***
次に『言の葉書房』で目を覚ました時、朔也は視界の端っこで木製の椅子に腰掛けて本を読んでいるハルサカを捉えた。
あんなところに椅子なんてあっただろうか——記憶を探ってみるも、そもそも朔也が『言の葉書房』に滞在していた時間はかなり短い。自分は『言の葉書房』のことを何も知らないのだと、思い至る。
朔也がじっと見つめていることに気づいたのか、ハルサカがふと顔を上げて、読んでいた本を閉じて棚に戻しながら「戻りはったんですね」と柔和な顔つきで呟いた。
「はい……もう、終わりにしようかと思って」
朔也が複雑な気持ちでそう口にすると、ハルサカはキリリと厳しい表情になった。
「それは、本心ですか?」
不意を突かれた朔也はぐっと自然とお腹に力が入る。
終わりにしようと思っているのは本心なのか。
もちろん、本気で願ったことである。これ以上、現世に留まっていてもゆとりに会えないなら、苦痛なだけだと。だけどハルサカの目は、すべてを見透かしているように鋭く光っていた。
「本心……ですよ。頑張ってゆとりのことを待っていたんです。植物ですからね。俺自身、動くことができなくて。それでもまる二日間、永遠の牢獄に入れられたような心地でゆとりを待っていたんです」
でも、待てど暮らせどゆとりはやってこない。
生きている頃は四十八時間なんて常にあっという間に過ぎ去っていた。でも、何もできない時間はあまりにも長かった。
「だから、逃げてきはったんですね」
口調はやわらかなのに、ハルサカの声は朔也が一番後ろめたいところを突くような鋭利さを孕んでいた。
「逃げたわけじゃ」
ない、と言い切ることができない。
実際、逃げたという表現をされて、自分が一番しっくりきていることに気づいたのだ。
「日比朔也さん。あなたは、本当はゆとりさんに会えない時間が苦痛だから帰ってきたんやなくて、ゆとりさんに会
うのが怖かったから戻ってきたんやないですか」
「それはっ……」
もはや、ハルサカにはどんな言い訳も効かないのだと悟る。
まるで朔也の心の中を覗いているかのように、朔也でさえ言語化できなかった気持ちを、刃のように尖らせてこちらに向けてくる。なんて恐ろしい人なんだと、朔也はこの時初めてハルサカのことを怖いと感じた。
「勘違いしないでください。私はあなたのことを弱虫だと責めたいわけやないんです。ただ、あなたが本当に納得のいく決断をしてほしいだけなんですよ」
ハルサカの声が先ほどよりも丸くなっていることに気づいた。その目は何かを憂いているようで、朔也ははっと身を固くする。
ハルサカはまるで、自分のことを話しているように遠い目をして朔也を見つめていた。
過去に、彼自身が納得のいく決断をできなかったのを後悔しているように、苦い気持ちが全身から滲み出ていた。
「ハルサカさんは……経験があるんですか」
気がつけば口が勝手に動いていた、と言っても過言ではない。朔也の疑問に、ハルサカがはっと目を丸くして朔也を見つめる。
「納得のいく決断ができなくて、後悔していることが、あるんですか?」
どうしてハルサカの話を聞こうと思ったのかも、朔也自身、よく分からない。
でも、自分がゆとりの前から消えるという決断が、本当に正しかったのかどうか自分でも決心が揺らいでしまっていたのは事実だ。
ハルサカはどうなんだろう。
見た目は完全に人間なのだが、どこか幻想めいた存在である彼にも、人並みに後悔や苦い思いをすることがあるのだろうか。自分とはまったく違う生き物だと思っていた彼の深淵に触れたいと、朔也はそう感じたのだ。
ハルサカはしばらく黙り込んだ後、口を開いたり閉じたりして、何か言葉を発するかどうか迷っている素ぶりを見せた。朔也はハルサカが答えをくれるのをじっくりと待った。やがて彼は観念した様子で眉を下げながら「そうですね」と目を細めながら呟いた。
「後悔ばかりの人生でしたよ。だからこそ、『言の葉書房』なんて場所に、自分を閉じ込めているんでしょうね」
憂いの滲む声が、朔也の胸にずっしりと響き渡る。
ハルサカの言葉はどこか抽象的で、実際に何を後悔しているのか、どうしてハルサカが『言の葉書房』の店主をや
っているのか、具体的なことは何一つ分からない。でも、ハルサカがかつて朔也と同じように生身の人間として生きて、ままならない感情に支配されてきたことだけは理解できた。
「だからこそ、思うんです。日比朔也さん。人が言葉を話すのは、未来の自分が後悔しないためやないかって。同時に、たとえ言葉を話すことができなくても、想いを残すことが大切なんやって、思ったんですよ」
ハルサカの静かな語り口調が、今度はしんしんと身体に浸透するように沁みていく。
たとえ言葉を話すことができなくても、想いを残すことが大切。
それはハルサカがかつてできなかったことの裏返しであるような気がした。
