言の葉はさよならまでの栞

「きみ……」

 子犬に話しかけるように、朔也に向かって「きみ」と呟いた、その時だ。

「あの、大丈夫ですか?」

 隣の席に座っていた一人の男性客がゆとりに声をかけた。ゆとりも朔也もはっとして声の主のほうを見やる。年齢は朔也たちより少し年上といったところだろうか。病衣を纏っておらず、私服であるところを見ると、誰かのお見舞いに来たんだろう。

 ゆとりは泣き顔を見られて恥ずかしかったのか、顔を赤らめながら「大丈夫ですっ」と慌てて答える。読んでいた本に栞を挟み、テーブルの上に置いた。椅子にかけていたショルダーバッグからハンカチを取り出して涙を拭おうとしたのだが、ちょうどその時、鞄から一枚の封筒がはらりと舞い落ちた。

「あれ、なんだろうこれ」

 テーブルの下にポトンと落ちたそれを、ゆとりが拾い上げる。隣の男性はゆとりが大丈夫だと悟ったのか、それ以上は何も言わず、ただゆとりの行動をそっと窺っていた。

「手紙……?」

 その封筒に、朔也は確かに見覚えがあった。
 白くて光沢のある封筒。三ヶ月前——ゆとりにプロポーズをした日の夜に朔也自身が認めたものだった。
ゆとりにプロポーズをしたけれど、口では伝えたいことを十分に伝えきれなかった。自宅に帰り、頭が冷静になってきたところで、手紙を書いたのだ。今のこの激情を今のうちに手紙に書き残しておかないと、臆病な自分はまたゆとりに気持ちを伝えられなくなってしまう。

 だからこそ、朔也はペンを握った。
 内容は確か……今思い出すと恥ずかしいぐらい、「愛してる」を存分に散りばめたような内容だ。直接的に「愛してる」という言葉を書いたような気もする。自分がどれだけゆとりと一緒に生きていきたいか、ゆとりが病気であることもすべて受け入れた上で、ゆとりと結婚したいと思っている気持ちの強さを綴ったのだ。
 その手紙を、そっとゆとりの鞄の内ポケットに入れておいた。
 いつ気づくだろうかと数日はドキドキしていたが、しばらく経ってもゆとりが手紙を開けた様子がないので、手紙を書いたこと自体、忘れていた。
 見つからなくてもいい、と思っていたのだ。
 自分の気持ちを整理するためのものでもあり、ゆとりと一緒になる決意を固めるものでもあったから。たとえゆとりが手紙を読んでくれなくても、言葉を書き残したことに意味があると感じていた。
 今目の前の彼女は、手紙を手に取り裏返したりじっと見つめたりを繰り返す。多少訝しく思っている様子だったが、きらきらとした封筒からは悪意を感じられないと思ったのか、やがてゆっくりと封を開けた。糊付けはしておらず、黄色い花のシールで封をしているだけだったので簡単にペリッと開いた。
 ゆとりは封筒の中から便箋を取り出し、それが三枚も重なっていることに驚いた様子を見せつつ、椅子に座ってゆっくりと手紙に目を通し始めた。

 自分が書いた手紙を目の前で読まれることほど恥ずかしいことはない。
 朔也はドキドキしながらも、ゆとりの反応を窺っていた。
 涙を拭うことも忘れて、彼女のハンカチはテーブルの上に放置されたままだ。やがて手紙を読み進める彼女の瞳から、また一筋の涙が滑り落ちる。だけど、先ほどとは違って苦しそうな涙ではない。拭いきれなかった涙の跡に上書きしていくように、一筋、また一筋と線が引かれていく。サーッと美しい雨のような涙だった。

 そして、三枚目まで手紙を読み終えたゆとりはテーブルの上に置いていたハンカチで、今度こそ目元を拭った。手紙を大事に鞄にしまい込んだ後、やわらかい微笑みを浮かべる。それから、再び鞄に手を入れて、今度は愛用していた手帳と鉛筆を取り出した。 

 絵を描くのだ、と朔也が気づいた時にはもう、サッサッと手帳の空いているページの上で鉛筆を動かしていた。何を描いているのか、朔也の位置からはあまりよく見えない。でも手を動かしている時のゆとりの真剣なまなざしや、時折嬉しそうに緩む表情を見ていると、言いようもないほどじんわりと温かい気持ちで満たされていった。

「ふふ、できた」

 三十分ほど絵画に没頭した後、顔を上げて、少し遠めからできあがった絵を眺めるゆとり。テーブルの上に開かれたその手帳のページには、朔也が生前ゆとりに話していた「理想のカフェ」の外観が描かれていた。
 レンガ造りの壁に、おしゃれさを演出するように蔦が降りている。小窓のヘリの部分にはなぜかこんもりと雪が積もっていて、可愛らしかった。おとぎ噺にでてくるような外観だ。中に入ると、きっと朔也たちが今いる『Café-とよふく』のように、木の温もりに満ちた心温まる空間が広がっているのだろう。
 微笑みを浮かべるゆとりの頬に先ほど流れていた涙の跡は乾いていた。
 ゆとりはどうして今、朔也のカフェの絵を描いたのだろう。
 朔也には想像することしかできない。でも、ゆとりの切なくもやわらかな表情を見ていると、これで良いんだと思うことができた。

