***
ちりん。
どこからか風鈴の音のようなものが聞こえた。
生暖かい風が少しだけ肌を撫でて、言音はすっと目を覚ます。
最初に飛び込んできたのは、自宅のリビングの天井だった。
「ん……」
声にならない声を上げる。目を擦りたい衝動に駆られたが、思うように手を動かせない。頑張って右手に力を込めると、ようやく腕が上がったが、予想以上に重い。まるで腕に重しがつけられているかのようだ。
持ち上げた腕を天井にかざすと、むちむちとして小さな手が視界に映り込んだ。
花音の手だ。
そこでようやく、言音は自分が花音に擬態していることを思い出す。
(本当に花音になったんだ……)
『言の葉書房』でハルサカに出会い、現世に行けると言われたあの記憶は、夢ではなかったのだ。そして、おそらく自分が死んでしまったことも、夢ではない。現実で起きたからこそ、この奇妙な体験をしているのだ。
今度は必死に目を動かして、辺りを見回してみる。
リビングの窓が少しだけ開いていた。先ほど感じた風はそこから吹いてきていたのだ。
季節は春。
新しい始まりの季節に、妻を失ってしまった宏樹と母親を失った紫音や花音のことを思うと、やるせなさが込み上げた。
再び視線をずらすと、今度はテレビの横の棚に置かれている自分の遺影と骨壺を見つけた。
遺影は去年、まだ花音がお腹にいる頃にみんなでテーマパークに行った時に撮った写真だとすぐに分かった。家族みんなで出かけて、満面の笑みを浮かべている言音。育児中は疲れた顔をしていることが多いから、笑顔の写真を探すのは大変だっただろう。
生々しい景色からさっと目をそらした瞬間、キッチンのほうで夫の宏樹が、「あっち!」と小さな悲鳴を上げるのが聞こえた。そらから、「パパどうしたの」と心配そうに声を揺らす四歳の息子、紫音の声も。
紫音は床でミニカーを持って遊んでいたようだ。
ミニカーを放り投げて、トタトタと紫音がキッチンへと駆けていく。
「ちょっとこぼしちゃってな。でも大丈夫だぞ」
宏樹が紫音を安心させるようにそう言う声が聞こえてきた。紫音が「よかったあ」と安堵の声を漏らす。
どうやら宏樹は花音のミルクを作ってくれていたらしい。
花音はずっと完全母乳——つまり、母乳のみで育ててきた。ミルクは生まれてすぐに病院で飲ませた程度。言音が死んでからやむをえずミルクをあげるしかなくなり、宏樹がてんてこ舞いになっていることは容易に予想がついた。
「カノちゃん、ミルクですよ」
哺乳瓶を持った宏樹がこちらに近づいてきた。ベビーベッドに寝かされていた言音は、ここで初めて宏樹の顔を正面から見上げた。
(ヒロ……)
最後に会った日から、いくぶんか老け込んだように見える。目の下にはクマができていて、普段は完璧に剃っている髭も生えっぱなしだ。言音に——花音に向けられる表情は優しい父親のそれだが、端々から疲れが滲み出ていた。
「よいしょっと」
宏樹が言音を抱っこする。紫音が、ヒロの足元でヒロのズボンを掴んでいるのが見えた。
紫音は普段から言音が花音におっぱいをあげている最中も、あまり気にせず一人おもちゃで遊んでいるのだが、今は違うらしい。
パパが花音にミルクをあげるのが寂しいのか、下唇をぎゅっと噛んでいた。
言音はまだ懐かしいとも思えないヒロの匂いを嗅ぎながら、彼の膝の上でミルクをごくごくと飲んだ。味はほんのりと甘くておいしい。
「あ、今日はちゃんと飲んでくれる」
「ほんとだー。カノちゃんえらねえ」
「やっとミルクに慣れてきたかな?」
宏樹がほっとしたように言い、紫音が言音の頭をよしよしと撫でてくれる。
そうか……。そうだよね。
急に母乳からミルクに変更になって、花音も戸惑っただろう。ミルクを拒否する花音の画が浮かぶ。
ミルクを飲んでくれないとなると、宏樹は焦ったに違いない。
離乳食もまだ始めていないので、花音の栄養源はミルクのみだ。
ここ二週間の宏樹の苦労を思うと、心の奥のほうが軋んだ。
「ぐっ」
ミルクを一気に飲み終えると、自然と口から空気が漏れた。
「あ、ゲップした」
「そうだな。可愛いゲップ」
宏樹と紫音が顔を見合わせて微笑み合う。現世に降りてきて初めて見た二人の笑顔だ。
「カノちゃん、ママがいなくてもちゃんと生きてえらいね」
今度は宏樹が言音の頭を撫でる。
頭を撫でられるのはさすがにいつぶりだろう。
学生時代、彼と付き合い始めた当初こそやってもらっていたような気がするが、交際期間が長くなり、結婚してからはめっきりなくなった。
宏樹のごつごつとした手が温かく、大きくてやわらかいお布団に包まれているような気持ちになった。
宏樹、私だよ。
私は言音だよ——。
言音が必死に心の中で訴えながら、口を動かして「あうあう」と言葉にならない声を漏らす。が、もちろん宏樹には心の声なんて伝わらない。
「どうしたのかな? またお腹すいた?」
にっこりと微笑みながら言音の頬をつんつんとくすぐる。くすぐったくて自然と笑みがこぼれた。
「カノちゃん笑ってるー」
紫音が無邪気に頬を綻ばせる。
紫音、ママだよ。
今度は紫音のほうへと腕を伸ばしながらバタバタと動いてみるも、宏樹が「おっと」と言音を抱え直して、紫音には触れることができなかった。
