言の葉はさよならまでの栞

 一日が経った。
 二日が経った。
 その間ずっと、朔也は『Café-とよふく』にお客さんがやって来ては帰っていく様子をぼうっと眺めていた。意識だけがあって、身体を動かせないことがこんなにも辛いことだなんて、知らなかった。時間の感覚はどんどん鈍くなっていく。それでも、朝、昼、夜の区別はなんとなくつく。植物なので眠るということもなく、ただずっと視界が開けていて、意識がはっきりしている状態。その時間はあまりに長く、苦痛以外のなにものでもなくなっていた。

(ゆとりも、入院中こんな気持ちなのかな)

 本を読んだり絵を描いたり、見舞いに来た人間と話をすることはできるものの、基本はベッドの上で生活を強いら
れているゆとりの気持ちを、本当の意味でようやく理解できた気がする。
 朔也は生前、病気になってしまったゆとりが可哀想で仕方がなかった。
 それまで健康体だった彼女が突然心臓の病気だと告げられて、〝半年以内に病状が急変する可能性が高い〟とまで言われ、落ち込まなかったはずがない。
 もし朔也がゆとりと同じ状況になったら、きっと目の前が真っ暗になって毎日陰鬱とした気分で絶望していただろう。 
 だけど、ゆとりは落ち込まなかった。
 それどころか、逆に暗い顔をしてしまう朔也の前で、いつも頬を綻ばせて楽しませてくれた。

『朔くん、泣かないでよ。泣いたら格好良い顔が台無しだよ』
——それは、「可愛い顔が台無しだ」って言う時に使う言葉だろ。

『昨日のドラマ見た? めちゃくちゃ面白くて、病室でずっと笑ってたから隣の部屋まで声が漏れちゃってたかも。看護師さんが〝どうしたんですか?〟って急に入ってきて恥ずかしかったんだから』
——心配されるぐらい笑い転げるってどういうことだよ。

『あーあ、早く朔くんのカフェに行きたいなぁ。私、オープン日に押しかけてメニュー表にあるメニューを全部頼もうと思ってるから、覚悟しといてね?』
——それはもう、カフェジャックだろ。
 
 あえて朔也がつっこめるようにわざとボケているのか、ゆとりは朔也が少しでも表情に翳りを見せると、途端に朔也を笑わせるようなことばかり言っていた。
 思えば病気になる前だって、ゆとりは常に明るく、爽やかな人だった。同じ大学でサークルの新歓で初めて出会った時も、見た目はおとなしそうなのだが話してみると笑い上戸だし、話が弾んで、気がつけば心を鷲掴みにされる——そんな素敵な女の子だと思った。
 ゆとりを失うかもしれないと恐れていたここ数ヶ月、毎日心配でたまらなくて、仕事中もずっと胃がキリキリと痛かった。だけど、仕事帰りに見舞いに顔を出すと、ゆとりはケロッとした顔で「さっき検査終わったんだー! ナイスタイミング!」と親指を立てて笑ってくれた。
 そんな彼女の笑顔を見ると、縮んでいた心臓が一気に元の大きさに戻るみたいに、ほっと安堵している自分がいた。
 ゆとりは大丈夫だ。
 きっと病気に打ち勝って、自分と一緒に生きてくれる。
 そう信じることで、なんとか心の中の不安と闘っていたように思う。
 ゆとりが前向きでいてくれたから、朔也は自分を見失わずにいられたのだと、この時初めて自覚した。


 大好きでたまらないゆとり。
 これからも一生愛し抜こうと誓った相手。
 だけど……まさか自分が先に死んでしまう未来があるなんて——。
 ゆとりは朔也のことを恨んでいるのではないだろうか、とこれまで考えもしなかったことが、ふと頭に浮かんだ。
 一度そう考えると、植物である朔也の全身に、ぞわりと鳥肌が立つようなおぞましさを感じてしまった。

(落ち着け、そんなはずないじゃないか)

 なんとか自分に言い聞かせる。でも、心の中で「本当にそう思うか?」と悪魔が囁く声がした。

——ゆとりが朔也を恨んでいないなんて、本当にそんなことが言えるのか?

(うるさい、黙れ! お前はゆとりのことを何も知らない! 優しいゆとりが俺のことを恨むなんて絶対にない!)

——彼女が優しいのは、心の中に後ろめたいことがあるのを隠すためじゃないか? そういう人間だって、世の中に
はごまんといるだろう。

(違う! 彼女はそんな人じゃない。ゆとりは俺のことをずっと、愛してくれていて——)

——これから先も同じようにお前を愛してくれるとは限らないぞ?

(……っ!)

 声にならない悲鳴のようなものが、胸の中でだけ虚しく響き渡る。
 それは……そうかもしれない。
 自分が死んだ後の世界で、ゆとりがずっと朔也のことを愛してくれるなんて、そんな都合の良いことがあるはずがない。
 いや、むしろ……他の誰かを愛したほうが、彼女にとって幸せではないかと朔也だって気づいていた。でも、その事実を認めてしまえば、自分がこの世界から本当に消えてしまうような気がして、もうだめだった。
 ぎしぎしと軋む胸の痛みに耐えられなくなった朔也は、咄嗟に願ってしまう。
 もう、『言の葉書房』に帰してください、と。
 こんなの、何の意味もない。ただの生き地獄だ。あと二十四時間ほどで終わると分かっていても、ゆとりに会えないなら意味がない。もし会えても、たとえば知らない男と彼女が一緒にいるところを目の当たりにするかもしれない。
 その時、朔也は耐えられそうにないと思った。
『言の葉書房』に戻りたいと願った瞬間、朔也の身体がするするとドラセナから離脱するような感覚に陥る。そのまま視界が真っ白に弾け飛んで、いつのまにか現世から遠ざかっていた。