***
眠っている時のように、しばらく意識がどこかへ飛ばされていた紬だったが、ちりん、という優しい風鈴のような音に、目を覚ました。
ゆっくりと持ち上げたまぶたの向こうには、見慣れた部室の光景が広がっていた。時間は、十八時頃……だろうか。部室に一つだけついている窓から見える空が、橙色から群青色に変わりかけていた。いつ来ても埃臭い部室だが、今日はその埃臭さが懐かしく、すぐに泣きそうになった。
紬は、丸くなっていた自分の身体をゆっくりと起こす。
四つ足で立つのに慣れていないので、なんだか不思議な気分だ。でも、立ち上がるのに苦戦することはなかった。
紬が擬態したのは、紬が通う早坂高校のバスケ部の部室に棲み着く白猫「おもち」だ。
おもちという名前は紬が勝手につけた。昼休みに、隼人と二人で部室で喋っているとふらりとやってくる白猫。中へ入れて愛でているうちに馴染みの顔になってしまった。
それもこれも、隼人がチュールを買ってあげていたのが原因なんだけど。
おもちはすっかり私や隼人に心を許し、特に雨風が強い日には部室を訪れるようになった。バスケ部の部室があるこの場所は部室棟と呼ばれていて、主に運動部の部室が並ぶプレハブのような建物だ。二階建てだが、バスケ部は一階の端っこにある。正面の扉からすぐに中に入ることができるので便利ではあるが、壁も扉も薄いので、冬はストーブをつけなければとても寒い。
だが、猫であるおもちにとっては壁に囲まれた空間というだけで、居心地が良い場所なんだろう。チュールだってもらえるし、部室にいれば命の危険に晒されるようなこともない。
そんなおもちに擬態したのはもちろん、隼人に会うため。
おもちなら部室に入れる可能性が高い。隼人の一番身近にいる生き物といえば、おもち以外に考えられなかった。現に今も部室で目が覚めたということは、隼人に入れてもらったに違いない。昼休みに部室に入り、今までずっと部室で眠っていたというところだろうか。
時期は、九月下旬。紬が亡くなった八月上旬から、四十九日が過ぎた頃だ。それだけの時間が過ぎれば隼人も紬がいない生活に慣れてきただろうし、紬のことを忘れるにはまだ早い時期だと思ったのだ。
(隼人に忘れられるのが怖いんだ、私)
言葉にするとそういうことだ。
もし仮に一年後の現世に戻ってきたとして、隼人がこの場所で紬以外の女の子と仲睦まじそうに話しているのを見てしまったら、きっとショックを受けるだろう。
隼人の人生の邪魔をしたくないから想いを伝えなかったはずなのに、いざ彼が別の女の子と仲良くしているのを想像すると、胸がひりつくのだ。
自分勝手な感情だと分かってはいる。
でもハルサカからチャンスをもらったこの七十二時間だけは、多少自分勝手にさせていただいてもいいんじゃないかと、紬は開き直っていた。
「あぁ〜今日も疲れたなぁ。はんぞうのやつ、最近やけに気合いの入りまくったメニュー組んでるよな」
「マジでそれ。俺、足痛すぎてもげるかと思った」
「ウォーミングアップで永遠スクワットだもんな。絶対明日筋肉痛だって」
「な、隼人もそう思うだろ?」
部室の外から部員たちの話し声が聞こえてきて、紬ははっと身を固くした。
ガラリと部室の扉が開かれる。
男子部員が四人、部室に入ってくるところだった。一番最後に入ってきた隼人が「ああ」と何気なく返事をする声が一直線に紬の耳に届いた。
「はんぞうのメニューは確かに厳しいけど、愛があるから俺は好きだぞ」
隼人がそう付け加えると、他の三人からどっと笑い声が上がった。
「よ、さすがキャプテン! 顧問への愛が違うわ」
「隼人がはんぞうに気に入られてるのってそういうところだよな。邪気がまるでねえの」
「邪気ってなんだよ邪気って」
それは、隼人を揶揄っているのではなく、本気で隼人の純粋さを褒めているような口調だった。
隼人は早坂高校男子バスケ部のキャプテンだ。〝はんぞう〟と呼ばれるのは顧問の半沢慶造先生。初めて先生に会った時は名前のインパクトが強すぎて驚いたが、年齢はまだ二十代後半と若く、名前とのギャップがすごい人だなと感じた。
その、はんぞう先生は普段はユーモアのあることを話してくれる人だが、部活の練習となると、厳しいメニューを強いてくる。その厳しさを愛だと受け取る隼人はやっぱり純粋でバスケが本当に好きなのだと感じた。
男バスのマネージャーをしている紬には——バスケで活躍をする隼人がまぶしかった。
なぜなら紬もかつて、選手だったから。