だからこそ、ハルサカは『言の葉書房』をつくり出して、後悔を払拭しようとしているのかもしれない。ぼやけていたハルサカという人間の輪郭の一部がくっきりと見えるようになった心地がした。
「私は、あなたが本当に現世に戻るんをやめたいと言うなら、その通りにするつもりです。でもそれが本心やないなら——あなたに後悔しない選択肢を選び取ってほしいんですよ」
突き放すような鋭い言葉も、自らの古傷に触れるような痛みの滲んだ言葉も、すべてハルサカの思いやりだった。
朔也は考える。
ハルサカの言う通り、自分はただゆとりから恨まれるのが怖くて、逃げているのではないかと。
せっかくハルサカのくれたチャンスをふいにして、ゆとりに会わずに人生を終わらせようとしているだけではないか。
そうしてまた、魂だけになった朔也は後悔ばかり抱えて成仏できずにこの世を彷徨い続けるのではないか。
そうなったら、ゆとりにもチャンスをくれたハルサカにも申し訳なくて顔向けできない。いや、もう顔すらなくなるんだろうけれど、自分の人生の終わりがそんなふうに後悔まみれになるのは嫌だった。
二十五年間という短い時間だったけれど、精一杯生きたのだ。
誇りにして、最後の瞬間まで命と向き合うべきじゃないだろか。
「……ハルサカさん」
朔也はようやく決心できたことを、ゆっくりとハルサカに伝える。
「俺は、やっぱりゆとりに会いたいです。言葉が話せなくても、ゆとりの顔を見て、彼女がこれからも元気に生きていけるように応援したいです」
言葉が話せないのだから、自分の想いはゆとりには伝えられないのかもしれない。
それでもいい。彼女の顔を見て、心の中で彼女を応援するだけでもいいんだ。
神様だって、それぐらい許してくれるだろう。
想いを残すことが、今の自分に必要なことだから。
朔也の前向きな決意を聞いたハルサカが途端に頬を綻ばせる。幼い子どもを安心させるような、優しげな笑みだった。
「よく決意しはりましたね。なんだか私も嬉しいです。では、再び現世にご案内しましょうか」
「はい」
今度はもう迷わなかった。
ハルサカという優しい紳士から背中を押されて、朔也はまた現世へと舞い戻る。
その先でゆとりの姿を見ることが本望だが、もし見られなくても、最後の瞬間まで祈っていよう。
ゆとりの病気が完治して、彼女が幸せな未来を歩いていくことを。
次に『言の葉書房』で目を覚ました時、朔也は視界の端っこで木製の椅子に腰掛けて本を読んでいるハルサカを捉えた。
あんなところに椅子なんてあっただろうか——記憶を探ってみるも、そもそも朔也が『言の葉書房』に滞在していた時間はかなり短い。自分は『言の葉書房』のことを何も知らないのだと、思い至る。
朔也がじっと見つめていることに気づいたのか、ハルサカがふと顔を上げて、読んでいた本を閉じて棚に戻しながら「戻りはったんですね」と柔和な顔つきで呟いた。
「はい……もう、終わりにしようかと思って」
朔也が複雑な気持ちでそう口にすると、ハルサカはキリリと厳しい表情になった。
「それは、本心ですか?」
不意を突かれた朔也はぐっと自然とお腹に力が入る。
終わりにしようと思っているのは本心なのか。
もちろん、本気で願ったことである。これ以上、現世に留まっていてもゆとりに会えないなら、苦痛なだけだと。だけどハルサカの目は、すべてを見透かしているように鋭く光っていた。
「本心……ですよ。頑張ってゆとりのことを待っていたんです。植物ですからね。俺自身、動くことができなくて。それでもまる二日間、永遠の牢獄に入れられたような心地でゆとりを待っていたんです」
でも、待てど暮らせどゆとりはやってこない。
生きている頃は四十八時間なんて常にあっという間に過ぎ去っていた。でも、何もできない時間はあまりにも長かった。
「だから、逃げてきはったんですね」
口調はやわらかなのに、ハルサカの声は朔也が一番後ろめたいところを突くような鋭利さを孕んでいた。
「逃げたわけじゃ」
ない、と言い切ることができない。
実際、逃げたという表現をされて、自分が一番しっくりきていることに気づいたのだ。
「日比朔也さん。あなたは、本当はゆとりさんに会えない時間が苦痛だから帰ってきたんやなくて、ゆとりさんに会
うのが怖かったから戻ってきたんやないですか」
「それはっ……」
もはや、ハルサカにはどんな言い訳も効かないのだと悟る。
まるで朔也の心の中を覗いているかのように、朔也でさえ言語化できなかった気持ちを、刃のように尖らせてこちらに向けてくる。なんて恐ろしい人なんだと、朔也はこの時初めてハルサカのことを怖いと感じた。
「勘違いしないでください。私はあなたのことを弱虫だと責めたいわけやないんです。ただ、あなたが本当に納得のいく決断をしてほしいだけなんですよ」
