言の葉はさよならまでの栞

 病室で婚約指輪を見せた朔也に、ゆとりは心底目を丸くして驚いていた。まさか、病気の自分に朔也が求婚をしてくるなんて思ってもいなかったんだろう。でも俺は、ゆとりがこの先生きていく中で、彼女の人生に自分がいないなんて考えられなかった。

『結婚なんて、正気?』

 震える声でそう聞いたゆとりだったが、手は自然と婚約指輪を受け取っていた。ゆとりだって、本当は朔也と一緒になりたいと思ってくれていたのだ。そうと分かり、胸が喜びと切なさでいっぱいになった。

『正気だし本気だよ。ゆとりが病気だろうがなんだろうが、一生ゆとりのそばにいたい』

 人生で一番、覚悟を持って伝えた言葉。
 彼女は真剣なまなざしで朔也を見つめたあと、そっと口を開いた。

『いいの? 私、もうすぐ死んじゃうかもしれないんだよ。治ったとしても、一生不安は消えないだろうし』

『いい。それに、死ぬかどうかなんて分からないじゃないか。ゆとりの病気は、五年生存率が五十%以上あるんだ
ろ?』

『それはそうだけど……。その分、不確定要素も多いってお医者さんが』

『大丈夫だって。ゆとりは死なない。今だって顔色もいいし、症状は落ち着いてるだろ』

『まあ、それはね……うん。でもいつどうなるかなんて分からないじゃない』

『どうなっても、今の俺はゆとりと結婚したいんだ。だから、結婚しよう』

 分かっていた。彼女がなかなか頷いてくれないのは、自分を気遣ってのことだって。
 もし結婚してすぐに自分が死んでしまったら、朔也は戸籍にバツがついた状態で一人、残されることになる。その後の結婚のハードルが上がるというのももちろんそうだが、朔也がつがいをなくした人間になってしまうことを、ゆとりは恐れたのだろう。
 でも、そんなことは朔也にはどうでも良かった。
 ただゆとりと一緒にいたかったから。
 ゆとりがいなくなった後のことなんて、考えられない。
 そんな朔也の思いがようやく通じたのか、ゆとりはふにゃりと破顔して、こう言った。

『ありがとう……。愛されるって、素敵なことね。私でよければ、ぜひよろしくお願いします』

 ゆとりが肩を震わせながら嬉し涙を流す姿を見て、朔也はこの人を一生守っていこうと心に誓った。
 まさかそれから三ヶ月して、入籍を目前に控えた今、自分のほうが先に命を落としてしまうなんて思わずに——。

「っ……」

 胸に鋭い痛みを覚えて、こめかみを震わせる。ハルサカが「大丈夫ですか?」と気遣うように朔也の顔色をうかがった。

「はい……大丈夫です。ちょっと混乱してしまっただけで……。そうか、俺はゆとりを、幸せにできなかったんだな……」

 朔也はいつか、会社勤めを辞めてカフェを開くのが夢だった。ゆとりと一緒にそのカフェでたくさんの人を笑顔にしようと約束していた。でも、その夢が叶わなかったこと以上に、ゆとりと幸せな家庭を築けなかったことのほうがよっぽど心に堪えた。

「後悔してはるんですね」

 ハルサカに問われて頷く。
 ゆとりを幸せにできなかったこと。
 ゆとりに最後に会えなかったこと。 
 ゆとりに今の想いを伝えられなかったこと。
 全部が後悔の塊みたいに、朔也の心を支配していることに気づいた。
 人間、いつ死ぬかなんて誰にも分からないからこそ、毎日を一生懸命に生きる必要があるのに、それを忘れてしまうことがある。
 最近、仕事を言い訳にしてゆとりに毎日会いに行っていなかった。
 夜は面会ができないので、平日は定時で仕事を終えられた日しか、お見舞いに行けなかったのだ。 
 全身を覆い尽くす悲しみに必死に耐えていると、ハルサカが「あなたには、現世に戻る権利があります」と突拍子のないことを言った。

「現世に戻る権利? どういう意味ですか」

 一瞬、からかわれているのかと憤りを覚えそうになったが、朔也が見つめるハルサカの表情はいたって真剣で、嘘や冗談で言っているのではないのだと分かった。

「ここに来られる方はみなさん、同じ反応をしはりますね。まあ当然と言えば当然でしょうけれど」

 そう前置きをしてから、ハルサカはこれから朔也が七十二時間現世に戻ることができるということを伝えてくれ
た。

「ただし、条件が一つ。現世に戻るには、〝言葉を話すことができない生き物〟に擬態する必要があります」

「……」

 これまでの説明も朔也にとってはファンタジーが過ぎている内容だったが、この条件に関してはとりわけ理解ができなかった。
 朔也の反応がないのに屈することなく、ハルサカは追加で説明をしてくれる。

