暦を追いかけるように、隼人以外の全員がぞろぞろと部室を後にしていく。隼人はなんで帰らないのだろう——紬は疑問だったのだが、隼人が神妙な面持ちで紬の頭を撫で始めて、悟った。
(もしかして隼人、一人になりたかったのかな)
正確には紬がいるので、完全に一人にはならないけれど。おもちは猫だから、まあほぼ一人きりみたいなもんだろう。紬は隼人がいつも友達に囲まれているところしか見てこなかったから、誰もいない部室で彼がちょっと寂しそうな表情を浮かべているのが新鮮だった。
(どうしたんだろう)
練習で、何か辛いことでもあったんだろうか。
隼人はたとえ辛いことがあっても周りの人たちに心配かけまいと常に明るく振る舞うような人間だから、彼が心に何か抱えていても、周りはほとんど気づけないだろう。かくいう紬も、隼人がこんなふうにしゅんとしている姿を見たのは初めてだったので混乱した。
どうしかした? って聞いてあげたい。
もしここに、〝私〟がいたら、隼人の話を隣で聞いてあげられるのに——。
叶いもしない願いが湧き上がってきて、紬の胸が固く締め付けられる。
(でもきっと、私がいたら隼人は笑って「なんでもない」って答えるんだろうな)
隼人はそういうやつだ。
一人になったからこそ弱みを見せているのであって、今ここに本当に人間の紬がいたら、彼は本音を話してくれないだろう。
「おもち〜、今日も俺、頑張ったよな」
紬の頭を撫でる隼人の声がどこか湿り気を帯びている。でも泣いているわけではない。あくまでいつもよりちょっぴり寂しげに揺れているだけで、決して感情を露わにしない隼人に、紬は「にゃあ」と鳴くしかなかった。
「お、もしかして共感してくれてる? ありがとな」
わしゃわしゃと激しく、だけど優しい手つきで撫でてくれる隼人は、ただこうしておもちに話しかけることで、心を落ち着けようとしているのだと分かった。
「秋山ってぜってえ俺のこと好きだよな。おもちはどう思う?」
突如として、隼人が暦の名前を出すものだから、紬は思わずぴくんと身体を跳ねさせた。
「にゃあ、にゃあにゃあにゃにゃん!」
「はは、やっぱりそうだよな? 秋山、分かりやすいよな。健気で可愛いし」
紬の言葉が通じているはずはないのに、まるでちゃんと会話ができているように隼人は破顔した。
しかし、会話が成立したことよりも、暦のことを「健気で可愛い」と隼人が表現したことに、紬の心は全部持っていかれてしまっていた。
(可愛い、か)
そんな言葉、紬は一度も言ってもらったことはない。
暦にだって面と向かっては言わないのかもしれないけれど、自分の評価よりも先に彼女に対する評価を聞いてしまい、ドクドクドクと小さな心臓が早鐘を打った。
全身に熱が駆け巡って、暑い。
隼人が自分以外の女の子のことを「可愛い」と言っている。
その事実に、胸が張り裂けそうになった。
ああ、これが嫉妬なのか。
紬が生きてきて、初めて出会った感情だ。古今東西、いろんな物語の中で目にしてきたはずのありふれたその感情を、紬は一度も味わったことがなかったのだ。
彼の想いを伝えずに死んでしまってからようやく味わうことになるなんて、なんて皮肉だろうか。
「このまま俺も、秋山のこと好きになんのかな」
ぽつり、と降り始めた雨のように隼人が呟く。
憂いの滲んでいるそのセリフに、彼のどんな気持ちが込められているのか、紬には想像できなかった。
「人の気持ちがどうなるかなんて、誰にも分からねえもんな」
隼人は暦のことを、好きになりたいわけでも、好きになりたくないわけでもない。
どっちに転ぶか分からない自分の感情に、戸惑っている様子だった。
紬は困惑した。隼人の恋愛事情について、これまで聞いたことがなかったから。正直に言うと、聞いてみたい気持ちはあった。でも怖かったのだ。隼人が紬のことをどう思っているのか、それこそ分からなかったから。ブラックボックスを開けて、その中には暗闇しか広がっていなかったら、この先自分の気持ちにどう向き合っていけばいいか分からないと感じたのだ。
「未来の俺の気持ちがどうなってもそれが運命だったって思う。でもさ……今は、まだ嫌なんだ」
紬は思わず「何が?」と聞き返したい衝動に駆られた。でももちろん、紬の口から意味のある言葉は出てこない。
「みぃ」とか細い鳴き声だけが、静寂にぽとりと落ちた。
「はは、ごめんなおもち。湿っぽい空気にしちまって。お前は変わらないでいてくれる。それが俺にとってはすごく
支えなんだ」
隼人の手が紬の身体をひょいっと抱き抱えた。
紬は心の中で「ひゃっ」と短い悲鳴を上げる。
(は、隼人に抱っこされるなんて……!)