ハルサカの声が先ほどよりも丸くなっていることに気づいた。その目は何かを憂いているようで、朔也ははっと身を固くする。
ハルサカはまるで、自分のことを話しているように遠い目をして朔也を見つめていた。
過去に、彼自身が納得のいく決断をできなかったのを後悔しているように、苦い気持ちが全身から滲み出ていた。
「ハルサカさんは……経験があるんですか」
気がつけば口が勝手に動いていた、と言っても過言ではない。朔也の疑問に、ハルサカがはっと目を丸くして朔也を見つめる。
「納得のいく決断ができなくて、後悔していることが、あるんですか?」
どうしてハルサカの話を聞こうと思ったのかも、朔也自身、よく分からない。
でも、自分がゆとりの前から消えるという決断が、本当に正しかったのかどうか自分でも決心が揺らいでしまっていたのは事実だ。
ハルサカはどうなんだろう。
見た目は完全に人間なのだが、どこか幻想めいた存在である彼にも、人並みに後悔や苦い思いをすることがあるのだろうか。自分とはまったく違う生き物だと思っていた彼の深淵に触れたいと、朔也はそう感じたのだ。
ハルサカはしばらく黙り込んだ後、口を開いたり閉じたりして、何か言葉を発するかどうか迷っている素ぶりを見せた。朔也はハルサカが答えをくれるのをじっくりと待った。やがて彼は観念した様子で眉を下げながら「そうですね」と目を細めながら呟いた。
「後悔ばかりの人生でしたよ。だからこそ、『言の葉書房』なんて場所に、自分を閉じ込めているんでしょうね」
憂いの滲む声が、朔也の胸にずっしりと響き渡る。
ハルサカの言葉はどこか抽象的で、実際に何を後悔しているのか、どうしてハルサカが『言の葉書房』の店主をや
っているのか、具体的なことは何一つ分からない。でも、ハルサカがかつて朔也と同じように生身の人間として生きて、ままならない感情に支配されてきたことだけは理解できた。
「だからこそ、思うんです。日比朔也さん。人が言葉を話すのは、未来の自分が後悔しないためやないかって。同時に、たとえ言葉を話すことができなくても、想いを残すことが大切なんやって、思ったんですよ」
ハルサカの静かな語り口調が、今度はしんしんと身体に浸透するように沁みていく。
たとえ言葉を話すことができなくても、想いを残すことが大切。
それはハルサカがかつてできなかったことの裏返しであるような気がした。
だからこそ、ハルサカは『言の葉書房』をつくり出して、後悔を払拭しようとしているのかもしれない。ぼやけていたハルサカという人間の輪郭の一部がくっきりと見えるようになった心地がした。
「私は、あなたが本当に現世に戻るんをやめたいと言うなら、その通りにするつもりです。でもそれが本心やないなら——あなたに後悔しない選択肢を選び取ってほしいんですよ」
突き放すような鋭い言葉も、自らの古傷に触れるような痛みの滲んだ言葉も、すべてハルサカの思いやりだった。
朔也は考える。
ハルサカの言う通り、自分はただゆとりから恨まれるのが怖くて、逃げているのではないかと。
せっかくハルサカのくれたチャンスをふいにして、ゆとりに会わずに人生を終わらせようとしているだけではないか。
そうしてまた、魂だけになった朔也は後悔ばかり抱えて成仏できずにこの世を彷徨い続けるのではないか。
そうなったら、ゆとりにもチャンスをくれたハルサカにも申し訳なくて顔向けできない。いや、もう顔すらなくなるんだろうけれど、自分の人生の終わりがそんなふうに後悔まみれになるのは嫌だった。
二十五年間という短い時間だったけれど、精一杯生きたのだ。
誇りにして、最後の瞬間まで命と向き合うべきじゃないだろか。
「……ハルサカさん」
朔也はようやく決心できたことを、ゆっくりとハルサカに伝える。
「俺は、やっぱりゆとりに会いたいです。言葉が話せなくても、ゆとりの顔を見て、彼女がこれからも元気に生きていけるように応援したいです」
言葉が話せないのだから、自分の想いはゆとりには伝えられないのかもしれない。
それでもいい。彼女の顔を見て、心の中で彼女を応援するだけでもいいんだ。
神様だって、それぐらい許してくれるだろう。
想いを残すことが、今の自分に必要なことだから。
朔也の前向きな決意を聞いたハルサカが途端に頬を綻ばせる。幼い子どもを安心させるような、優しげな笑みだった。
「よく決意しはりましたね。なんだか私も嬉しいです。では、再び現世にご案内しましょうか」
「はい」
今度はもう迷わなかった。
ハルサカという優しい紳士から背中を押されて、朔也はまた現世へと舞い戻る。
その先でゆとりの姿を見ることが本望だが、もし見られなくても、最後の瞬間まで祈っていよう。
ゆとりの病気が完治して、彼女が幸せな未来を歩いていくことを。



