言の葉はさよならまでの栞

「ヒロ、紫音、花音……みんな、ごめんねっ」

 こんなところで謝ったって、三人には届かない。今頃三人はどうしているだろう。言音を失った混乱の最中にいて、夢の中にいるような心地になっているかもしれない。紫音なんか、ママが死んでしまったと理解できずに、「どこにいるの?」と泣いているに違いない。
 愛する家族に、もう二度と会うことができない。
 伝えたい言葉を伝えられない。
 そのあまりにも残酷な事実が、言音の胸を湿らせ、喉からは嗚咽が漏れるばかりだ。
 そんな言音に、ハルサカは落ち着いた声色でこう告げた。

「内海言音さん。実はあなたに、一つだけ叶えられることがあります」

「叶えられること……?」

 突然何を言い出すのか、失意の最中にいる言音には、どんな言葉をかけられたって心が動く気がしない。そう思っていたのだが、次にハルサカの口から飛び出してきた言葉に、耳を疑った。

「あなたはこれから現世に帰り、愛する人に会いに行くことができます」

「はい?」

 思わず「どういうこと?」と聞き返す。ハルサカの瞳がすっと細められた。

「七十二時間限定で現世に降りていただけます。ただし、条件が一つ」

 現世に降りられる。それだけでも信じられない思いなのに、ハルサカは言音の思考を置いてきぼりにして話を進める。

「〝言葉を話すことができない生き物〟に擬態すること。それが、現世に行く条件です」

「言葉を話すことができない生き物に擬態……?」

 一瞬、言音はどういうことなのかよく分からなかった。
 言葉を話すことができない生き物——つまり、動物ってこと?
 言音の表情が戸惑いに満ちているのを見たからか、ハルサカはふっと細く息を吐いてこう続けた。

「具体的には、例えばペットの犬や猫、植物や虫なんかが挙げられますね。でも、会いたい人にまったく縁もゆかりもない生き物になるよりは、それこそご自宅で飼っていたペットなんかになるほうが、相手に接することができる可能性が上がります」

「はあ。なるほど」

 本当は一つも心得たわけではないけれど、なんとかハルサカの言葉を咀嚼しようと努めた。

「それじゃあ……虫になるのはやめておいたほうがいいってことね」

「まあ、虫が好きな人もいはりますから。人それぞれです」

「そっか。あ、でも擬態する生き物って自分で選べるの?」

「はい、選べます。あと、現世に行く日にちや時間も選ぶことができます。ただし、一度選んだら、そこから現世に留まることのできる時間のタイムリミットは、七十二時間です。その時間内であれば、いつでも現世に留まるのをやめることができますし、一時的に『言の葉書房』に戻ってくることもできます」

 ハルサカが並べ立てる条件を頭の中で反芻する。

・言葉を話すことのできない生き物に擬態すれば、会いたい人に会いに行くことができる。擬態する生き物は会いたい人にとって身近な生き物のほうが良い。
・タイムリミットは七十二時間。
・時間内であればいつでも『言の葉書房』に帰ってこられる。
・七十二時間を迎えなくても、現世に留まるのをやめることができる。

 条件を一つずつ噛み砕いていくと、案外シンプルなルールであることが分かった。
 言音は、先ほど自分の死を知ったばかりな上、ハルサカという奇妙な人間から、現実には起こり得ないような体験ができると聞かされて確かに混乱していた。
 でも、時間が経つごとに、ゆっくりとだが、今この状況を身体全部で受け入れようとしている。

「さあ、内海言音さん。どうされますか? 現世に行きますか? 会いたい人に会いに行きますか?」

「もちろん、チャンスがあるなら行きたいよ。でも」

 宏樹や紫音、花音の顔を浮かべながら言音は三人に会いたい寂しさで、すでに胸が破裂しそうになっていた。
 だが、先ほどハルサカが口にした条件のことが、どうしても引っ掛かるのだ。

「言葉を発することができない生き物になって会いに行っても、伝えたいことを伝えられないじゃない……? だから、意味があるのか、正直分からなくて」

「ほう」

 言音の不安は、ハルサカにとって意外だったのか、それとも納得だったのか。瞳を膨らませ、顎に手を当てる彼の反応を見ても、言音には判断することができなかった。

「意味がない、と思ってはるんですね?」

「まったく意味がないわけじゃないと思うよ。少なくとも、顔は見ることができる。それで安心できることもあるか
もしれない。でも言葉が話せなかったら、余計に辛い思いをするんじゃないかって……」

 胸の中にある不安を打ち明ける。ハルサカはとても真面目な顔つきで「そうですね」と頷いた。

「あなたの言うことはもっともです。話せないことで悲しい気持ちになってしまうかもしれない」

 そういうハルサカの表情に、一瞬翳りが見えた気がした。

「だから、内海さんが嫌なら無理にやらなくてもええんですよ。私は迷える魂たちの案内人であって、押し付けのようなことはしませんから」

 ハルサカの、あくまでも判断は言音にお任せするというスタンスに、言音は背中を押されたような心地になった。
 無理にやらなくてもいいと言われたら、どうしてもみんなに会いたくなってしまう。
 「開けるな」と書かれたドアがあったら、開けたくなるように。
 たとえその先に、荒野が広がっていたとしても——。

「行きます。現世に行って、家族に会いたいです」

 はっきりと、言音は心に浮かんだ答えを口にした。ハルサカがやわらかく微笑む。鼻を掠めていた古い紙の匂いが、すでに心地よく感じていた。

「分かりました。それでは、内海言音さんを現世に案内します。現世に行く日にちはいつがいいですか?」

「えっと……今日から二週間後で」

 言音は迷った末、適当な日にちを告げた。 
 二週間もあれば、葬儀や役所での手続きもおおかた終わっているだろう……そう思ってのことだった。
 だけど、まだみんなが悲しみの中にいることは間違いない。
それでもあの世へ行く前に、愛する家族の顔を一目でいいから見たい。
 その一心で、言音はハルサカをまっすぐに見つめる。

「承知しました。内海さんが擬態したい生き物を思い浮かべながら目を閉じてください」

 その言葉に、言音は花音の姿を思い出しながらそっと目を閉じる。
 擬態するのは、生後五ヶ月の赤ちゃんである花音。
 花音は言葉を喋ることができないから、きっと条件に当てはまるはずだ。
 言音が目を瞑ったあとで、ハルサカがパチンと指を鳴らす。
 どうやって現世に行くんだろう——そんなふうに疑問に感じていたが、次の瞬間にはまぶたの向こうの景色がまばゆいほどの白い光に包まれた。
 現世に降り立つ直前まで、懐かしい古紙の香りはずっと残っていて、それだけが言音の道標のように、これから始まる七十二時間の奇跡を予感させてくれるようだった。