あまりにも恥ずかしい……でも嬉しい。
隼人の心臓の音がすぐそばで聞こえてきた。隼人の身体の熱も、もう二度と聞くことができないと思っていた息遣いも、すべてが愛おしかった。
「もう少し、俺のそばにいてほしい」
それが本当に紬に向けられた言葉だったら、愛の告白と受け取っても不思議ではなかっただろう。
紬は再び「みぃ」と鳴きながら、隼人の気の済むまでずっと抱きしめられていた。
(もしかして隼人、一人になりたかったのかな)
正確には紬がいるので、完全に一人にはならないけれど。おもちは猫だから、まあほぼ一人きりみたいなもんだろう。紬は隼人がいつも友達に囲まれているところしか見てこなかったから、誰もいない部室で彼がちょっと寂しそうな表情を浮かべているのが新鮮だった。
(どうしたんだろう)
練習で、何か辛いことでもあったんだろうか。
隼人はたとえ辛いことがあっても周りの人たちに心配かけまいと常に明るく振る舞うような人間だから、彼が心に何か抱えていても、周りはほとんど気づけないだろう。かくいう紬も、隼人がこんなふうにしゅんとしている姿を見たのは初めてだったので混乱した。
どうしかした? って聞いてあげたい。
もしここに、〝私〟がいたら、隼人の話を隣で聞いてあげられるのに——。
叶いもしない願いが湧き上がってきて、紬の胸が固く締め付けられる。
(でもきっと、私がいたら隼人は笑って「なんでもない」って答えるんだろうな)
隼人はそういうやつだ。
一人になったからこそ弱みを見せているのであって、今ここに本当に人間の紬がいたら、彼は本音を話してくれないだろう。
「おもち〜、今日も俺、頑張ったよな」
紬の頭を撫でる隼人の声がどこか湿り気を帯びている。でも泣いているわけではない。あくまでいつもよりちょっぴり寂しげに揺れているだけで、決して感情を露わにしない隼人に、紬は「にゃあ」と鳴くしかなかった。
「お、もしかして共感してくれてる? ありがとな」
わしゃわしゃと激しく、だけど優しい手つきで撫でてくれる隼人は、ただこうしておもちに話しかけることで、心を落ち着けようとしているのだと分かった。
「秋山ってぜってえ俺のこと好きだよな。おもちはどう思う?」
突如として、隼人が暦の名前を出すものだから、紬は思わずぴくんと身体を跳ねさせた。
「にゃあ、にゃあにゃあにゃにゃん!」
「はは、やっぱりそうだよな? 秋山、分かりやすいよな。健気で可愛いし」
紬の言葉が通じているはずはないのに、まるでちゃんと会話ができているように隼人は破顔した。
しかし、会話が成立したことよりも、暦のことを「健気で可愛い」と隼人が表現したことに、紬の心は全部持っていかれてしまっていた。
(可愛い、か)
そんな言葉、紬は一度も言ってもらったことはない。
暦にだって面と向かっては言わないのかもしれないけれど、自分の評価よりも先に彼女に対する評価を聞いてしまい、ドクドクドクと小さな心臓が早鐘を打った。
全身に熱が駆け巡って、暑い。
隼人が自分以外の女の子のことを「可愛い」と言っている。
その事実に、胸が張り裂けそうになった。
ああ、これが嫉妬なのか。
紬が生きてきて、初めて出会った感情だ。古今東西、いろんな物語の中で目にしてきたはずのありふれたその感情を、紬は一度も味わったことがなかったのだ。
彼の想いを伝えずに死んでしまってからようやく味わうことになるなんて、なんて皮肉だろうか。
「このまま俺も、秋山のこと好きになんのかな」
ぽつり、と降り始めた雨のように隼人が呟く。
憂いの滲んでいるそのセリフに、彼のどんな気持ちが込められているのか、紬には想像できなかった。
「人の気持ちがどうなるかなんて、誰にも分からねえもんな」
隼人は暦のことを、好きになりたいわけでも、好きになりたくないわけでもない。
どっちに転ぶか分からない自分の感情に、戸惑っている様子だった。
紬は困惑した。隼人の恋愛事情について、これまで聞いたことがなかったから。正直に言うと、聞いてみたい気持ちはあった。でも怖かったのだ。隼人が紬のことをどう思っているのか、それこそ分からなかったから。ブラックボックスを開けて、その中には暗闇しか広がっていなかったら、この先自分の気持ちにどう向き合っていけばいいか分からないと感じたのだ。
「未来の俺の気持ちがどうなってもそれが運命だったって思う。でもさ……今は、まだ嫌なんだ」
紬は思わず「何が?」と聞き返したい衝動に駆られた。でももちろん、紬の口から意味のある言葉は出てこない。
「みぃ」とか細い鳴き声だけが、静寂にぽとりと落ちた。
「はは、ごめんなおもち。湿っぽい空気にしちまって。お前は変わらないでいてくれる。それが俺にとってはすごく
支えなんだ」
隼人の手が紬の身体をひょいっと抱き抱えた。
紬は心の中で「ひゃっ」と短い悲鳴を上げる。
(は、隼人に抱っこされるなんて……!)
あまりにも恥ずかしい……でも嬉しい。
隼人の心臓の音がすぐそばで聞こえてきた。隼人の身体の熱も、もう二度と聞くことができないと思っていた息遣いも、すべてが愛おしかった。
「もう少し、俺のそばにいてほしい」
それが本当に紬に向けられた言葉だったら、愛の告白と受け取っても不思議ではなかっただろう。
紬は再び「みぃ」と鳴きながら、隼人の気の済むまでずっと抱きしめられていた。



