分からないが、文庫本サイズの本を片手に、『言の葉書房』に舞い戻ってきた紬を見つめた。
「帰らないでおこうって思ってたんですけど、無理でした」
つっけんどんに紬は言う。
ハルサカが我が子を見つめる親のようなまなざしで「向こうで何かあったんですか」と問うた。
「そりゃ、ありまくりですよ。死んだ後に現世に帰るんですから。ハルサカさんには、分からないでしょうけど」
思いのほか、刺々しい言葉が出てくることに、紬自身が驚いていた。でも同時に、お腹の底から沸々と苛立ちが湧き上がってくる。ハルサカに対して、というよりは、現世に降りて何もできない自分自身に対して。歯痒さからくるイライラだった。
「まあ、そうですねえ。私はみなさんと同じ体験をしたことがありませんからね。でも、ここに来はったいろんな人を見てきたので、なんとなくは分かりますよ」
「その人たちを見守ってただけでしょう? 分かったようなこと言わないでください!」
びしゃり、と蛇口から水が飛び出すみたいに感情があふれ出した。
違うのに。
ハルサカに怒りたいわけではないのに。
心がどうしても戦闘モードになってしまう。
だって、言葉を喋ることのできない生き物に擬態して現世に降りてみて、分かったんだ。
今感じているこの気持ちを伝えられない状況で、好きな人を前にするのがとても辛いことだって。
紬は、わなわなと震える口元をまっすぐに見つめるハルサカを見返して、思う。
自分は今、この人に八つ当たりをしているのだ。
自ら現世に帰る選択をしたのに、うまくやれなくてイライラして。やり場のない怒りを発散するために、ハルサカに当たっている。
だがハルサカは——そんな紬を見ても、少しも驚いたり怒ったりする様子は見せなかった。
ただ冷静に、紬を正しい道へと導く美しい戦士のように、そこに立っていた。
「見守ってきたからこそ、分かることもあるんですよ」
柔和な口調が静寂に満ちた空間に、光を落とす。もう少しで閉じてしまいそうな紬の心が、その瞬間にぴたりと動きを止めた。
「みなさん、悩み、苦しみながらも、最後の時間を楽しんではりました。楽しむ、と言うと語弊があるかもしれせんが——少なくとも、限られた時間の中で、チャンスをものにしようと頑張ってはりました」
それは……きっと、自分以外にここに来たみんなが大人だったからだ。
紬よりも精神が成熟していて、紬みたいに若くして命を落とすなんて不幸を味わっていないから——と、紬は心の中で反抗した。これまで『言の葉書房』にやって来た人たちのプロフィールなど、一切知らないまま。
「小さいお子さんを二人残して突然死んでしまったお母さん、残された認知症を患う夫を心配するご高齢の女性、病気の婚約者と結婚もできずにお亡くなりになった青年。みなさん、それぞれに大きな悲しみの中で、それでも愛する
人たちに想いを伝えようと必死でしたよ」
紬の心を見透かしたかのように、ハルサカがゆっくりと言葉を紡ぐ。視線は背表紙に知らない名前が書かれたノートに注がれていた。これまでこの場所にやって来た人たちの名前なのだと、紬は気づいた。
「あなたは、自分だけがなぜこんな苦しい思いをしなければならないのか、と思ってはるのかもしれない。でも、あなただけやないんですよ。みんな、どんな年齢で亡くなったって、違う苦しみがある。そして、みなさんが生きてきた人生で、幸せだったことだってそれぞれにあるでしょう」
「幸せだったこと……」
そうだ。
ハルサカに言われて、紬ははっと自分の人生を振り返った。
病気で苦しんで死んでしまった最後だったけれど、それ以前に紬はちゃんと、幸せな人生を歩んでいた。
ごく普通の家庭で育って、特段裕福だったり容姿端麗だったりしたわけじゃないけれど。でも、両親は紬を愛してくれて、やりたい習い事をやらせてくれた。欲しいものも、誕生日にねだると必ず買ってくれて、勉強だって見てくれた。休みの日は日頃仕事で疲れているにもかかわらず、楽しい場所へ連れて行ってくれた。
学校でも、隼人や女友達と他愛もない日々を過ごせていた。
そんな当たり前の日々が幸せではなくて、なんだと言うのだろう——。
「思い出しましたか? もう一度、頑張ってみませんか?」
紬に自分で答えを考えてほしいというように、深く問いかけるハルサカのまなざしがすぐそばに感じられた。
「はい……もう一度、行ってみます」
「その意気です。もしまた辛いと思ったら、帰ってきて大丈夫ですよ」
「え?」
紬は驚いてハルサカを見やる。ハルサカは目を細めながら、紬の頭を撫でるような勢いで、こう言った。
「だって今はここが、あなたの帰る場所なんやから」
今までの敬語ではない、自然に砕けた口調に、紬の心が和んでいく。
「ありがとう、ハルサカさん」
紬も、父親に接する時のような気持ちになりながら、前を向いた。
もう一度、紬が生きた世界へ出発するために。
「おっと、あなたも帰ってこられましたか」
