言の葉はさよならまでの栞

 勇の精神状態がおかしい。
 認知症で、もともとよろしくはないと思っていたものの、実際に千絵が死んだあとの勇の姿を目の当たりにすると、千絵はあまりにも普通じゃない(・・・・・・)と思い始めていた。
 きっとまだ、戸倉ですら気づいていないことだ。
 このまま放っておけば、勇は擦り切れてしまう。
 千絵がいない現実は、今の勇の認知機能では処理しきれないのだ。
 だったら、どうすれば……。
 その日の夜、千絵はうつらうつらと船を漕ぎながらも、ずっと勇のことだけを考えていた。老犬であるせいか、思ったよりも早く眠気が襲ってくる。ちらりと時計を見ると、まだ二十時。だが、ここで寝てしまえば朝まで目が覚めないという確信があった。
 そして、この眠気には逆らえないことも感じていた。
 どうにかして、勇を救いたい。
 認知症を治すことはできないけれど、今のように荒んでいる彼の心を穏やかにすることは可能なんじゃないか。
 必死に頭を捻って考える。
 生前、勇に対して放ってしまった言葉——『あなたなんかいないほうがいい』という心ない言葉に対する後悔を、どうしても拭いたかった。
 言葉で「ごめんね」と伝えることはできない。
 そもそも勇自身、千絵から言われた言葉を覚えていないのかもしれない。
 それでも、勇があんなふうに苦しんでいるのは自分のせいだという気がしてならなかった。
 勇のことを必死に考えていると、とうとう激しい睡魔が襲ってきた。
 やっぱり睡魔に逆らうことができずに、完全に目を閉じて、眠りにつくのだった。


 翌朝目が覚めると、東向きの窓から差し込む白い陽の光に照らされて、千絵の身体はぽかぽかとしていた。
 どれくらい眠っていたのだろうか——と疑問に思いながら時計を見ると、九時三十分。十二時間以上も眠ってしまっていた。わおんの体力もかなり消耗しているのだと分かる。

(決めた)

 昨晩、どうやったら勇の心を救えるのかとずっと考えていた。疲れた頭でどれだけ考えても、妙案は出てこなかった。でも、一晩寝て起きて、ぱっと思い浮かんだことがある。
 散歩に行こう。
 わおんも勇も、千絵が亡くなってからきっとろくに外に行っていないはずだ。
 もっとも、わおんは千絵が生きていた頃も散歩をしなくなっていたが、これはいい機会かもしれない。千絵の気力によって、わおんの身体は少しだけ自由に動かせる気がするから。
 そうと決まれば、千絵は早速勇を連れに、二階へと続く階段を上った。
 階段はきつかったけれど、目的のためなら前に進むことができた。
 勇の部屋の扉は前後開閉式だが、きちんとしまっていなかったようで、千絵が鼻先で押すと静かに開いた。
 勇はとっくに起きていた様子で、昨日と同じように床に座り込んでいた。焦点の定まらない瞳を見つめながら、勇の腕をつんつんと鼻で軽く突く。

「なんだぁ」

 勇が寝起きのような声を上げる。また叩かれるかも……と一瞬恐れたが、そんなことはなかった。
 千絵は必死に部屋の外へ行く素ぶりを見せて、勇に一階へ行くことをアピールする。
 ふと、もう朝ごはんは食べただろうか、と疑問に思ったが、勇の口からほんのりバナナの匂いがしたので、千絵が寝ている間に食べたのだと分かった。
 それなら何も気にせず散歩に出かけられる。
 千絵の必死の訴えが通じたのか、勇が「よいしょ」と腰を浮かせて立ち上がり、部屋の外へと出ようとしてくれた。千絵はほっと安堵しながら勇と一緒に階段を下りる。そのまま玄関に向かっていくと、「外に行くのかー?」と勇が間抜けな声で聞いた。

ワン、ワン!(行く!)

 通じないと思っていても、必死に吠えて伝えようと努める。玄関扉と勇のほうを交互に見つめながら、千絵はしっぽをふりふりして勇がついてきてくれるのを待った。

「散歩かぁ。楽しみ、楽しみ」

 突如にんまりと笑みを浮かべた勇は、スキップでもするかのような足取りで千絵の後ろをついてきてくれた。
 今この瞬間、勇が童心に帰っていることが分かり、千絵はチャンスだと思う。
 わおんの名前やわおんと過ごした日々のことは思い出せなくても、「犬と散歩」という目の前の出来事は受け入れてくれたようで何よりだ。
 勇がガラガラと引き戸を開けると、空は抜けるような青が広がっていた。
 初夏の爽やかな風が千絵の全身を包み込む。
 ああ、懐かしいな。この香り。
 千絵が死んだのは四月半ば。たった一ヶ月でも季節の移ろいをはっきりと感じていた。

「ワンワン!」

 千絵は、勇を誘導するように歩き出した。千絵がいつも勇と散歩をしていた定番のコースだ。行って帰ってくるまで三十分ほどというちょうど良い散歩道。住宅街の間を抜けると、植木の並んでいる遊歩道が現れる。勇はついてきてくれないかもしれないと懸念していたが、長年歩いてきた道だからか、特に迷う素ぶりもなく千絵の後ろを歩いてくれた。
 自分たちだけでなく、ウォーキングやジョギングをしている人たちとすれ違いながら、一人と一匹で進んだ。