ちりん。
どこからか風鈴の音のようなものが聞こえた。
生暖かい風が少しだけ肌を撫でて、言音はすっと目を覚ます。
最初に飛び込んできたのは、自宅のリビングの天井だった。
「ん……」
声にならない声を上げる。目を擦りたい衝動に駆られたが、思うように手を動かせない。頑張って右手に力を込めると、ようやく腕が上がったが、予想以上に重い。まるで腕に重しがつけられているかのようだ。
持ち上げた腕を天井にかざすと、むちむちとして小さな手が視界に映り込んだ。
花音の手だ。
そこでようやく、言音は自分が花音に擬態していることを思い出す。
(本当に花音になったんだ……)
『言の葉書房』でハルサカに出会い、現世に行けると言われたあの記憶は、夢ではなかったのだ。そして、おそらく自分が死んでしまったことも、夢ではない。現実で起きたからこそ、この奇妙な体験をしているのだ。
今度は必死に目を動かして、辺りを見回してみる。
リビングの窓が少しだけ開いていた。先ほど感じた風はそこから吹いてきていたのだ。
季節は春。
新しい始まりの季節に、妻を失ってしまった宏樹と母親を失った紫音や花音のことを思うと、やるせなさが込み上げた。
再び視線をずらすと、今度はテレビの横の棚に置かれている自分の遺影と骨壺を見つけた。
遺影は去年、まだ花音がお腹にいる頃にみんなでテーマパークに行った時に撮った写真だとすぐに分かった。家族みんなで出かけて、満面の笑みを浮かべている言音。育児中は疲れた顔をしていることが多いから、笑顔の写真を探すのは大変だっただろう。
生々しい景色からさっと目をそらした瞬間、キッチンのほうで夫の宏樹が、「あっち!」と小さな悲鳴を上げるのが聞こえた。そらから、「パパどうしたの」と心配そうに声を揺らす四歳の息子、紫音の声も。
紫音は床でミニカーを持って遊んでいたようだ。
ミニカーを放り投げて、トタトタと紫音がキッチンへと駆けていく。
「ちょっとこぼしちゃってな。でも大丈夫だぞ」
宏樹が紫音を安心させるようにそう言う声が聞こえてきた。紫音が「よかったあ」と安堵の声を漏らす。
どうやら宏樹は花音のミルクを作ってくれていたらしい。
花音はずっと完全母乳——つまり、母乳のみで育ててきた。ミルクは生まれてすぐに病院で飲ませた程度。言音が死んでからやむをえずミルクをあげるしかなくなり、宏樹がてんてこ舞いになっていることは容易に予想がついた。
「カノちゃん、ミルクですよ」
哺乳瓶を持った宏樹がこちらに近づいてきた。ベビーベッドに寝かされていた言音は、ここで初めて宏樹の顔を正面から見上げた。
(ヒロ……)
最後に会った日から、いくぶんか老け込んだように見える。目の下にはクマができていて、普段は完璧に剃っている髭も生えっぱなしだ。言音に——花音に向けられる表情は優しい父親のそれだが、端々から疲れが滲み出ていた。
「よいしょっと」
宏樹が言音を抱っこする。紫音が、ヒロの足元でヒロのズボンを掴んでいるのが見えた。
紫音は普段から言音が花音におっぱいをあげている最中も、あまり気にせず一人おもちゃで遊んでいるのだが、今は違うらしい。
パパが花音にミルクをあげるのが寂しいのか、下唇をぎゅっと噛んでいた。
言音はまだ懐かしいとも思えないヒロの匂いを嗅ぎながら、彼の膝の上でミルクをごくごくと飲んだ。味はほんのりと甘くておいしい。
「あ、今日はちゃんと飲んでくれる」
「ほんとだー。カノちゃんえらねえ」
「やっとミルクに慣れてきたかな?」
宏樹がほっとしたように言い、紫音が言音の頭をよしよしと撫でてくれる。
そうか……。そうだよね。
急に母乳からミルクに変更になって、花音も戸惑っただろう。ミルクを拒否する花音の画が浮かぶ。
ミルクを飲んでくれないとなると、宏樹は焦ったに違いない。
離乳食もまだ始めていないので、花音の栄養源はミルクのみだ。
ここ二週間の宏樹の苦労を思うと、心の奥のほうが軋んだ。
「ぐっ」
ミルクを一気に飲み終えると、自然と口から空気が漏れた。
「あ、ゲップした」
「そうだな。可愛いゲップ」
宏樹と紫音が顔を見合わせて微笑み合う。現世に降りてきて初めて見た二人の笑顔だ。
「カノちゃん、ママがいなくてもちゃんと生きてえらいね」
今度は宏樹が言音の頭を撫でる。
頭を撫でられるのはさすがにいつぶりだろう。
学生時代、彼と付き合い始めた当初こそやってもらっていたような気がするが、交際期間が長くなり、結婚してからはめっきりなくなった。
宏樹のごつごつとした手が温かく、大きくてやわらかいお布団に包まれているような気持ちになった。
宏樹、私だよ。
私は言音だよ——。
言音が必死に心の中で訴えながら、口を動かして「あうあう」と言葉にならない声を漏らす。が、もちろん宏樹には心の声なんて伝わらない。
「どうしたのかな? またお腹すいた?」
にっこりと微笑みながら言音の頬をつんつんとくすぐる。くすぐったくて自然と笑みがこぼれた。
「カノちゃん笑ってるー」
紫音が無邪気に頬を綻ばせる。
紫音、ママだよ。
今度は紫音のほうへと腕を伸ばしながらバタバタと動いてみるも、宏樹が「おっと」と言音を抱え直して、紫音には触れることができなかった。