次に目を開けた時、紬の視界に映ったのは、ハルサカがロッキングチェアに腰掛けて本を読んでいる姿だった。何の本か分からないが、文庫本サイズの本を片手に、『言の葉書房』に舞い戻ってきた紬を見つめた。
「帰らないでおこうって思ってたんですけど、無理でした」
つっけんどんに紬は言う。
ハルサカが我が子を見つめる親のようなまなざしで「向こうで何かあったんですか」と問うた。
「そりゃ、ありまくりですよ。死んだ後に現世に帰るんですから。ハルサカさんには、分からないでしょうけど」
思いのほか、刺々しい言葉が出てくることに、紬自身が驚いていた。でも同時に、お腹の底から沸々と苛立ちが湧き上がってくる。ハルサカに対して、というよりは、現世に降りて何もできない自分自身に対して。歯痒さからくるイライラだった。
「まあ、そうですねえ。私はみなさんと同じ体験をしたことがありませんからね。でも、ここに来はったいろんな人を見てきたので、なんとなくは分かりますよ」
「その人たちを見守ってただけでしょう? 分かったようなこと言わないでください!」
びしゃり、と蛇口から水が飛び出すみたいに感情があふれ出した。
違うのに。
ハルサカに怒りたいわけではないのに。
心がどうしても戦闘モードになってしまう。
だって、言葉を喋ることのできない生き物に擬態して現世に降りてみて、分かったんだ。
今感じているこの気持ちを伝えられない状況で、好きな人を前にするのがとても辛いことだって。
紬は、わなわなと震える口元をまっすぐに見つめるハルサカを見返して、思う。
自分は今、この人に八つ当たりをしているのだ。
自ら現世に帰る選択をしたのに、うまくやれなくてイライラして。やり場のない怒りを発散するために、ハルサカに当たっている。
だがハルサカは——そんな紬を見ても、少しも驚いたり怒ったりする様子は見せなかった。
ただ冷静に、紬を正しい道へと導く美しい戦士のように、そこに立っていた。
「見守ってきたからこそ、分かることもあるんですよ」
柔和な口調が静寂に満ちた空間に、光を落とす。もう少しで閉じてしまいそうな紬の心が、その瞬間にぴたりと動きを止めた。
「みなさん、悩み、苦しみながらも、最後の時間を楽しんではりました。楽しむ、と言うと語弊があるかもしれせんが——少なくとも、限られた時間の中で、チャンスをものにしようと頑張ってはりました」
それは……きっと、自分以外にここに来たみんなが大人だったからだ。
紬よりも精神が成熟していて、紬みたいに若くして命を落とすなんて不幸を味わっていないから——と、紬は心の中で反抗した。これまで『言の葉書房』にやって来た人たちのプロフィールなど、一切知らないまま。
「小さいお子さんを二人残して突然死んでしまったお母さん、残された認知症を患う夫を心配するご高齢の女性、病気の婚約者と結婚もできずにお亡くなりになった青年。みなさん、それぞれに大きな悲しみの中で、それでも愛する
人たちに想いを伝えようと必死でしたよ」
紬の心を見透かしたかのように、ハルサカがゆっくりと言葉を紡ぐ。視線は背表紙に知らない名前が書かれたノートに注がれていた。これまでこの場所にやって来た人たちの名前なのだと、紬は気づいた。
「あなたは、自分だけがなぜこんな苦しい思いをしなければならないのか、と思ってはるのかもしれない。でも、あなただけやないんですよ。みんな、どんな年齢で亡くなったって、違う苦しみがある。そして、みなさんが生きてきた人生で、幸せだったことだってそれぞれにあるでしょう」
「幸せだったこと……」
そうだ。
ハルサカに言われて、紬ははっと自分の人生を振り返った。
病気で苦しんで死んでしまった最後だったけれど、それ以前に紬はちゃんと、幸せな人生を歩んでいた。
ごく普通の家庭で育って、特段裕福だったり容姿端麗だったりしたわけじゃないけれど。でも、両親は紬を愛してくれて、やりたい習い事をやらせてくれた。欲しいものも、誕生日にねだると必ず買ってくれて、勉強だって見てくれた。休みの日は日頃仕事で疲れているにもかかわらず、楽しい場所へ連れて行ってくれた。
学校でも、隼人や女友達と他愛もない日々を過ごせていた。
そんな当たり前の日々が幸せではなくて、なんだと言うのだろう——。
「思い出しましたか? もう一度、頑張ってみませんか?」
紬に自分で答えを考えてほしいというように、深く問いかけるハルサカのまなざしがすぐそばに感じられた。
「はい……もう一度、行ってみます」
「その意気です。もしまた辛いと思ったら、帰ってきて大丈夫ですよ」
「え?」
紬は驚いてハルサカを見やる。ハルサカは目を細めながら、紬の頭を撫でるような勢いで、こう言った。
「だって今はここが、あなたの帰る場所なんやから」
今までの敬語ではない、自然に砕けた口調に、紬の心が和んでいく。
「ありがとう、ハルサカさん」
紬も、父親に接する時のような気持ちになりながら、前を向いた。
もう一度、紬が生きた世界へ出発するために。



