言の葉はさよならまでの栞

 紬は、自分を見失いかけている両親から今後の治療について聞いた。主な治療法は抗がん剤治療であること。がんの進行を遅らせたり、がんを小さくしたりして生存期間を伸ばしていくらしい。なんとなく聞いたことはあった。でもそれも、物語の世界の話でしかなかった。あとは、緩和ケアや症状を和らげるような処置を説明された。両親の話し方もたどたどしくて、半分も理解できなかった。でも一つだけ分かったこと。それは、どの治療も紬のがんを完治させることはできないということ。紬に残された時間は、刻一刻と迫っていること。

 遥か遠く、地球と月ほどの距離にあったはずの死が、急速に目の前に迫ってくる感覚に、紬はめまいを覚えた。
 抗がん剤治療も緩和ケアも、すべてが無意味だと思った。

 それでも耐えた。治療を受けないという選択肢はなかった。医者は余命三ヶ月というけれど、限りなく〇%に近い可能性にかけて、両親も紬もできるだけ長く生きることに賭けた。

 学校にはもちろん行けなかった。家族と担任の谷川(たにかわ)先生以外に余命の話はしなかったが、クラスメイトやバスケ部のみんなが、代わる()わるやってきて、果物や花を置いていった。それが明日には冥土の土産になるかもしれないと思うとぞっとした。花は特に好きなはずなのに、思わず目を逸らして、元気づけようとしてくれる友人たちに愛想笑いをした。
 だけど、彼だけには愛想笑いができなかった。

 南隼人。 
 一年生の時からクラスも部活も一緒で、特別仲が良かった。
 テスト前に一緒に勉強をしたり、部室でおしゃべりしたり。部室に住み着いている白猫の「おもち」と三人で、やわらかな時間を過ごした。
 隼人はびっくりするぐらいよく笑う人で、感情表現が苦手な紬とは正反対の男の子だった。でも、隼人と一緒にいる時だけは、不思議と紬も素直に胸のうちを曝け出すことができた。
 そんな隼人のことを、紬は一年生の頃から好きだった。
 けれど、告白する勇気なんて全然なくて、病院にお見舞いに来てくれた彼には、むすっとした表情で迎えてしまった。

『大丈夫だって、紬の病気、ぜってえ直るから』

 隼人は、終始不機嫌そうな紬に、前向きな言葉をかけ続けた。
 紬がむっとしていたのは、自分の病気が治らないことを憂いていたからではない。抗がん剤治療のせいで髪の毛が抜け落ちて、痩せ細っていく自分を見られるのが苦痛だったからだ。
 でも、隼人は紬の見た目の変化には何も触れず、ただ紬と学校で接する時と同じように明るく笑いながらその日の出来事を話してくれた。
 何度もやって来ては、谷川先生の恥ずかしいエピソードや、部活の試合の結果なんかを教えてくれた。
 紬は隼人の話にじっと耳を傾けていたけれど、なかなか笑顔を見せることはできなかった。

『また来るからな!』

 それでも隼人は全然気にしてないというふうに、最後は笑って手を振って病室を出ていくのだ。
 紬は不思議でならなかった。
 どうして隼人はそこまで明るくいられるんだろう、と。
 こんなに失礼な態度をとっている自分に対して、なんで挫けずに毎日のように顔を見せてくれるんだろう。
 荒んでいる紬に今まで通り接してくれる。ありのままの紬のことを受け入れてくれる。
 だから紬も、だんだんとお見舞いに来てくれる隼人に対して、以前のように笑顔を見せることができるようになった。少しずつだが、凍りついていた心が隼人の優しさの熱でゆっくりと溶けていった。

『隼人、私さ……』

 医者から「余命三ヶ月」と告げられてから二ヶ月後。
冬が終わりに近づくとともに、日に日に身体が弱っていくのを感じていた。それでも、隼人が来てくれている時間だけは、いつもどおりの自分でいようと心がけた。
 でも、窓から差し込む夕暮れ時の光を見ていると、あんまり綺麗で感傷的な気分に襲われた。不意に、自らの余命について語りたくなった。

『なに、どうした?』

 春の日暮れは、秋の日暮れに比べたら淋しくない。
……はずなのに、その日は橙色の日差しが、紬の胸に隙間をつくっていた。

『私の余命、あと一ヶ月なんだって』

 覆らない事実を、ゆっくりと告げる。
 隼人だって、紬の病気がそれなりに重いものだということは知っていたはずだ。だけど、隼人はそれまで紬に病気について、詳しいことは聞いてこなかった。それが隼人なりの気遣いだと知っていた。
その痛いほどの優しさを、紬は打ち破ってしまった。
 申し訳ないという気持ちがどこからか湧いてきた。
隼人は、紬が紡いだ言葉の端っこをつかまえるようにして、紬の口元をじっと見つめていた。
 彼が頭の中で一生懸命何かを考えている。紬にどんな言葉をかけるべきか、はたまた紬のいう余命というものが本当なのかどうか疑っているのかもしれない。
 鼻をかすめる薬品の匂いが、その瞬間、やけに強く感じられた。
 そして、たっぷりと間を置いたあと、隼人はすっと息を吸った。

『大丈夫。紬はぜってえ死なねえから』

 いつかと同じように、確信を持って言う隼人は、この場にそぐわない笑みを浮かべていた。紬を安心させるための、精一杯の笑顔。
 そんな彼の努力を目の当たりにして、紬は胸がいっぱいになった。 
 隼人のことが好きだ。
 ずっと片想いをしていた。一年生の時から、ずっと。紬にとって隼人は一番大切な人だった。
 だけど——だからこそ、隼人に気持ちを伝えられないと思った。
 この気持ちを伝えたら、もうすぐ死んでしまう紬の気持ちを知ってしまったら。
 優しい隼人はきっと、紬に気を遣うだろう。もし仮に隼人も紬のことを好きでいてくれたら、彼の恋心を、魂を、縛り付けてしまうかもしれない。
 自分ごときに彼が一生囚われることなんてないと分かっている反面、自分の命にそれほどの価値があるのだと信じたかったのかもしれない。

 とにかく紬は、隼人に想いを伝えられないまま、死んだ。
 その日からさらに四ヶ月経った日のことだった。
 余命三ヶ月と言われていた紬は、その倍の時間を生きたのだ。
 死ぬ間際、十分頑張ったとは思った。辛い治療を受けて挫けそうになる心を必死に鼓舞して。これ以上は無理だというところまで、よく耐えたと思う。
 だけど、だからと言って悔しくないはずがなかった。
 十七年という時間は、悔いのない人生を生きたというにはあまりに短く、儚い夢のようだった。