言の葉はさよならまでの栞

 日比朔也(ひびさくや)は夢を見ていた。
 自分の開いたカフェでたくさんのお客さんたちが笑顔を浮かべながら、コーヒーを飲んだり食事を楽しんだりしている。ひなたの席の近くではどこからともなくやってきた猫が丸まってひなたぼっこをしていて、その愛らしい生き物を、お客さんたちが微笑ましげに見守っている。そこかしこに設置した観葉植物を、恋人の望月(もちづき)ゆとりと眺めながら、心にはいつも温かな灯火がともっている——そんな、ひなたの夢。
 夢は次の瞬間、真っ暗に染まった。
 星の見えない夜空が、視界いっぱいに映り込む。河原に寝転がされている朔也を多い尽くす闇が、どんどん心を蝕んでいく。
 やがて漆黒の夜空の前には、人相の悪い不良少年たちの顔が現れる。
 身体に何度も鈍い痛みを感じて、耐えられなくなった朔也はぎゅっと目を閉じた。

「はっ……」

 閉じた、と思ったまぶたをまたすぐに開く。
 衝撃的な夢を見ていた——いや、夢なんかじゃない。あれは現実に起こった出来事だ。それも、昨晩経験したこと。生々しい記憶の続きは途切れていて、朔也はどうしてその後の記憶がないのか、自分が今どこで目を覚ましたのかも分からずに、薄ら寒さだけが全身を包み込んだ。
 一度ぶるりと身震いすると、真っ白だった視界にぼんやりと浮かび上がる光景があった。

「ほ、本屋……?」

 どういうわけか、朔也はぎっしりと本の詰まった本棚に囲まれた空間に立っていた。古い紙の匂いからして、きっと古本屋だろう。
 そこまでは理解できたものの、どうして自分が古本屋にいるのか、さっぱり分からない。となれば、まだ夢の続きを見ているのか——と朔也が思うのも当然のこと。
 まさか、後ろから軽く肩を叩かれて「日比朔也さん」と名前を呼ばれるなんて、思ってもみなかった。

「あ、あなたは」

 朔也はびくびくしながら後ろを振り返った。そこに立っていたのは、ひょろりとした長身の男性で、ちょび髭が特徴的な紳士だった。
 白いタキシードに身を包み、朔也よりは一回り以上年上と思われるが、もっと若いと言われても納得してしまう——そんな不思議な人。

「驚かせてしまい、申し訳ありません。私は『言の葉書房』の店主、ハルサカと申します」

「『言の葉書房』……?」

 当然のように目を丸くする朔也に、ハルサカと名乗る男性は再び口を開ける。

「はい、お察しの通り、古本屋ですね。でも普通の古本屋ではありません。ここには、現世で言葉を残せなかった後
悔を抱える人の魂が集まるんです」

「現世で、後悔」

 その二つの言葉が、朔也の頭の中でぐるぐると旋回する。
 さっきから、妙だなと思ってはいた。
 夢にしては肌感覚や嗅覚がはっきりとしているし、目の前にいる男とも、まともに会話ができている。これを夢と呼ぶには、いささかリアルすぎるのだ。
 そして、ハルサカが放った「現世で」という言葉に、朔也はもしかしたら、と思い当たる節があった。

「俺は、死んだのか」

 朔也が比較的早くその事実を察することができたのは、ここに来る直前に、星のない夜空の下で不良少年たちにボコボコにされた記憶が、まだ生々しく記憶に残っているからだ。殴られた時の内臓が破裂するような痛みを、忘れることができない。というか、本当に破裂したのかもしれない。
 そもそも、どうして朔也が不良少年たちにやられてしまったのかというと、仕事帰りに河原でひ弱そうな少年が、不良少年たちに殴られているところを見たからだ。
 食品会社の営業マンとして働く朔也は、日々迫り来る営業ノルマに追われながら、必死に毎日生きていた。
 昨日の晩も、残業を二時間して二十時ぐらいに会社を出た朔也は、身体には疲れが溜まりきっていて、いち早く電車に乗ろうと思っていた。
 が、会社から駅までの道中の河原で、例の場面に遭遇してしまう。
 見て見ぬふりをするという選択肢はなかった。
 朔也の他に少年たちの非行に気づいている通行人はいないようで、朔也は咄嗟に自ら飛び込んだのだ。まさかそこが、死地になるなんて思いもせず……。
 無我夢中に殴られている少年を助けたあと、不良少年たちの恨みを買った朔也は、その場で返り討ちに遭ってしまう。

 そもそも朔也は温厚な性格をしていて、中高の体育の授業でしか柔道をやったことがなかった。はなから勝てる見込みなんてなかったのだ。今思えば、自ら死地に飛び込む前に警察に通報すれば良かったのだ。でも、その時の朔也は目の前で死にそうになっている少年をいち早く助けなければという考えしか湧かなかったのだ。
 自らの死を悟った朔也に対し、ハルサカはすっと目を細めて、「そうですね」と眉根を寄せながら頷いた。同情してくれているのだ、と朔也はハルサカに人間らしさを感じる。

「そうか……なんとなくそうじゃないかと思ってたんだけど……。実際にそうと分かると、やっぱり辛いな」

 震えながら項垂れる朔也に、ハルサカは余計な言葉をかけずに静かに見守ってくれているようだった。
 自分が命を失ってしまったと分かり、咄嗟に朔也の頭に浮かぶのは、恋人であり婚約者でもあったゆとりのこと。
 清楚な雰囲気をまとう彼女と、大学一年生の時から付き合っていた。
 そんなゆとりは——半年前に、心臓の病気を発症してからずっと入院をしている。入院した当初、医者から「治療で完治する場合もあるけれど、半年以内に病状が急変する可能性が高い」と余命宣告に近い発言を受けた。朔也は目の前が真っ暗になったが、ゆとりは表情一つ変えずに「そうですか」と頷いた。 
 辛くないはずがないのに、ゆとりがなんでもないというように「大丈夫でしょ」と笑っていたのは、むろん朔也に心配かけないためだ。
 そうと気づいた朔也は、ゆとりが入院をして三ヶ月が経った頃、ゆとりにプロポーズをしたのだ。