***
「おかえりなさいませ、日比朔也さん」
やわらかな風鈴の音色のような声が朔也の耳元で響いた。
前に一度『言の葉書房』に戻り、対峙した時のハルサカの鋭い声を思い出す。朔也の中の彼のイメージはいつだって優しいお布団だったが、ハルサカにだって、心の棘を見せることがあるのだと朔也は知った。
「ただいま戻りました」
そう答える朔也の声には迷いはない。
ハルサカは、少し前の朔也の表情と今の朔也の表情に違いを見つけたのか、目を丸くした後に、ふっと微笑んだ。
「どうやら望月ゆとりさんに会えたようですね」
「はい、会えました。ゆとりがカフェに来てくれたのって、もしかしてハルサカさんの計らいのおかげですか?」
朔也はふと胸に浮かんだ疑問をハルサカにぶつけた。あのタイミングでゆとりが『Café-とよふく』に来てくれたのがあまりにも奇跡的で都合の良い物語のように感じられたのだ。
だからハルサカが、ゆとりに会いたいと嘆く朔也のことを憐れんで、ゆとりをカフェに連れて来てくれたのだと考えたのだ。
だが、朔也の質問を受けたハルサカは「はて」と惚けたように首を傾げた。
「なんの話でしょう。ゆとりさんがあなたの近くに来たのは、あなたたちの想いの強さが起こした奇跡に他ならないでしょう」
柔和な笑みを浮かべながら、ハルサカは春の陽気な空気のような口調で言った。
そうかもしれない。
いや、そうだったら嬉しい。
朔也は、ハルサカの言葉以上のことを考えず、ただ素直に彼の言うことを信じてみたいと思った。複雑な答えなんていらない。シンプルに、ありのままの現実を受け入れること。朔也の心は現世に戻る前よりずっと澄んでいた。あらゆる感情は平らかになって、そのうち心は良い意味で空っぽになっていくだろう。そんな予感がしていた。
「あなたのノートをつくりますね」
ハルサカはすぐそばの本棚から、一冊のノートを取り出した。表紙も裏表紙も真っ白で、背表紙には『日比朔也』と朔也の名前が刻まれている。
「ここに、あなたの言葉を残しておきます。これからここに来はる迷える魂たちを導いてくれることでしょう」
朔也には、ハルサカの言うことの意味が半分も理解できない。でも、それすらも受け入れられた。分からないことを分からないままにしておいても大丈夫だと思えたのは、初めてかもしれない。
ゆとりの気持ちだって、これから変わっていくかもしれない。そうじゃないかもしれない。でも、今の朔也には分からないままでいいのだ。今のゆとりが、朔也を大切に思ってくれていることを知れたから。
ハルサカが、朔也のノートに何かを書きつけて、再びノートを棚に戻す。朔也のノートの隣には、『内海言音』『田畑千絵』と知らない人の名前が書かれたノートがある。会ったことのない人たちだけれど、どこか遠くから、彼女たちの声が聞こえた気がした。
「ハルサカさんは、ここで俺みたいな魂を現世に戻して、あの世に送り出してきたんですよね」
朔也は、ふと心に思い浮かんだことをそのまま口にする。ノートを戻し終えたハルサカが「はい」と神妙に頷いた。
「それって、寂しくはないんですか?」
「寂しい?」
何を聞かれているのか分からないというふうに、ハルサカは純粋な表情で首を傾けた。でも、その瞳の奥には朔也
が知ることのできない深淵が広がっている。
ハルサカは出会った時からずっと、寂しそうなのだ。
「あなたは、せっかくここで出会った人たちと短いひと時を過ごして、またすぐにその人とお別れしなくちゃいけないんですよね? そして、ここに来る人以外と、言葉を交わすことができない。それってすごく……残酷で寂しいことなんじゃないかって、思ったんです」
「……」
朔也の、何かを祈るような切実さを孕んだ言葉に、ハルサカの喉がごくりと鳴るのが見てとれた。二人の間に沈黙が横たわる。古い本の匂いがいやに濃く、あたりに充満しているように感じられた。
やがて「私は」とハルサカが決意を秘めたような、はたまたこの世のすべてを諦めたような複雑な表情を浮かべながら口を開いた。
「寂しくはないんですよ。ここに来る人たちと少しの時間だけでもお喋りすることができて、楽しいです」
楽しい?
