言の葉はさよならまでの栞

 翌日、朝七時に目を覚ました勇は昨日と同じように探し物をしていた。リビングはもういいのか、今度はキッチンやお風呂場まで血眼になって何かを探している。千絵は「ワンワン」と吠えながら、「どこにいった……どこに……」と呟き続ける勇の背中をずっと見つめていた。
 その背中はとても苦しそうで、思わず抱きしめたくなった。 
 勇が何を探していて、何に悩んでいるのか。
 千絵は勇の全部を知りたいと思う。
 こんなにも彼のことを焦がれたのはいつぶりだろう——千絵の胸に確かに宿るのは、懐かしさと切なさだった。
 そして、千絵が現世に降りてきて三日目のお昼ごろ。
 勇と心を近づけたいと思いつつ、二日前の散歩の疲れがとれずに、リビングでうずくまりながらもうあと一時間ほどしか時間がないと焦っていた時だ。

「ああ、ああっ……!」

 意識がうつらうつらとする中、二階から勇の驚くような声が千絵の耳に真っ先に飛んできた。

(どうしたの!?)

 思うように力が入らなかった千絵の身体に、突如としてエネルギーが満ちてきたみたいに、ぴょんと身体が跳ねた。一生分の力を使う気持ちで、急いで二階へと向かう。

「あった……! あった!」

 部屋の扉も開けっぱなしで、興奮気味に背中を震わせる勇。
 例のごとく、床にはクローゼットから投げ出された服や書類たちが散乱していて見るに耐えない状態なのに、勇の周りだけ明るい光が差し込んでいるように煌めいて見えた。
 その手に握られているものを見た瞬間、千絵の心臓がドクンと跳ねる。

(あれは……)

 見覚えのある、押し花の栞。
 花はとっくに茶色くなっていて、決して綺麗とは言えないけれど、少女時代に勇のことを想って千絵が一生懸命手作りしたものだった。
 いつからか見かけなくなったと思っていたが、まさか勇が押し花の栞を探していたなんて——。
 思えば一昨日散歩をしている時、花壇の花を見て突然勇が何かを思い出したかのように家に戻って行った。
 あの花壇にはパンジーが植えられていて、勇の手の中にある栞にも、パンジーの押し花が使われていた。

(そういうことだったの……)

 散歩中に花を見たことで、勇の中の眠っていた記憶が呼び起こされたわけだ。勇が家に飛んで帰り部屋の中を荒らしていたのも、ずっと千絵の栞を探していたからだ。

「ちえ……」

 勇の口から確かにこぼれ落ちた自分自身の名前を、千絵は噛み締めるように全身全霊で耳を傾けて聞いた。

「『陽が沈んでも月の光が道をやさしく照らしてくれる』」

 突如として、勇がはっきりとそう口にした時、千絵ははっと目を大きく見開く。 
 認知症になってから難しい話をできなくなった勇が今、確かに口ずさんだ言葉。
 それは、かつて勇が千絵にプレゼントしてくれたお気に入りの本——『この空に焦がれて』で、千絵が一番好きな一節だった。

(勇……覚えててくれたのね)

 
——『この空に焦がれて』の中で一番好きな文はここ、『陽が沈んでも月の光が道をやさしく照らしてくれる』。この一文を見ていると、暗闇の中でも自分を助けてくれる人やものがきっとあるって信じられるでしょう?

