言の葉はさよならまでの栞

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 ちりん。
 夏の風物詩である風鈴のような優しい音が耳の奥でこだまして、朔也は意識を取り戻した。目を開ける、という動作はできないけれど、視界は良好である。
 木の温もりのあるカフェが、目の前に広がっていた。
 テーブルや椅子、カウンター、棚など、すべて木材でできているカフェは、院内にあるとは思えないほどおしゃれだ。朔也が自分のカフェを開きたいと夢を見て構想していたカフェは、まさにこの病院のカフェのように温かみがあっておしゃれな空間だった。
 隅には観葉植物が置かれていて、今、朔也はその一つに擬態している。
 ゆとりのお見舞いに来ると、二人でこの『Café-とよふく』によく訪れていた。いつも、座る席は一緒。今朔也が擬態しているドラセナのすぐ近くの席だ。だからもし、七十二時間以内にゆとりが『Café-とよふく』に来てくれたら、きっと彼女はいつもと同じ席に座るだろう。
 そうすれば、言葉を話すことはできないにしても、ゆとりの姿を見ることができる。
 朔也はそれで十分だった。 
 ゆとりに声をかけられなくても、たった一目でいい。彼女がちゃんと生きていることを確認できればそれで。
 そんな思いで、朔也はドラセナに擬態することを選んだのだ。
 朔也はゆったりと流れていく時間の中で、ゆとりが来てくれるのを待ち侘びた。
 彼女がカフェを一人で訪ねるとすれば、いつだろう。
 前に聞いた時は、お茶の時間に行きたいけれど混んでいるから午前中がちょうど良いと言っていた。だからもし来るなら、午前中だろうと見越して、七月一日の朝八時に現世にやってきたのだが。

(そう簡単に来るわけないよな)

 何もかも、朔也の都合の良いように事は運ばない。そんなこと分かりきっていたことだが、死んだ後に現世に戻れるという都合の良すぎる展開の中にいるためか、「もしかしたら」とうっすらと期待をしてしまっていたのだ。
 カフェの中は思ったよりもお客さんが多い。ゆとりが言っていた「午前中がちょうど良い」というのは、もしかしたらもう少し後の時間帯——十時ごろの話かもしれない。だとすれば、この朝のラッシュが終わればゆとりは来てくれるかもしれないと、また少し期待をしてしまっている自分がいることに呆れる。

(来ないって思ってたほうが楽なのに)

 頭では分かっていることと、心が願ってしまうことは、いつもちぐはぐだ。
 ゆとりにプロポーズした時だって、いつかゆとりを失って悲しみに暮れることになると、分かっていた。それでもゆとりと結婚したいと願ったのは、朔也の心がゆとりと少しでも強く繋がることを望んでいたから。

(まあ、現実は俺のほうが先に死んじゃったんだけどな……)

 誰とも会話できないせいか、つい思考が内へ内へと沈んでいく。
 この時間帯に『Café-とよふく』にやってくるお客さんはほとんど患者さんか医者で、外からふらりと立ち寄るような客はいない。
 朔也が擬態しているドラセナの近くの席にも、人がやってきた。まだ十代ぐらいの男の子だ。頭には帽子をかぶっていて、髪の毛が抜け落ちている。彼がかなり重たい病気であることは火を見るよりも明らかだった。

(未来のある若者なのに、可哀想に)

 つい、同情してしまう。自分だって二十五歳という若さで早逝してしまったのに、今は目の前の少年が不憫でならなかった。彼の今の病状なんて知らないはずなのに。カフェに来るぐらいだから病状は快方に向かっているのかもしれない、という希望をほんのわずかに感じ取りながら、患者さんのことはあまり考えないようにした。
 少年はりんごジュースを飲んで、トーストを食べたあと、どこからともなく文庫本を取り出して、それを読み始めた。
 黙々と本を読む少年の姿が、ゆとりに重なる。
 彼女も入院生活での娯楽として、本をよく読んでいた。
 あとは、イラストを描くのが好きだったので、手帳やスケッチブックに鉛筆や色鉛筆を走らせることも多かった。

(懐かしいな)

 少年を通して、ついこの間まですぐ近くに感じていたゆとりの息遣いや、長いまつげが瞬きで動くのを思い出しながら、朔也は底知れない恋しさを覚えた。
 ああ、会いたいなぁ。
 ゆとりに会いたい。
 朔也の胸の真ん中に、一番ずっしりと横たわる想いは、それ以外になかった。ゆとりに会うために、彼女の姿を一目見るために現世に戻ってきたのだ。言葉で気持ちを伝えられなくても、まずは彼女に会いたいと願ってしまう。
 その願いがどれだけ残酷なものなのかなんて、この時の朔也はまだ知らなかった。