言の葉はさよならまでの栞

 次に目を覚ました時、昨日と同じでまた夜になっていることに気づいた。どうやら随分長い時間、眠っていたらしい。
 お腹が空いた。
 勇の姿はリビングには見えなくて、物が散乱している床を見て、目がくらんだ。
 ふらふらと台所に行き、ドッグフードを見つけ出す。でも、犬である千絵にはうまく開けることができない。このまま何も食べられずに、死んでしまうのかな——と、わおんの死を想像して慌てて考えを打ち消した。

「わおんくん……?」

 その時、後ろから聞き馴染みのある声が飛んできた。
 振り返ると、他でもない戸倉が眉を下げて千絵をじっと見つめていた。

「わおんくん、起きたのね。ご飯とお水をあげるからちょっと待って」

 月一の訪問で昨日も来ていたのに、どうして今日も来てくれたのかしら——と、答えを考える必要もなかった。
 きっと戸倉は、一人きりになってしまった勇のことを心配してこうして再び訪ねてきてくれたのだ。
 戸倉の温かい気遣いにじんとして、「どうぞ」と差し出してくれたごはんを一心不乱にかき込んだ。

「相当お腹が空いていたのね。もう大丈夫よ。勇さんも、今は二階の部屋で眠っているから」

「くぅん」

 そうか。やっぱり勇は今二階にいるのか。眠っていると聞いて、少しだけ安心している自分がいた。

「一時間前に私が来た時に家の中がすごく荒れていて……。一体どうしちゃったのかしらね。わおんくんは何も知らないわよね」

 千絵の背中を撫でながら、戸倉が困ったように言う。

「今ね、勇さんを施設に入れられないか、いろいろと調整しているの。弟さんもご高齢でしょう? 弟さんに聞いた
ら施設で過ごしてほしいということだったし、私もそのほうがいいと思うわ。お子さんもいないしね。大丈夫、きっ
となんとかなるわ」

 戸倉は、わおんが言葉を理解できないと分かっていて、あえて勇の現状を伝えてくれているのだ。それがまるで、妻である千絵に言い聞かせているように聞こえて、そんなはずはないと分かっているのに、胸がじんとした。

「この様子だと、勇さんは明日の朝まで起きないでしょうねえ……。朝までにこのお部屋、片付けておくわね」

 何も戸倉がそこまでする必要はないのに——千絵は親切すぎる彼女を止めたくなったが、もちろんそんなことはできない。それに、彼女はもともとこういう人なのだ、と妙に納得がいった。仕事でなくてもきっと今のこの部屋を見て、戸倉は同じ行動をとるだろうと感じたのだ。

 戸倉が散らかったものを片付けるのに、千絵もできる範囲で手伝った。裸のティッシュケースを口で加えてローテーブルの上に置くと、戸倉に「上手ね」と褒められて嬉しくなった。
 片付けるのは大変だったが、そこには確かに優しい時間が流れていた。
 こんな気持ちになるのは、現世に戻ってきて初めてかもしれない。
 戸倉と一緒に部屋の片付けを始めてから一時間、ようやく元通りになった部屋を見て、残り時間について考える。
 千絵が現世に降りてからすでに三十時間ほど経っている。
 残り四十二時間。
 その時間が一般的に長いのか短いのか、千絵にはよく分からない。 
 でも、認知症の勇に伝えたいことを伝えるのには、足りないような気がした。

「わおんくん、明後日のお昼頃にまた来るわ。ご飯はキッチンに用意してるから。勇さんのことも心配しないで」

 部屋の片付けをしてくれた戸倉が、千絵の頭を撫でながら言う。戸倉が帰ってしまうことが分かり、寂しさがどっと押し寄せてきた。
 でも、ここで負けるわけにはいかないのだ。
 千絵は残りの四十二時間の間に、勇と向き合わなくちゃいけない。
 だから、胸の中でひたひたに広がる寂寥感をなんとか押し殺して、千絵はごくんと唾をのみ込むのだった。