ハルサカが自分のような人間と喋ることを楽しいと感じているなんて、朔也は思いもしなかった。
しかし、「楽しい」と言ったハルサカの表情がすぐに憂いを帯びたものに変わる。絶望とも寂しさともつかない、彼の中に巣食う深すぎる暗闇が垣間見えたような瞬間だった。
朔也ははっと息をのんだ。
「でも……一つだけ、思うことはありますね」
相変わらず関西弁のイントネーションで言葉を続けた。
「あの人は今何をしてるんやろうって、ふとした瞬間に考えることがあります。あなたとこうして言葉
を交わしている間、他の誰かと言葉を交わしている間じゅう……。ふふふ、〝ふとした瞬間〟やないですね。ずっ
と、絶え間なく考えてます。誰と何を話していても、頭の片隅でずっと思ってるんですね」
きゅっと細められた目が見つめているのは、朔也ではない。
どこか遠い場所にいる、彼の大切な人だろう。
その人とハルサカが、もう二度と会うことのできない関係なのだと悟ってしまって。
朔也はそれ以上、無理やり彼の心をこじ開けようとは思えなかった。
ただ、祈る。
ハルサカがずっと考えているその人が、どうか幸せでいてくれますようにと。
「ああ、すんませんねぇ。こんな話、あなたにしたって仕方ないのに」
「いえ、俺が聞いたことですから。その人といつか……話せる日が来るといいですね」
慰めにもならない朔也のその社交辞令的な言葉に、ハルサカは優しく微笑んで「ええ」と頷いた。
「さて、湿っぽい話はここで終わりにしましょう。日比朔也さん。今日はあなたの門出の日です」
わざとらしく明るくて高い声で、ハルサカが紳士らしく朔也に向かって右手を差し出した。
「ありがとうございます。ハルサカさん」
ハルサカの手をそっと握ると、これから子どもたちを遊園地に導くピエロのように、ハルサカは愉快そうに頬を綻ばせた。
ハルサカに導かれて、朔也は一歩ずつ歩いていく。どこに行くのか、自分でもよく分かっていない。これから朔也が歩いていく道にはもう誰もいないと分かっている。
でも、不思議と寂しくはなかった。
朔也の胸には現世で精一杯愛したゆとりと、ハルサカの温かさと、今まで出会って自分と関わってきてくれたすべての人たちへの思慕であふれているから。
まだ見ぬ世界への扉を開き、ありったけの幸福を携えて、振り返らずに朔也は進んだ。
「おかえりなさいませ、日比朔也さん」
やわらかな風鈴の音色のような声が朔也の耳元で響いた。
前に一度『言の葉書房』に戻り、対峙した時のハルサカの鋭い声を思い出す。朔也の中の彼のイメージはいつだって優しいお布団だったが、ハルサカにだって、心の棘を見せることがあるのだと朔也は知った。
「ただいま戻りました」
そう答える朔也の声には迷いはない。
ハルサカは、少し前の朔也の表情と今の朔也の表情に違いを見つけたのか、目を丸くした後に、ふっと微笑んだ。
「どうやら望月ゆとりさんに会えたようですね」
「はい、会えました。ゆとりがカフェに来てくれたのって、もしかしてハルサカさんの計らいのおかげですか?」
朔也はふと胸に浮かんだ疑問をハルサカにぶつけた。あのタイミングでゆとりが『Café-とよふく』に来てくれたのがあまりにも奇跡的で都合の良い物語のように感じられたのだ。
だからハルサカが、ゆとりに会いたいと嘆く朔也のことを憐れんで、ゆとりをカフェに連れて来てくれたのだと考えたのだ。
だが、朔也の質問を受けたハルサカは「はて」と惚けたように首を傾げた。
「なんの話でしょう。ゆとりさんがあなたの近くに来たのは、あなたたちの想いの強さが起こした奇跡に他ならないでしょう」
柔和な笑みを浮かべながら、ハルサカは春の陽気な空気のような口調で言った。
そうかもしれない。
いや、そうだったら嬉しい。
朔也は、ハルサカの言葉以上のことを考えず、ただ素直に彼の言うことを信じてみたいと思った。複雑な答えなんていらない。シンプルに、ありのままの現実を受け入れること。朔也の心は現世に戻る前よりずっと澄んでいた。あらゆる感情は平らかになって、そのうち心は良い意味で空っぽになっていくだろう。そんな予感がしていた。
「あなたのノートをつくりますね」
ハルサカはすぐそばの本棚から、一冊のノートを取り出した。表紙も裏表紙も真っ白で、背表紙には『日比朔也』と朔也の名前が刻まれている。
「ここに、あなたの言葉を残しておきます。これからここに来はる迷える魂たちを導いてくれることでしょう」