中学時代、女子バスケ部でキャプテンをしていた紬は、試合中の怪我でバスケができなくなってしまった。あの時の悔しさを思い出すと、今でも心が縮んでしまいそうなぐらい苦しくなる。
大好きだったバスケを奪われて不貞腐れた紬は、高校ではまったく別の部活に入ろうと思っていた。今まで考えたことはなかったけれど、緩めの文化部にでも入ろう。そう考えながら部活見学期間を過ごしていた。しかし——。
『なあ葉山、俺と一緒にバスケ部行かね? 葉山ってさ、日波中でキャプテンしてたんだろ?』
四月、木漏れ日が煌めく季節に、隼人は目を輝かせながら、紬をバスケ部の見学に誘ってきた。
どこから紬が中学時代にキャプテンをしていたという情報が漏れたのかは分からなかったが、同じ中学出身の知り合いの誰かが教えたのだろうと思った。
正直紬は、バスケ部に行く気が湧かなくて、じっとりとした視線で隼人を見つめてしまう。
『……男バスと女バスじゃ、一緒には見学できないんだけど』
精一杯抵抗をする気分でそう答えたが、隼人は『そんなの関係ない』と言わんばかりに、紬の手を引いた。男の子に手を引かれるのは初めてのことだったので、不覚にもドキッとしてしまう。
『いいじゃん。体育館でやってんのは同じだろ? とりあえず行こーぜ!』
こうして隼人の強引さのせいで、バスケ部に見学に行くことになった紬。
先輩たちに交ざってバスケを楽しむ隼人の笑顔を見て、心を鷲掴みにされた。
『どう? 俺はバスケ部入るけど葉山は?』
女バスの練習をちらっと見ただけの紬だったが、額から汗を流しながら当たり前のようにそう言う隼人に、気がつけば口が勝手に動いていた。
『私、男バスのマネージャーになる』
紬の宣言に、隼人は目を丸くして分かりやすく驚いていた。が、次の瞬間には額の汗が全部弾けるような笑みを咲かせた。
『おう! よろしくな!』
どうして女バスの選手ではなく、男バスのマネージャーをやると言ったのか、隼人は紬に聞かなかった。絶対に聞かれると思ったのだ。でも隼人は、紬の決断に疑問を抱く様子もなく、ただ笑って受け入れてくれた。
あの瞬間に紬は隼人に恋に落ちたのだ。
その後も余計なことを詮索せずに、紬のそばにいてくれる。
優しさなのか、素で興味がないのか分からないけれど、紬にとっては隼人のその接し方がとてもありがたく、心に沁みた。
眠っている時のように、しばらく意識がどこかへ飛ばされていた紬だったが、ちりん、という優しい風鈴のような音に、目を覚ました。
ゆっくりと持ち上げたまぶたの向こうには、見慣れた部室の光景が広がっていた。時間は、十八時頃……だろうか。部室に一つだけついている窓から見える空が、橙色から群青色に変わりかけていた。いつ来ても埃臭い部室だが、今日はその埃臭さが懐かしく、すぐに泣きそうになった。
紬は、丸くなっていた自分の身体をゆっくりと起こす。
四つ足で立つのに慣れていないので、なんだか不思議な気分だ。でも、立ち上がるのに苦戦することはなかった。
紬が擬態したのは、紬が通う早坂高校のバスケ部の部室に棲み着く白猫「おもち」だ。
おもちという名前は紬が勝手につけた。昼休みに、隼人と二人で部室で喋っているとふらりとやってくる白猫。中へ入れて愛でているうちに馴染みの顔になってしまった。
それもこれも、隼人がチュールを買ってあげていたのが原因なんだけど。
おもちはすっかり私や隼人に心を許し、特に雨風が強い日には部室を訪れるようになった。バスケ部の部室があるこの場所は部室棟と呼ばれていて、主に運動部の部室が並ぶプレハブのような建物だ。二階建てだが、バスケ部は一階の端っこにある。正面の扉からすぐに中に入ることができるので便利ではあるが、壁も扉も薄いので、冬はストーブをつけなければとても寒い。
だが、猫であるおもちにとっては壁に囲まれた空間というだけで、居心地が良い場所なんだろう。チュールだってもらえるし、部室にいれば命の危険に晒されるようなこともない。
そんなおもちに擬態したのはもちろん、隼人に会うため。
おもちなら部室に入れる可能性が高い。隼人の一番身近にいる生き物といえば、おもち以外に考えられなかった。現に今も部室で目が覚めたということは、隼人に入れてもらったに違いない。昼休みに部室に入り、今までずっと部室で眠っていたというところだろうか。
時期は、九月下旬。紬が亡くなった八月上旬から、四十九日が過ぎた頃だ。それだけの時間が過ぎれば隼人も紬がいない生活に慣れてきただろうし、紬のことを忘れるにはまだ早い時期だと思ったのだ。
(隼人に忘れられるのが怖いんだ、私)
言葉にするとそういうことだ。
