「風が気持ちいいなぁ」
勇が微笑みながらそう呟く。千絵は、勇の気持ちが穏やかになっていることが嬉しかった。
「ワン」
勇の言葉に同意するように頷くと、現世に戻ってきてからわおんに対してずっと険しい顔をしていた勇が相好を崩した。
「お前、かわいいところあるじゃないか」
はっきりと、勇の意思が宿った言葉に、千絵は心が温もる思いがした。
(ああ、ちゃんとまだ〝勇〟はいるのね)
認知症が進行するにつれ、千絵は勇の中から本来の彼がいなくなっていくような気がして怖かった。自分やわおんを忘れるだけでなく、本当の勇のことさえ忘れて、まったく別の人間になり変わっていく勇を、恐れさえした。
だけど、違うのだ。
まだちゃんと勇はここにいる。
千絵の隣にいる。
そう心から感じることができて、じわじわと込み上げるものがあった。
千絵は、瞳に溜まった涙がこぼれ落ちないように、必死にしっぽを振りながら歩く。後ろを振り返ったり、立ち止まったりしている暇はない。タイムリミットは刻一刻と迫っているのだ。勇といられる時間を大事にして、彼と日常を過ごしたい。
(日常って、こんなにも美しくて尊いものだったのよね)
変わらない毎日は時に退屈でもあり、牢獄のように感じてしまうこともあるけれど、そうじゃなかった。
淡々と平穏な日々を送れることが、どんなに幸せなことだったか、千絵はようやく理解することができたのだ。
感傷に浸りながら、それでも胸を張って歩いていると、色とりどりの花が現れ始めた。きちんと整備された花壇が道の両側に数メートルほど続いている。パンジー、ポピー、マーガレット——ぱっと名前が分かるものばかりで、色鮮やかなその光景に心を奪われた。
(そうか、わおんとして歩いてると、普段より地面が近いからだわ)
花はちょうど千絵の鼻と同じくらいの高さで咲いているので、芳しい匂いがぷうんと漂ってくる。特に、犬は人間以上に鼻が利くので、普段親しみのある花たちからこんなにもいろんな香りがすることを、初めて知ることができた。
千絵が花の前で足を止めていると、勇も同じように立ち止まった。
「綺麗だなぁ」
と、始めは千絵と同じように温かい気持ちで花を鑑賞しているのだと思ったが、その後すぐに勇の気配が凍りついたように固まるのに気づいた。
千絵は思わず勇の顔を見上げる。
花を凝視した勇の顔が強張り、皺の寄った瞳が大きく見開かれている。
どうしたんだろう——と、千絵が考える暇もなかった。
勇は突然くるりと踵を返すと、もともと歩いてきた道を戻り始めたのだ。
(勇!?)
「ワンワン!」
千絵は大きく吠えて、勇の後を追いかける。
早足でずんずん進んでいく勇。道路に飛び出して事故にでも遭ったらどうしようかと不安ばかりが膨らんだ。老犬の千絵には、咄嗟の時に勇を助けられそうになかった。
だからどうか事故には遭いませんように、と祈りながら、息を切らして歩いた。
勇はどこにそんな元気があるのか、普段よりも早足で進んでいく。ほとんど走っているんじゃないだろうか、というぐらいの速度だ。若く健康的な犬ならすぐに追いつけるのに、今自分がおじいちゃん犬に擬態していることに、もどかしさを覚えずにはいられなかった。
やがて勇は自宅へと到着し、乱暴に鍵を開け、扉を開いた。そのまま閉められてしまうかもしれない、と危惧していたが、扉を閉めることも忘れている様子で、勇は家の中へと消えていった。
開いたままの玄関にようやくたどり着いた千絵は、「ばぅばぅ」と唸りながら家に上がった。疲れのせいでふらふらとしてしまう。リビングで休みたい気分ではあったが、今はそれどころではなかった。
ドンドンドン! と大きな音を立てながら勇がリビングで暴れているのが見えたからだ。
「ない、ない!」
昨晩と同じように、棚の上のものをひっくり返したり抽斗を開けて中のものを全部出したりして、嵐のように荒れ狂う。
「ワンワンワン!」
やめて勇、と叫ぶように千絵は吠える。だけど、勇は我を忘れて荒れていた。
床に散乱していくティッシュやリモコン、写真、洋服。
知恵はごくりと生唾をのみ込んだ。心臓がぎしぎしと嫌な音を立てているように感じた。
(一体何をしているの……?)
