言の葉はさよならまでの栞

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 爽やかで優しい風鈴のような音が耳の奥で響いて、朔也は再びドラセナとして意識を取り戻した。
 思えば現世に来る時のこの音は、ハルサカのようだ。ハルサカが背中を押してくれているのだと感じた。
 時刻は朝八時ぐらいだろうか。二日前に初めて現世に降りてきた時とお店の混み具合が同じだった。この時間帯、入院患者や医者が多く訪れるが、やっぱりゆとりの姿は見当たらない。
 それでも、朔也は焦ることなく待ち続けた。 
 ゆとりはきっと今日、ここに来る。
 根拠はないはずなのに、朔也の中に確信めいた自信が生まれていた。
 そして、その朔也の予想は現実のものとなった。
 十時ごろ、月の引力によって寄せては返る波のように、導かれるようにして見慣れた女性が『Café-とよふく』にやって来たのだ。

(ゆとり……!)

 ぼうっとただそこに佇んでいただけの朔也だったが、ゆとりのさらさらの長い黒髪を見た瞬間、びぃんと全身に電撃が走ったかのように、背筋がしゃんと伸びた。もちろん、植物なので実際に身体が動いたわけではないが、それぐらい、意識がはっと覚醒したのだ。
 ゆとりは軽い足音を立てながら、レジに向かった。先に飲み物を注文して、コーヒーを持って朔也の近くに歩み寄ってくる。そして、朔也のすぐ近くの席に——つまり、彼女の定位置の席に腰を下ろすと、コーヒーを一口啜った。おそらくカフェインレスコーヒーだろう。
 ゆとりが瞬きするたびに、長いまつ毛がぱちぱちと揺れる。真顔でコーヒーを飲む彼女は何を考えているのだろう。少なくとも、今彼女の頭の中に自分はいないような気がして、朔也は胸が軋んだ。
 ゆとりがここに来たら、悲しみに暮れている彼女を見ることになるのかもしれないと、不安になっていた気持ちが飛んでいく。ゆとりはいたって普通だった。普通すぎるぐらい、何事もないようにしてコーヒーを飲んでいる。朔也にとっては安心できることであるはずなのに、反対にチクチクと鈍い痛みが広がっていく。

(あれ、俺、なんで……)

 ゆとりが元気なら、それが一番良いことじゃないか。
 もちろん、入院しているので身体が健康であるというわけではない。
 そうではなくて、ゆとりの精神状態が穏やかであることが、ゆとりにとって一番大事なことだし、朔也もそれを望んでいたはずだ。
 どうか自分がいなくても、ゆとりが前を向いて生きてくれますようにと。 
 でも、実際にゆとりが普段通りにお茶をしているところを見ると——朔也の胸はどうしようもなく切なく締め付けられるのだ。
 もしかしたら本当に、ゆとりは俺のことを忘れてしまったのかもしれない(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)と。

 ゆとりがすぐ近くで、一メートルほどの距離のところでコーヒーを飲んでいるというのに、指一本触れることすらできない。それでもいいと思ったはずではないか。ゆとりの姿を見られたらそれでいいって。でも、実際に彼女の姿を目にすると、今すぐ彼女を抱きしめたい衝動に駆られていた。
 ああ、人間の欲はなんて深いんだろう。 
 底なし沼のように、もっともっと、とどんどん膨らんでいく。
 ドラセナである朔也にはこれ以上大きくなる欲求をどうすることもできないのに。
 やるせない気持ちでゆとりを見守っていると、今度は彼女が持っていたショルダーバッグから文庫本を取り出して、読み始めた。左手に嵌められた真新しい指輪が店内の照明を反射して光る。飲みかけのコーヒーは半分、まだ残っていた。

 文庫本にはカバーが掛けられていて、タイトルは分からない。
 でもきっと、朔也が生きていた頃、彼女にプレゼントした本のどれかだということは確信していた。
 入院期間中、退屈しているだろうと思い、朔也は本や画材なんかを度々彼女に渡していた。ゆとりはいつも「ありがとう、助かる!」と目を輝かせてそれらを受け取ってくれた。大人の女性に渡すものとしてあまりにも芸がないとは思っていたけれど、読書や絵画が好きな彼女はいつも子どもみたいに目を輝かせて喜んでくれた。

 ゆとりの笑顔を見るのが好きだった。 
 明るくて前向きで、どんな時でも笑顔を絶やさないゆとりが。
 でも今は——一人きりということもあり、彼女が笑みを浮かべることはない。寂しい気持ちに襲われつつも、それでもゆとりの精神が安定しているならそれ以上求める必要はないのだと思い直す。
 ゆとりが本を読み始めて十分ほど経った頃だろうか。
 ゆとりが突然「うっ」と喉を詰まらせるのを見た。

(大丈夫か⁉︎)

 朔也は最初、ゆとりが病気で苦しみ始めたのかと思って、彼女を凝視した。 

(ゆとり、ゆとり……!)

 心配でたまらなくて、彼女の名前を心の中で何度も叫んだ。でも、朔也が不安に思う必要はなかった。ゆとりがずずっと鼻を啜ったので、目を瞠る。彼女の両目からポロポロと涙がこぼれ落ちるのを見た。ゆとりはただ——本を読んで泣いていたのだ。

「朔くん……」

 一筋、また一筋と涙を流したかと思うと、今度は顔をくしゃくしゃに歪めて、朔也の名前を呟いた。

「朔くん、なんでよ……なんでいないのよ」

 とめどなくあふれてくる涙が、テーブルの上にまだら模様をつくっていく。

「どうせまだ結婚してなくて良かったって思ってるんでしょ……? 私が未亡人にならなくて良かったって。私は、
朔くんと結婚したかったよ」

 朔也は唖然としてゆとりを見つめていた。
 ゆとりがこんなふうに泣きじゃくる姿を、初めて見たのだ。
 いつも、明るくて朗らかな笑顔で周囲を和ませているゆとり。病気のことを語る時も、全然たいしたことない様子で「大丈夫」と力強く頷いてみせた。
 逆に落ち込む朔也を励ましてくれさえした。
 でも本当はゆとりが一番辛くてたまらないということを、朔也だって分かっていたはずなのに。ゆとりが明るく振る舞ってくれることに甘えて、彼女に泣かせてあげられなかったのかもしれないと、この時初めて思い至る。

(俺はなんて馬鹿なんだ)

 生きていた頃に、自分の胸を貸してやるべきだった。ゆとりが精一杯泣けるように。今みたいに、朔也がいないところで一人悲しみに暮れなくて済むように。心の澱を吐き出させて、彼女がどれだけ醜く嘆く姿を見ても、それを受け止めてやるべきだった。
 だけど、どんなに後悔してももう、泣いているゆとりの頭を撫でてやれない。
 抱きしめてれない。
 大丈夫だと慰めてやれない。
 何もかもがもう、遅いんだ……。
 ドラセナとなった朔也は全身の葉が小刻みに震えていることに気づいた。自然界では風で揺れる以外に植物の葉が震えることなんてないだろう。ゆとりは、涙を流しながら震える朔也をじっと見つめた。