「葉山紬さん、私の話はお分かりになられましたか」
耳元で——いや、実際は耳元なんかではなく、一メートルほど離れたところから声をかけられているはずなのに紬にはそう感じた——ハルサカの鈴の音のような声がした。ようやく意識が現実に引き戻される。
いや、この本棚と古本に囲まれた空間にいる今を、〝現実〟と呼んでいいのかすら分からないけれど。
「は、はい。分かったのは、分かったんですけど」
「何かご質問でも?」
「いや、現世に戻るなんて、本当にそんなことができるのかなぁって」
紬は昨日、余命三ヶ月と言われたがんにより命を落とした。
そのまま荼毘に付され、天へと昇っていくはずだったはずなのに、どういうわけか見慣れない古本屋で意識を取り戻した。
混乱する紬に声をかけてきたのは、目の前でちょび髭に触れながら「ほう」と頷くハルサカという男性だ。
一体彼は誰なんだ。そしてここはどこなの?
当然の疑問が頭の中を渦巻く中、ハルサカはこの場所が、現世で言葉を残せなかった人たちの魂が集まる『言の葉書房』であると教えてくれた。
さらに、呆然と彼の言葉を受け止めている紬に、ハルサカはつらつらと語ってみせた。
ここにやって来た人はみんな、七十二時間限定で現世に戻ることができるのだと。
ただし、現世に戻るにはいくつか条件があって、その中でも一番大きな条件は〝言葉を話すことができない生き物に擬態すること〟。
この時点で紬の頭の中はちんぷんかんぷんだったけれど、澱みなく説明を続けるハルサカを止めることはできなかった。
「葉山さんが疑いはるのも当然のことです。ここに来られる方はみなさん、半信半疑で現世に戻られますからね」
「さっきも思ったんですけど、私以外にも『言の葉書房』にやって来た人がいるってことですか?」
「ええ、そうですよ。他にもたくさん——というにはまだそれほどサンプル数は多くありませんが、みなさん現世に
戻られて、満足されて旅立たれていきました」
ハルサカの「旅立たれていきました」という言葉に、紬は胸を針で刺されたような心地がした。
旅立った行き先はきっと天国だろう。
命を失ったのだから、自分もこれから天国に行くということをうっすらと感じてはいた。でも、実際に他者からその事実を突きつけられると、いろんな感情に支配されてしまう。一番大きいのは、恐怖だった。
「私も天国に……行くんですね」
生きている間、何もなすことができなかったのに。
ただ生を受けて、言われるがままに生きてきただけ。
高校を卒業して、自分の人生を生きていくのはこれからだったのに——。
ショックな気持ちが表情に滲み出てしまったせいか、ハルサカが「未練があるんですね」と静かに言う。
「未練ばかりです。だって誰も、高校生で死んじゃうなんて思わないじゃないですか。もっと小さいうちに死んでしまう子だっているけど……。この年齢だからこそ、〝死〟って宇宙よりも遠い場所にあるものだと思ってたんです」
ハルサカが、張り詰めた顔で紬を見つめていた。
もしかしたら、これまで『言の葉書房』にやって来た人間たちは、みんな紬と同じようなリアクションをしていたのかもしれない。突如、死の闇に放り込まれて困惑しない人間のほうが珍しい。紬は病死だから、ある程度心の準備ができていたとはいえ、そもそも病気になってあっさり死んでしまうなんて、一年前は考えもしなかったことだ。
「教室で授業を受けて、放課後に部活して、休みの日にカラオケに行って。そんな日常の中に、どこにも〝死〟はなかったはずなのに」
喋っているうちに、目の淵に涙が溜まるのを感じた。でも、知らないおじさんの前で泣くのは恥ずかしくて、わざとらしく鼻をずずっと啜る。
「葉山さんは、自分が突然死んでしまったことを受け入れられへんのですね」
ハルサカの問いに、紬は小さく頷いた。
「それは人として当たり前の感情です。やから、泣くのも喚くのも何も恥ずかしいこととちゃいます。自分の気持ちに素直になってええんです」
思いのほか優しい彼の言葉が、紬の胸に静かに沈んでいく。
そうか……泣いて、いいのか。
そう言われると不思議と涙が引っ込んでいくのを感じた。
紬のこの剥き出しの悲しみや悔しさを全部受け止めてくれる人がいるだけで心強く感じたのだ。
思えばこの場所の古い本の香りも、紬の心に安らぎを与えてくれる。絶望しかない現実に打ちひしがれる中、正気を保っていられるのは『言の葉書房』の優しい空気とハルサカの穏やかな対応のおかげかもしれない。
そもそも、紬は入院生活が長かったので、病室でよく本を読んでいた。
小説から自己啓発本、海洋図鑑や植物図鑑まで、さまざまなジャンルの本を読んだ。本の世界に没頭している間は、辛い現実を忘れることができた。
それまで本なんてほとんど読まない人生を送っていたので、入院して本を読む時間ができたことだけは、良かったと思う。できればもっと、たくさんの本を読んでみたかった。
「あなたはこれから、七十二時間限定で現世に戻れると伝えましたよね。そこで、ぜひ未練を解消してきてください」
「未練を解消……そんなこと、できるのかな?」
ハルサカは簡単に言うが、紬には現実世界に戻ってどうやって未練を晴らせば良いのか見当もつかない。だって、 現世に戻る条件は〝言葉を話すことができない生き物に擬態すること〟なのだ。
言葉を話せないのに未練を解消する?