震えながら、勇の奇行を見守ることしかできない。千絵が小さくなっている間も、勇は「ないない」と呟きながら必死に何かを探している様子だった。
(何を探してるの? 教えてくれたら手伝うのに)
そんな千絵の心の声はもちろん通じない。
外で花を見て血相を変えた様子で家に帰り、探し物をしている勇の姿に、肌が粟立ち、焦りばかりが募った。
また、昨日の繰り返しになっちゃうのかしら。
せっかく勇を散歩に連れ出して、精神状態が少しだけ良くなったと思っていたのに。
やっぱり無駄だったのだろうか。
千絵がやろうとしたことは、全部——。
何もかもうまくいかなくて、絶望的な気持ちにさせられる。
その刹那、千絵の意識がすっと遠のいていくのを自分自身、感じていた。
(眠い……)
散歩に出掛けて帰りに早足で歩いたせいか、思った以上に体力が奪われていることに気づいた。
そのまま千絵は、引きずられるようにして眠りの世界へと沈んでしまう。
(待って、もう少し……)
心の中で抵抗をするのも虚しく、千絵の意識はそこでぷつりと途切れていた。
勇が微笑みながらそう呟く。千絵は、勇の気持ちが穏やかになっていることが嬉しかった。
「ワン」
勇の言葉に同意するように頷くと、現世に戻ってきてからわおんに対してずっと険しい顔をしていた勇が相好を崩した。
「お前、かわいいところあるじゃないか」
はっきりと、勇の意思が宿った言葉に、千絵は心が温もる思いがした。
(ああ、ちゃんとまだ〝勇〟はいるのね)
認知症が進行するにつれ、千絵は勇の中から本来の彼がいなくなっていくような気がして怖かった。自分やわおんを忘れるだけでなく、本当の勇のことさえ忘れて、まったく別の人間になり変わっていく勇を、恐れさえした。
だけど、違うのだ。
まだちゃんと勇はここにいる。
千絵の隣にいる。
そう心から感じることができて、じわじわと込み上げるものがあった。
千絵は、瞳に溜まった涙がこぼれ落ちないように、必死にしっぽを振りながら歩く。後ろを振り返ったり、立ち止まったりしている暇はない。タイムリミットは刻一刻と迫っているのだ。勇といられる時間を大事にして、彼と日常を過ごしたい。
(日常って、こんなにも美しくて尊いものだったのよね)
変わらない毎日は時に退屈でもあり、牢獄のように感じてしまうこともあるけれど、そうじゃなかった。
淡々と平穏な日々を送れることが、どんなに幸せなことだったか、千絵はようやく理解することができたのだ。
感傷に浸りながら、それでも胸を張って歩いていると、色とりどりの花が現れ始めた。きちんと整備された花壇が道の両側に数メートルほど続いている。パンジー、ポピー、マーガレット——ぱっと名前が分かるものばかりで、色鮮やかなその光景に心を奪われた。
(そうか、わおんとして歩いてると、普段より地面が近いからだわ)
花はちょうど千絵の鼻と同じくらいの高さで咲いているので、芳しい匂いがぷうんと漂ってくる。特に、犬は人間以上に鼻が利くので、普段親しみのある花たちからこんなにもいろんな香りがすることを、初めて知ることができた。
千絵が花の前で足を止めていると、勇も同じように立ち止まった。
「綺麗だなぁ」
と、始めは千絵と同じように温かい気持ちで花を鑑賞しているのだと思ったが、その後すぐに勇の気配が凍りついたように固まるのに気づいた。
千絵は思わず勇の顔を見上げる。
花を凝視した勇の顔が強張り、皺の寄った瞳が大きく見開かれている。
どうしたんだろう——と、千絵が考える暇もなかった。
勇は突然くるりと踵を返すと、もともと歩いてきた道を戻り始めたのだ。
(勇!?)
「ワンワン!」
千絵は大きく吠えて、勇の後を追いかける。
早足でずんずん進んでいく勇。道路に飛び出して事故にでも遭ったらどうしようかと不安ばかりが膨らんだ。老犬の千絵には、咄嗟の時に勇を助けられそうになかった。
だからどうか事故には遭いませんように、と祈りながら、息を切らして歩いた。
勇はどこにそんな元気があるのか、普段よりも早足で進んでいく。ほとんど走っているんじゃないだろうか、というぐらいの速度だ。若く健康的な犬ならすぐに追いつけるのに、今自分がおじいちゃん犬に擬態していることに、もどかしさを覚えずにはいられなかった。
やがて勇は自宅へと到着し、乱暴に鍵を開け、扉を開いた。そのまま閉められてしまうかもしれない、と危惧していたが、扉を閉めることも忘れている様子で、勇は家の中へと消えていった。
開いたままの玄関にようやくたどり着いた千絵は、「ばぅばぅ」と唸りながら家に上がった。疲れのせいでふらふらとしてしまう。リビングで休みたい気分ではあったが、今はそれどころではなかった。
ドンドンドン! と大きな音を立てながら勇がリビングで暴れているのが見えたからだ。
「ない、ない!」
昨晩と同じように、棚の上のものをひっくり返したり抽斗を開けて中のものを全部出したりして、嵐のように荒れ狂う。
「ワンワンワン!」
やめて勇、と叫ぶように千絵は吠える。だけど、勇は我を忘れて荒れていた。
床に散乱していくティッシュやリモコン、写真、洋服。
知恵はごくりと生唾をのみ込んだ。心臓がぎしぎしと嫌な音を立てているように感じた。
(一体何をしているの……?)
震えながら、勇の奇行を見守ることしかできない。千絵が小さくなっている間も、勇は「ないない」と呟きながら必死に何かを探している様子だった。
(何を探してるの? 教えてくれたら手伝うのに)
そんな千絵の心の声はもちろん通じない。
外で花を見て血相を変えた様子で家に帰り、探し物をしている勇の姿に、肌が粟立ち、焦りばかりが募った。
また、昨日の繰り返しになっちゃうのかしら。
せっかく勇を散歩に連れ出して、精神状態が少しだけ良くなったと思っていたのに。
やっぱり無駄だったのだろうか。
千絵がやろうとしたことは、全部——。
何もかもうまくいかなくて、絶望的な気持ちにさせられる。
その刹那、千絵の意識がすっと遠のいていくのを自分自身、感じていた。
(眠い……)
散歩に出掛けて帰りに早足で歩いたせいか、思った以上に体力が奪われていることに気づいた。
そのまま千絵は、引きずられるようにして眠りの世界へと沈んでしまう。
(待って、もう少し……)
心の中で抵抗をするのも虚しく、千絵の意識はそこでぷつりと途切れていた。