朔也には、ハルサカの言うことの意味が半分も理解できない。でも、それすらも受け入れられた。分からないことを分からないままにしておいても大丈夫だと思えたのは、初めてかもしれない。
ゆとりの気持ちだって、これから変わっていくかもしれない。そうじゃないかもしれない。でも、今の朔也には分からないままでいいのだ。今のゆとりが、朔也を大切に思ってくれていることを知れたから。
ハルサカが、朔也のノートに何かを書きつけて、再びノートを棚に戻す。朔也のノートの隣には、『内海言音』『田畑千絵』と知らない人の名前が書かれたノートがある。会ったことのない人たちだけれど、どこか遠くから、彼女たちの声が聞こえた気がした。
「ハルサカさんは、ここで俺みたいな魂を現世に戻して、あの世に送り出してきたんですよね」
朔也は、ふと心に思い浮かんだことをそのまま口にする。ノートを戻し終えたハルサカが「はい」と神妙に頷いた。
「それって、寂しくはないんですか?」
「寂しい?」
何を聞かれているのか分からないというふうに、ハルサカは純粋な表情で首を傾けた。でも、その瞳の奥には朔也
が知ることのできない深淵が広がっている。
ハルサカは出会った時からずっと、寂しそうなのだ。
「あなたは、せっかくここで出会った人たちと短いひと時を過ごして、またすぐにその人とお別れしなくちゃいけないんですよね? そして、ここに来る人以外と、言葉を交わすことができない。それってすごく……残酷で寂しいことなんじゃないかって、思ったんです」
「……」
朔也の、何かを祈るような切実さを孕んだ言葉に、ハルサカの喉がごくりと鳴るのが見てとれた。二人の間に沈黙が横たわる。古い本の匂いがいやに濃く、あたりに充満しているように感じられた。
やがて「私は」とハルサカが決意を秘めたような、はたまたこの世のすべてを諦めたような複雑な表情を浮かべながら口を開いた。
「寂しくはないんですよ。ここに来る人たちと少しの時間だけでもお喋りすることができて、楽しいです」
楽しい?
ハルサカが自分のような人間と喋ることを楽しいと感じているなんて、朔也は思いもしなかった。
しかし、「楽しい」と言ったハルサカの表情がすぐに憂いを帯びたものに変わる。絶望とも寂しさともつかない、彼の中に巣食う深すぎる暗闇が垣間見えたような瞬間だった。
朔也ははっと息をのんだ。
「でも……一つだけ、思うことはありますね」
相変わらず関西弁のイントネーションで言葉を続けた。
「あの人は今何をしてるんやろうって、ふとした瞬間に考えることがあります。あなたとこうして言葉
を交わしている間、他の誰かと言葉を交わしている間じゅう……。ふふふ、〝ふとした瞬間〟やないですね。ずっ
と、絶え間なく考えてます。誰と何を話していても、頭の片隅でずっと思ってるんですね」
きゅっと細められた目が見つめているのは、朔也ではない。
どこか遠い場所にいる、彼の大切な人だろう。
その人とハルサカが、もう二度と会うことのできない関係なのだと悟ってしまって。
朔也はそれ以上、無理やり彼の心をこじ開けようとは思えなかった。
ただ、祈る。
ハルサカがずっと考えているその人が、どうか幸せでいてくれますようにと。
「ああ、すんませんねぇ。こんな話、あなたにしたって仕方ないのに」
「いえ、俺が聞いたことですから。その人といつか……話せる日が来るといいですね」
慰めにもならない朔也のその社交辞令的な言葉に、ハルサカは優しく微笑んで「ええ」と頷いた。
「さて、湿っぽい話はここで終わりにしましょう。日比朔也さん。今日はあなたの門出の日です」
わざとらしく明るくて高い声で、ハルサカが紳士らしく朔也に向かって右手を差し出した。
「ありがとうございます。ハルサカさん」
ハルサカの手をそっと握ると、これから子どもたちを遊園地に導くピエロのように、ハルサカは愉快そうに頬を綻ばせた。
ハルサカに導かれて、朔也は一歩ずつ歩いていく。どこに行くのか、自分でもよく分かっていない。これから朔也が歩いていく道にはもう誰もいないと分かっている。
でも、不思議と寂しくはなかった。
朔也の胸には現世で精一杯愛したゆとりと、ハルサカの温かさと、今まで出会って自分と関わってきてくれたすべての人たちへの思慕であふれているから。
まだ見ぬ世界への扉を開き、ありったけの幸福を携えて、振り返らずに朔也は進んだ。