 朔也の手紙が、きっと凍っていたゆとりの心を溶かしたのだ。
 ずっと、朔也の前では涙を見せなかったゆとり。でも本当は、病気になったことも、朔也がいなくなったことも、一番深く傷ついていたのは他でもない彼女だったのだ。そんなゆとりが自ら鉛筆を握り、朔也が最も大切にしていた夢を、描いてくれた。それだけでもう十分じゃないか。
 ゆとりがこれからの将来自分のことを忘れて、他の男を好きになるかもしれないと考えると、胸のざわめきが止まらなかった。でも、今はもう大丈夫。
 ゆとりはきっと朔也のことを忘れることはない。
 それでも、この先他の誰かを好きになるだろう。
 それで良いのだ。ゆとりには、この世で一番幸せになってほしいと思うから——。
 朔也が心の底からゆとりの幸せを願っていると、ゆとりが手帳を持ったまま、カタリと席を立ち上がった。視線はドラセナに——朔也に、釘付けになっている。
 そのままゆっくりと朔也に歩み寄り、葉を撫でた。ひんやりとしているけれど温かい彼女の手のひらの感触を感じることができた。

「今気づいた。きみ、もしかして〝幸福の木〟?」

 すっと目を細めて、赤子をあやすみたいによしよしと葉を撫でるゆとり。
 朔也はぎゅっと胸が締め付けられながらも、「そうだよ」と心の中で何度も頷いた。
 俺は幸福の木だ。
 きみの未来を幸福に導くよ。
 だから自信を持って、前に進んで。

「不思議ね。こうしてると、朔くんと話してるみたい。きみも、一緒に連れて行きたくなっちゃった」

 連れて行きたいとはどういうことだろう——朔也が疑問に思っている間に、ゆとりが今度は立ったまま手帳にカフェの内装を描きはじめた。結婚式の披露宴会場のように、観葉植物や花をいっぱいに詰め込んだような場所だ。朔也が想像していた通りの心温まる空間の中に、ドラセナの木が描かれていた。
「ほら、これできみも一緒だね。ここに来るお客さんたちを幸せな気持ちにするの。そしたらさ、朔くんもきっと幸せな気分になれるでしょう?」
 ゆとりは、目の前のドラセナを朔也と気づいたわけではないはずだ。それでも、ドラセナに語りかける彼女の声は丸みを帯びていて、愛する人に対峙した時のそれだった。
 ゆとりが、自分の左手の薬指に嵌っている指輪を愛しそうに見つめてそっと撫でる。
 朔也は、自分がゆとりの未来になくてはならない存在になっていたことに気づいて、心の中で涙の雨が降り注いだ。

(ゆとり……きみは本当に、最高の女の子だよ。会いに来てくれてありがとう)

 朔也の胸は感動で弾け飛びそうなほどにたくさんの幸福で満たされていた。ゆとりは朔也の頭を、頬を、顎を、腕を、背中を、足を、順番に優しい手つきで触った。ゆとりの〝生命〟を全身で感じながら、心ごとこの場所に溶けていく。
 そして朔也は、ゆとりと一つになった。
 ゆとりの胸の中に、朔也はこれからも一緒にいるのだ。
 ゆとりが泣いていたら、朔也がそばで励ましてやれる。
 ゆとりが笑っていたら、朔也も一緒にケラケラ笑ってやれる。
 ゆとりが他の誰かを好きになったら——ちょっと嫉妬してしまうかもしれないが、心から応援しよう。
 自分以外の誰かの幸せを、朔也は初めて本気で願うことができた。

 だからだろうか。
 さっきまで明瞭だった朔也の視界が白い光に包まれてくのは。まだタイムリミットではないはずだが、朔也の心がもう十分だと満足したのだろう。

「朔くん?」

 何かの気配を察知したのか、ゆとりの心細そうな声が小さく響く。朔也は何も言えない。ゆとりに「大丈夫」と声をかけたいけれど、もちろん声は出ない。
 だからその代わり、精一杯胸をしゃんと張って、白く染まっていく視界の中で、彼女の目をじっと見つめた。

「そっか。朔くん、これからもずっと一緒だよね」

 また少し目尻に浮かんだ涙をそっと細い指で拭いながら、温かな微笑みを湛えるゆとりを見て、朔也は心の中で力強く頷いた。

(ずっと一緒だよ)

 朔也が言葉を与えなくても、ゆとりの中に朔也の言葉が生き続けるのだ。
 そうと気づいたから、朔也はもう本当に大丈夫だと思った。
 ゆとりが朔也の身体を撫で続ける、その温もりを感じながら、朔也はゆっくりと天へと帰っていった。