一体どうやって?
未練というのが、例えば〝おいしいものをたくさん食べる〟だとか、〝読みたかった本を読む〟ということだけなら、なんとか達成できるのかもしれない。
でも、と紬は自分の胸に手を当てて考える。
「私の未練って、言葉を話せないと絶対に解消できないです」
正直に、思ったことを打ち明けた。
紬の未練は他でもなく、隼人に想いを打ち明けられなかったことだ。
これから死ぬ人間から「好き」と言われても、隼人が困るだけだと思ったから。
だけどこうして図らずも未練解消のチャンスを与えられて、隼人への告白を思い浮かべないはずがない。
だって、この隼人に恋してからずっと、紬の頭の中は彼でいっぱいだったのだから。
隼人とどうやったらもっと近づけるか。どうやったら自分のことを好きになってくれるか。隼人が一番好きなのは間違いなくバスケだった。バスケについて語る時の彼は、ボールをシュートしている時の彼は、あまりにもまぶしくて直視できないぐらい幸せそうだった。
隼人がバスケと向き合う時と同じぐらい、自分のことを真剣に見てほしい。
そんなことばかり考えていたから、授業中も部活中も恋に現を抜かす乙女であった。
「みなさん、最初はそう言うてはります」
ハルサカの声がくっきりとした輪郭を帯びて降ってきた。降ってきた、という表現が一番しっくりくるほど、すとんと紬の胸に落ちたのだ。
「ここに来はる方が抱えている未練は、大体みなさん同じようなもんなんですよ。大切な人に、大切だと伝えたい。愛していると、好きだと伝えたい。謝りたい。背中を押したい——言葉じゃないと伝えられないと思うてはる」
ハルサカは、ある一つの本棚を眺めながら囁いた。そこには、真っ白のノートが数冊しまわれており、よく見ると背表紙には『内海言音』『田畑千絵』『日比朔也』とそれぞれに人の名前が書かれていた。紬は今のハルサカの話と照らし合わせて、紬の前に『言の葉書房』を訪れた人たちの名前だと悟った。
「でも、言葉がなくても、伝えられる気持ちもあるんですよ。私は葉山さんにも、それを実感してほしい。そして、自由に言葉で意思疎通できることの素晴らしさも、感じてほしいです」
最後のほうは、祈りにも近い、ハルサカの心の叫びのように感じられた。
もしかしたらハルサカには、|自由に言葉で意思を伝えられなかったことがある《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》のかもしれない。紬はそう感じた。
「……分かりました。言葉を話せなくてどうやって未練を解消したらいいか、今はまだちんぷんかんぷんですけど、現世に戻りたいです」
紬の決意がこもった声に、ハルサカはゆっくりと頷いた。
「それでは現世に戻りましょう。擬態したいと思う生き物と、戻りたい時間を思い浮かべてください。会いたい人がいるなら、なるべくその人に会えそうな生き物になることをお勧めします。時間も、あまり時間が経っていると会いにくくなるということもあるかと思うので、亡くなってからそんなに時間が経っていないほうがええかもしれませんね」
丁寧に説明をしてくれるハルサカに対し、紬はなんだか学校の先生の授業を受けている心地になった。でも、不特定多数に向かって授業をする先生とは違って、ハルサカの言葉は紬だけに向けられたもので、直接胸に響いてきた。
紬は、ハルサカに言われた通り、擬態したい生き物と戻りたい時間を思い浮かべる。
目を瞑ると、まぶたの向こうが白い光に包まれるのを感じた。
飛ぶ、と思った時にはもう、紬の身体は『言の葉書房』から現世へのするりと飛んでいっていた。