もし仮に一年後の現世に戻ってきたとして、隼人がこの場所で紬以外の女の子と仲睦まじそうに話しているのを見てしまったら、きっとショックを受けるだろう。
隼人の人生の邪魔をしたくないから想いを伝えなかったはずなのに、いざ彼が別の女の子と仲良くしているのを想像すると、胸がひりつくのだ。
自分勝手な感情だと分かってはいる。
でもハルサカからチャンスをもらったこの七十二時間だけは、多少自分勝手にさせていただいてもいいんじゃないかと、紬は開き直っていた。
「あぁ〜今日も疲れたなぁ。はんぞうのやつ、最近やけに気合いの入りまくったメニュー組んでるよな」
「マジでそれ。俺、足痛すぎてもげるかと思った」
「ウォーミングアップで永遠スクワットだもんな。絶対明日筋肉痛だって」
「な、隼人もそう思うだろ?」
部室の外から部員たちの話し声が聞こえてきて、紬ははっと身を固くした。
ガラリと部室の扉が開かれる。
男子部員が四人、部室に入ってくるところだった。一番最後に入ってきた隼人が「ああ」と何気なく返事をする声が一直線に紬の耳に届いた。
「はんぞうのメニューは確かに厳しいけど、愛があるから俺は好きだぞ」
隼人がそう付け加えると、他の三人からどっと笑い声が上がった。
「よ、さすがキャプテン! 顧問への愛が違うわ」
「隼人がはんぞうに気に入られてるのってそういうところだよな。邪気がまるでねえの」
「邪気ってなんだよ邪気って」
それは、隼人を揶揄っているのではなく、本気で隼人の純粋さを褒めているような口調だった。
隼人は早坂高校男子バスケ部のキャプテンだ。〝はんぞう〟と呼ばれるのは顧問の半沢慶造先生。初めて先生に会った時は名前のインパクトが強すぎて驚いたが、年齢はまだ二十代後半と若く、名前とのギャップがすごい人だなと感じた。
その、はんぞう先生は普段はユーモアのあることを話してくれる人だが、部活の練習となると、厳しいメニューを強いてくる。その厳しさを愛だと受け取る隼人はやっぱり純粋でバスケが本当に好きなのだと感じた。
男バスのマネージャーをしている紬には——バスケで活躍をする隼人がまぶしかった。
なぜなら紬もかつて、選手だったから。
中学時代、女子バスケ部でキャプテンをしていた紬は、試合中の怪我でバスケができなくなってしまった。あの時の悔しさを思い出すと、今でも心が縮んでしまいそうなぐらい苦しくなる。
大好きだったバスケを奪われて不貞腐れた紬は、高校ではまったく別の部活に入ろうと思っていた。今まで考えたことはなかったけれど、緩めの文化部にでも入ろう。そう考えながら部活見学期間を過ごしていた。しかし——。
『なあ葉山、俺と一緒にバスケ部行かね? 葉山ってさ、日波中でキャプテンしてたんだろ?』
四月、木漏れ日が煌めく季節に、隼人は目を輝かせながら、紬をバスケ部の見学に誘ってきた。
どこから紬が中学時代にキャプテンをしていたという情報が漏れたのかは分からなかったが、同じ中学出身の知り合いの誰かが教えたのだろうと思った。
正直紬は、バスケ部に行く気が湧かなくて、じっとりとした視線で隼人を見つめてしまう。
『……男バスと女バスじゃ、一緒には見学できないんだけど』
精一杯抵抗をする気分でそう答えたが、隼人は『そんなの関係ない』と言わんばかりに、紬の手を引いた。男の子に手を引かれるのは初めてのことだったので、不覚にもドキッとしてしまう。
『いいじゃん。体育館でやってんのは同じだろ? とりあえず行こーぜ!』
こうして隼人の強引さのせいで、バスケ部に見学に行くことになった紬。
先輩たちに交ざってバスケを楽しむ隼人の笑顔を見て、心を鷲掴みにされた。
『どう? 俺はバスケ部入るけど葉山は?』
女バスの練習をちらっと見ただけの紬だったが、額から汗を流しながら当たり前のようにそう言う隼人に、気がつけば口が勝手に動いていた。
『私、男バスのマネージャーになる』
紬の宣言に、隼人は目を丸くして分かりやすく驚いていた。が、次の瞬間には額の汗が全部弾けるような笑みを咲かせた。
『おう! よろしくな!』
どうして女バスの選手ではなく、男バスのマネージャーをやると言ったのか、隼人は紬に聞かなかった。絶対に聞かれると思ったのだ。でも隼人は、紬の決断に疑問を抱く様子もなく、ただ笑って受け入れてくれた。
あの瞬間に紬は隼人に恋に落ちたのだ。
その後も余計なことを詮索せずに、紬のそばにいてくれる。
優しさなのか、素で興味がないのか分からないけれど、紬にとっては隼人のその接し方がとてもありがたく、心に沁みた。



