言の葉はさよならまでの栞

「ううっ……うう……」

 突然、目の前の勇がおいおいと泣き始めた。
 七十四歳の彼が涙を流す姿を初めて目の当たりにして、千絵ははっと固まる。心臓がドクンと大きく跳ねて、勇の頬を滑り落ちる涙をまじまじと見つめた。

「ちえぇ……ちえぇ……」

 幼子(おさなご)が母親を呼ぶような心細さに満ちた声が静寂の中に落ちる。
 勇の全身が小刻みに震えていて、背中は丸くなっている。両手で顔を覆って、鼻水を啜った。

(勇……!)

 千絵は今すぐ勇を抱きしめて、勇の心を慰めたいと思った。でももちろん、そんなことはできない。内臓を掻き乱されるようなひどい痛みと共に、「私がなんとかしなくては」という使命感に駆られた。
 勇は千絵のことを表面的には忘れているけれど、潜在意識下でちゃんと覚えているのだ。 
 だからこそ、千絵がいなくなった現実を受け入れられずに、心がくしゃくしゃに泣いている。
 勇、気づいて。
 私はここよ!
 ここにいるのよ……!
 必死に心の中でそう叫ぶも、勇には届かない。
 もどかしさの中で、千絵はなんとか重たい身体を持ち上げて、勇の足元まで歩いた。
 また、叩かれるかもしれないという恐怖心がなかったわけではない。でもそれ以上に、「勇を一人にしたくない」という本能が千絵を突き動かした。

「……ちえぇ」

 勇は何を思ったのか、わおんの身体を抱きしめる。先ほどとはまったく違う対応に、千絵の頭は混乱していた。今の勇はわおんのことを認知しておらず、わおんを千絵だと思っているのかもしれない。
 久しぶりにすぐそばに感じた勇の温もりに、千絵の心が泣いた。

(この匂い……懐かしいわね)

 長年夫婦として過ごすうちに勇と肌で触れ合うことがなくなっていたので、抱きしめられている今、心が少女時代にタイムスリップしたような心地になっていた。
 本が好きな勇は、身体から紙のような匂いがする。嘘みたいな話だが、本当にするのだ。
 その匂いをかぐと、千絵は何か大きなものに包まれているような心地がして、心底安堵するのだった。
 ハルサカの元へ戻ろうと思っていた千絵は、すっかりその気がなくなっていた。

(できるかぎり、勇のそばにいよう)

 心に思い浮かんだことはただそれだけ。
 言葉が通じなくても、自分が千絵だと伝えられなくても、わおんとして勇のそばにいることくらいはできる。そうすることに意味があるのかは分からないけれど、今はそうしたいと思ったのだ。



 その日の夜、千絵を恋しく思いながら泣いていた勇だったが、突然思い立ったかのように千絵からバッと離れて、夕食を食べ始めた。
 勇が自分で料理をすることはないので、食事はどうするのだろうと不安になっていたが、昼間に戸倉がスーパーでインスタント食品やお惣菜を買い込んでくれていたらしい。台所から出てきた勇は、パックに入れられたポテトサラダや、レンジで温めるだけのミートソースパスタを手に、ダイニングテーブルについた。
 そぼそぼと、勇がパスタを咀嚼する音が虚しく響き渡る。
 おそらく、今この瞬間勇は千絵のことを忘れているのだ。
 だからこそ、淡々と食欲という一時欲求を満たすために食事をとることができている。
 ずっと千絵を失った寂しさに打ちひしがれていては、食事もままならなくなって、勇が死んでしまう。だから、防衛反応として彼の脳があえて千絵のことを忘れて、勇に人間的な生活をするように促しているのだと千絵は思った。

(寂しいけど、仕方ないわよね……) 

 ポテトサラダとパスタを食べている間、勇は無言で栄養を摂取しているといった様子だったが、一度食べ終えると、突然「んわあっ!」と奇声を上げて、料理が入っていたパックをひっくり返した。

(い、勇……?)

 今まで静かに食事をとっていたのに、どうしたんだろう。
 と、千絵が考える暇もなかった。
 勇はガシガシと頭を掻いて、発狂したように立ち上がる。

「お腹空いたーっ」

 そんな叫び声と共に、さきほどひっくり返したパックを、今度は床に落とした。

(お腹が空いた……? 今ご飯を食べ終えたばかりなのに?)

 千絵は最初疑問に思ったが、認知症患者は食事をした後に、食べたことを忘れてしまうことがあるのを思い出す。

「お腹空いた、お腹空いた! ごはん、どこー‼︎」

 小さな子どものように喚きながら今度は部屋中を歩き回り、リビングの壁際の棚の上に置かれているものを薙ぎ倒していく。

(勇、何してるの……!)

 声を出して止めたいけれど、乾いた喉からは「ワン!」と吠える声しか出てこない。それでも勇を止めたくて、千絵は立ち上がり、彼の元までよろよろと歩くと、ズボンの裾を噛んだ。

「やめろ、この犬めっ!」

 ペシッ、と頭を叩かれて、唸り声を上げる。
 やめて、やめて、やめて……!
 勇と千絵、わおんの三人で撮った写真やペン立て、飾っていたドライフラワーなんかがどんどん床に叩きつけられていく。床に落ちたドライフラワーを、勇はぐしゃりと踏み潰した。
 やがて勇はリビングの隣の和室へと入り、千絵の遺影の前に立つ。

(それは——!)

 勇が遺影を手に持った瞬間、千絵は喉から悲鳴が漏れそうになった。
 きっとあれを投げるのだ。
 そう思うと、もう何もかも見ていられなくなって、千絵は両目をぎゅっと瞑った。

「……」

 でも、何秒経っても、予想していた衝撃音は聞こえてこない。
 千絵は浅い呼吸を繰り返しながら、うっすらと目を開ける。
 そこには、遺影を持ったまま立ち尽くす勇の姿があった。目は大きく見開かれ、肩がわなわなと震えている。半開きの口からひゅううっと乾いた息が漏れた。
 カタリ、と勇の手から遺影が滑り落ちた。
 ショックな映像ではあったが、遺影を薙ぎ倒されるよりは数億倍ましだと思った。
 勇は何も言わない。先ほどまでの暴れぶりが嘘のように、静寂の中に存在を溶かして、ただそこに立ち尽くすばかり。まるで、勇のほうが死んでしまったみたいに、部屋には生命の息吹が感じられなくなった。
 千絵はぎしぎしと胸が軋むのを感じながらも、床に落ちた遺影を拾い上げ、壁に立てかける。勇はその様子を見てもいない様子で、振り返って二階へと続く階段のほうへ歩き出した。

(勇……)

 その背中があまりにも小さく、しょぼくれているように感じて、千絵はやるせなさが込み上げる。
 行かないで。
 そう声に出して叫びたかった。
 同じ家の中にいることには変わりないのに、千絵には勇がどこか遠い世界へ行ってしまうように感じられて、寂しさに心が攫われていくようだった。
 本当に遠くへ行ってしまったのは、千絵自身だということも忘れて——。