言の葉はさよならまでの栞

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「お帰りになられたんですね」

 春のやわらかな日差しのような声が降ってきて、千絵の視界に映り込む映像が白くぼやけていたものから、本棚に囲まれた場所に移り変わっていく。

「ハルサカさん、お久しぶり」

 三日ぶりなのに「お久しぶり」はおかしいかもしれないとは思ったものの、長い旅をしてきた気分だった。

「ええ、ご無沙汰しております。七十二時間、ずっと現世にいてはったようですね」

「はい。戻る必要はないと思ったので。いろいろとお導きくださり、ありがとうございました」

 千絵が素直に頭を下げると、ハルサカは一瞬目を丸くしたあと、すぐにふっと微笑んだ。

「お楽しみいただけたようで何よりですよ。愛する人に、伝えたいことは伝えられましたか?」

 その質問にどう答えようか、千絵は迷った。
 千絵の口から勇に対して直接「ごめん」や「愛してる」を言うことはできなかった。でも、それらの言葉は今の勇には必要ないことだと気づいたのだ。

「言葉は……伝えらなかったけれど、現世に戻って勇ともう一度会えたことは本当に良かったと思うわ」

 思ったことをそのままハルサカに伝えると、ハルサカはすっと目を細める。

「なるほど。現世に戻って、必ずしも残された人に言葉をぶつける必要があるわけやないですからね」

「そうね。私が死んでしまったことはどうしようもない事実だけれど、勇と出会ってから六十年近く共に生きてきた事実がなくなるわけじゃない。彼と過ごした六十年が、これからの彼を支えてくれるって気づいたのよ」

 そう。千絵がこの死に戻りで得たのは、単に死んでしまったあとに勇に会えたという喜びではない。
 千絵はちゃんと、勇と長い時間を共にしたこと。
 その時間が、勇の心の中で今もずっと生きていること。
 それが分かったことが、一番の財産だ。
 ハルサカには千絵が言わんとしていることが伝わったのか、「なるほど」と頬を綻ばせながら頷いた。

「大切なことですね。期せずして亡くなってしまった人は、どうしても〝やり残したこと〟や〝言い残した言葉〟に意識が行きがちです。でもあなたは、それよりも大事なことがあると気づいた。大変立派なことです」

 ハルサカの言葉が、千絵の胸に深く浸透していく。
 実は千絵自身、勇に何も言葉を残していないことに後ろめたさというか、「本当にこれで良かったんだろうか」という後悔が少しもなかったわけではない。だけど、今のハルサカの言葉を聞いて、自分が現世に戻って勇と最後の時間を過ごしたことは間違いではなかったのだと自信が持てた。
 千絵が目尻に溜まっていく涙を袖で拭っている間、ハルサカが「未練解消ですね」と言い、近くの本棚から一冊のノートを取り出した。A5サイズぐらいのごく普通のノートで、背表紙に『田畑千絵』と千絵の名前が書かれている。

「これは何か——と疑問に思ってはるようなので先にお答えしますね。これは、あなたのように現世で言葉を残せなかった人の記録です。その人の人生で大切にしていた言葉や気持ちを書いて、ここにしまっておきます」

 説明を受けて、ふと本棚に視線を戻すと、そこには『内海言音』と背表紙に書かれたノートが収まっていた。
 千絵の前にも、同じようにハルサカの導きで現世に戻り、未練を解消した人がいるのだ。そう思うと、途端に心強く感じた。

「素敵なノートですね。ぜひ、私の言葉も残しておいてください」

「はい、喜んで」

 実際、ノートにどんなふうに自分のことが綴られるのか分からないし、見てみたい気持ちはあった。でも、中身を見るのは野暮だと感じて、後のことはすべてハルサカに任せようと思った。

「ハルサカさん、改めて勇に会わせてくれてありがとう。七十四年間、十分幸せな人生を送ることができたし、贅沢すぎる最後のひとときを味わえたわ」

「それは良かったです。私としても、ここに来はる人たちの魂が幸せであることが一番嬉しいですから」

 魂が幸せであること。 
 不思議な表現であることには違いないが、ハルサカの言おうとしていることが、今の千絵にはなんとなく分かる気がした。

「それじゃあ、さようなら、ハルサカさん」

「いってらっしゃい」

 あら、おかしいわね。これからあの世に行くのに「いってらっしゃい」だなんて——。
 千絵は 〝迷える魂〟にどこまでも優しいハルサカの言葉を聞いて、心の中でくふくふと満足げに笑うのだった。