「たとえば、犬や猫なんかの動物、赤ん坊なんかが挙げられますが、会いたい人の身近にいる生き物であるほうが、望ましいです」

 ハルサカの言葉を聞くうちに、だんだんと思考が吸い込まれていく。

「日比朔也さん、あなたにも会いたい人の一人や二人ぐらいいらっしゃるでしょう? その人に残せなかった言葉があるんとちゃいますか? ここに来る人はみんな、何かしらの後悔を抱えてはりますからね」

「それは——」

 ハルサカに指摘されて、朔也の頭に浮かぶのはもちろん、ゆとりのことだ。

「心当たりがあるようですね。さて、現世に戻られますか? 一度実行しても、いつでも取りやめることができます。途中で『言の葉書房』に帰ってくることもできますよ」

 すでに、朔也にとってはハルサカの言葉が甘い囁きに聞こえていた。
 もう一度、ゆとりに会えるのか。
 会えるのならもちろん会いたい。
 今すぐ会って抱きしめたい。 
 でも、「抱きしめる」という行為はほぼ不可能だろう。なにせ、〝言葉を話すことができない生き物〟に擬態する必要があるのだから。

「現世に……戻りたいです。でも」

「でも?」

「どの生き物になればいいか、分からないんですよ」

「ほう、それは困りましたね。あなたの会いたい人は動物を飼ってはおられない?」

「……はい。俺の会いたい人は——ゆとりは、入院中なんです」

「……なるほど」

 ハルサカが何かを察したように真剣な面持ちで押し黙る。
 入院中の人間なら、外出をすることもないので野良犬に擬態してばったり会うということもできない。一体何に擬態すればゆとりに会える?
 朔也は普段、営業マンとしてどうやって売上を上げようか頭を捻っている時以上に、思考をフル回転させて考えた。
 ゆとりの身近にいる生き物……七十二時間以内に、ゆとりが接する可能性のある生き物……。
 頭が沸騰しそうなほど考えて考えて、ようやく一つの〝生き物〟が思い浮かぶ。

「いや、でもな……アレに擬態しても何も……」

「どうされましたか? 擬態する生き物が思い浮かびはりましたか」

「は、はい。でも、突拍子がない考えなので、擬態しても意味がないかも」

「何に擬態しようと?」

「院内のカフェにある観葉植物です。確か、〝幸福の木〟って呼ばれてる」

「〝ドラセナ〟ですね」

「ああ、それです」

 ハルサカの博学ぶりに驚きつつ、朔也は自分の考えがおかしくないかとハルサカの顔色を窺った。だが、予想に反してハルサカは「やめたほうがいい」とは言わない。緩く微笑みながら、「斬新なアイデアですね」と呟いた。

「ゆとりは割と頻繁にカフェに行くので、会える確率は高いかと思ったのですが……不確実すぎるから、やっぱりやめたほうがいいですかね」

 朔也がドラセナに擬態するのは諦めようかと思っていたが、ハルサカは意外そうに目を丸くしていた。

「最初から諦めなくてもええんとちゃいますか。他に、めぼしい生き物が思いつかないならチャンスに賭けてみるべ
きではないでしょうか」

「チャンスに」

 そうだ。そもそも死んだ後に現世に帰れるなんて、普通はありえないことだろう。それなのに、自分は何かの幸運でこの場所に迷い込み、ハルサカという謎の男からチャンスを与えられている。胡散臭さは否めないが、ハルサカは悪い人ではなさそうだと、朔也は思い直す。
 もしこれが新規開拓の営業の仕事なら、わずかな望みに賭けてでも成約を掴み取ろうとするだろう。

「……分かりました。チャンスに、賭けてみます」

 決意のこもる声で朔也はようやく頷く。その返事に満足したのか、ハルサカが「良かったです」と頷いた。

「現世に行くにはお好きな時間を選ぶことができます。ただし、連続した七十二時間であることをお忘れなく。心の中で行きたい日にちを思い浮かべてください。それではいきますよ」

 朔也の心の準備がまだ半分しかできていない中、ハルサカがするすると朔也を現世に戻すための説明を始める。朔也は「は、はい」と返事をするので精一杯で、言われるがまま、心の中で戻りたい日にちを思い浮かべた。
 朔也が死んだのは六月の初めのことだ。
 ゆとりの心の整理が終わるのはいつだろう。でも、朔也が死んでからあまり時間が経っていると、ゆとりの病気が進行している可能性もある。ゆとりの心の傷が少しでも癒えて、あまり時間が経っていない日にちは……一ヶ月先ぐらいだろうか。
 朔也は頭の中で、「七月一日」と唱えた。
 真っ白に弾け飛ぶ視界の中で、自分の身体がくねくねと押し曲げられるような不思議な感覚がして、そのまま意識がすっとなくなった。