 十六歳の千絵が、勇に微笑みながらそう告げた時の映像が脳裏に思い浮かんだ。
 千絵でさえ、ずっと昔のことで忘れていたというのに。
 勇はあの時から千絵が好きだと言ったものをちゃんと覚えてくれていたのだ。
 頭では忘れていても、勇の心の中に、千絵はいる。
 その事実をようやく実感することができて、千絵の瞳から涙が一筋、滑り落ちた。

「ちえ……泣かないでぇ」

 涙を流すわおんに気づいた勇が、よしよしと千絵の頭を撫でてくれる。
 勇はわおんの中身が千絵であることに気づいているわけではない。ただ目の前にいる生き物を、千絵だと思い込んでいるだけだ。
 それでもいい。それでも良かった。勇が、自分の目を見つめて「千絵」と名前を呼んでくれるだけで、千絵の心は大きく救われた。
 千絵がハルサカに導かれて現世にやってきて良かったと感じていた矢先、一階のほうから「お邪魔しますね」と声が聞こえて、二人分の足音が聞こえてきた。
 千絵は勇と顔を合わせて、一階へと下りる。

「あら、今日はお出迎えしてくれるのね。勇さん、わおんくん、こんにちは」

「来たぞ、勇」

 やってきたのは戸倉と——勇の弟である(たける)だった。

「健さんと、勇さんのこれからの生活について話し合っていたの。それとわおんくんについても」

(そっか……勇がもし施設に入るのだとしたら、わおんを飼う人間がいなくなるのか)

 重大な事実に気づいた千絵ははっと顔が強張るのを感じた。
 そんな千絵を見かねた戸倉が、すかさず千絵を——いや、わおんを安心させるように優しく微笑んで言う。

「大丈夫よ。ちゃんと保護団体にかけあってみるからね。もし引き取りを断られたら、うちに来てくれていいわよ。私、わんちゃんが大好きなの」

 よしよし、と不安がっている千絵の頭を撫でる戸倉のその言葉に、千絵は確かにほっと安堵させられた。

(保護団体のところか戸倉の家で暮らせるのなら、きっとわおんは大丈夫だわ)

 心配していたことが一気に片付いていく。
 勇のことはまたこれからゆっくり説明するのだろう。
 その前に千絵は、『言の葉書房』に帰らなくちゃいけない。
 あとは戸倉と健に頼もう——そう思って、みんなにお別れをしようとした時だ。

「そういえばこの千絵さんの遺影と骨壺は健さんが設置してくれたのよね」

 戸倉が和室に行き、千絵の遺影を眺めながら問う。
 すると健は「え?」と首を傾げた後、「違う違う。おれはやってない」と否定した。

「あら、そうなの? じゃあこれって……」

 戸倉の視線が自然と勇へと向かっていく。
 つられて千絵と健も勇をじっと見つめた。
 当の本人は「何のこと?」ときょとんとして二人を見つめ返している。

「そっか。勇さん、千絵さんのこと本当に愛していらっしゃったのね。いや、今も愛していらっしゃるのね」

 戸倉は、勇の手に握られている色褪せた栞を眺めながら、ふっと頬を綻ばせた。

「勇さんはきっと大丈夫よ。千絵さんにいつか会いにいく時まで、頑張りましょうね」

 勇には戸倉の言う言葉の意味が半分も理解できなかったに違いないが、子どものように「うん!」と声を弾ませて頷いた。
 勇が返事をした瞬間、千絵の視界が白く包まれ始める。

(ああ、今度こそ、さよならの時間ねぇ)

 勇、戸倉、健の姿が白色に染まっていき、千絵はそっと目を閉じた。
 その刹那、勇が突然「ちえ!」と声を張り上げて、千絵は反射的にはっと再び目を開ける。

「ちえ、ちえ、おれは、ちえの、月の光に、なるよ」

 千絵がここから消えることを分かっているはずがないのに。
 勇のその言葉が、今の千絵には十分すぎるぐらいに響いて、胸に深く浸透した。
 千絵の月の光になるよ。
 暗闇で苦しい時も、俺が千絵の歩いていく道をそっと照らすよ。
 勇の優しさを受け取った千絵は、思い残すことなく、天へと昇っていく。
 ありがとう……あなたがこれから生きていく道が、優しい光で満ちていますように。
 ありったけの思いを心の中で唱え続ける。勇に届いたかは分からない。でも、最後に目にした勇の瞳には確かな生命の輝きが宿っていた。