言の葉はさよならまでの栞

 人は、いつか必ず死んでしまうことを知っている。
 知りながら、その事実を忘れたように生きなくちゃいけない。
 いつもどこか、頭の片隅では死という絶対的なゴールがあることを認識しているのに、明日の数学の補習が嫌だとか体育でバレーの時だけ先生が厳しくなるだとか、些末な悩みに支配されている。
 そんな毎日を、葉山紬(はやまつむぎ)も当たり前のように生きていた。
 嫌になるぐらい毎日詰め込まれた授業を、惰性のように受容する。予習して授業を聞いて復習して、の繰り返し。それなりの進学校に入学した紬は、毎日反吐が出るぐらい教科書や問題集と向き合った。
 将来何になりたいのか、どんな大学に行って何を学びたいのか、そもそも進学をするのかどうかすらぼんやりとしか考えられていないのに。輪郭の定まらない将来に向かって歩いていくには、紬の足元に伸びている道がふにゃりとしすぎていて、あまりにも心許なかった。

 それでも、クラスの友達と生産性のない話をしている時間や、マネージャーとして所属していたバスケ部での活動、その後に彼と——南隼人(みなみはやと)と部室でくつろいでいるひとときはとても満たされていた。単に「幸せ」という言葉で表せるような時間ではなく、たとえるなら晴れた日に降り注ぐ木漏れ日のように、きらきらっと光って確かな希望を感じられる時間だった。
だから、まさか自分が十七歳という年齢で死んでしまうなんて、思いもよらなかった。

『大変申し上げにくいのですが——紬さんの命は』

 まどろみの中で、医者が両親に何かを話している声がかすかに聞こえてきた。その場にいる全員が、紬はまだ眠っていると思っていただろう。だけど、覚醒しかけていた紬は医者の口から直接聞いてしまったのだ。

『もって残り三ヶ月……だと思います』

 不確定な未来は、感情の乗らない医者の声によって固く閉ざされた。不確かだった道は、これから固まるのだと信じて疑わなかった。
 でも違ったのだ。
 形もままならないまま、紬の未来へと続く道はこわれてしまった。
 大切な人に、大切だという想いを伝えられないまま。

『あーあ』

 医者が部屋から出て行って、両親と自分が取り残された時、紬は口から大きなため息を吐いた。
 両親がびっくりしてベッドに寝かされている紬を凝視する。

『つ、紬……起きてたの』

『起きたなら声ぐらいかけてくれよ……』

 二人とも、紬が大きな手術をして目を覚ました後にかけるべき言葉を、本当は用意していたのだろう。だが、紬が突然ため息をついたからか、頭の中で考えていた言葉が弾け飛んでしまったみたいに呆けた表情をしていた。

『声、かけられると思う?』

『……』

 紬の鋭いつっこみに、二人は示し合わせたかのように押し黙る。両親もまだ、現実を受け入れられてはいないのだと紬は悟った。

『大丈夫だってー。そんな湿っぽい顔しないでよ』

 目覚めたばかりでうまく手を動かすことができないから、精一杯の明るい声を響かせた。でも、表情筋はがっちり固まっていて、無理やり持ち上げた口角がひくひくと震えている。母親も父親も、紬を見下ろしてその場に立ち尽くすばかりだった。 
 なんて顔してんの。
 そんな顔されたら、私が泣けないじゃん。
 心の中で悪態をつく。目の前にサンドバッグがあったら、何度でも殴りつけていた。
悔しさ、悲しみ、怒り。
行きどころがない感情を、とにかく発散してしまいたかった。いろんな負の感情がいろんな色を混ぜて黒くなった絵の具みたいに、ドロドロと胸の中で渦巻いていた。

 ひとしきり感情のグラデーションを味わった後、最後に残ったもの。
 それはやっぱり〝恐怖〟だった。
 死にたくない。
 死にたくないよ。
 ねえ、隼人——。

 大切な人の名前を呟く。決して声は出さずに、何度も心の中でだけ囁いた。両親の両目には涙が溜まっていた。紬はそれに見えないふりをして、両親から自分の病気について聞き出した。 
 どうやら、沈黙の臓器と呼ばれる箇所に、がんが見つかったらしい。
 がん。
 それはどこか身近なようで、そうではない病気だった。自分よりももっと年上の、中年以上の人がなる病気だと思っていた。でもよく考えると、小児がんという言葉があるように、子どもだってかかる病気なのだ。
 でもまさか、自分の身に降りかかるなんて思わないじゃないか。
 がんと言われるにはあまりに自覚症状がなく、昨日倒れるまで痛いところはどこにもなかったから。