視界全体が白い薄もやで覆われる中、昔懐かしい匂いがそこかしこに立ち込めていた。
埃臭さも混じっているのだが、嫌な感じはしない。
言音は、障子と襖に囲まれたおばあちゃんの家の部屋を思い出した。
これは……たぶん、紙の匂い。
それも新品のコピー用紙なんかではなく、使い古されたような紙の。
子どもの頃から本を読むのが好きだった言音は、自然と学校の図書館を思い浮かべる。
そこでふっと、もやだらけだった視界が晴れた。
突然のことで、まぶしくて目を瞑る。
暗闇の中でカメラのフラッシュの光を浴びたかのように、まぶたの裏には明るい光の珠がぼんやりと浮かび上がった。
「ようやくお目覚めですか、内海言音さん」
関西のイントネーションをした男性の声が後ろから響いてきて、目を開けてはたと振り返る。そこには、全身が白いタキシードに包まれた男性が立っていた。背は180cmぐらいと長身で、鼻の下に髭が生えている。最初は中年男性だと感じたのだが、よく見れば中年男性にしては肌艶がよく、三十代とも、十代とも言われたらそれはそれで納得してしまう——そんな不思議なオーラを放っていた。
さらに、男性から視線を逸らして周りの景色を眺めたところで気がついた。
木製の本棚にずらりと並んだ本の背表紙が、360°どこを見回しても存在している。言音はようやく自分が本屋さん——おそらく古本屋の店内に立っていることに気づいた。
だとすれば目の前の男性はお店の店主だろうか。
それにしてもどうして言音の名前を知っているのか、言音には理解ができない。
「えっと、ここはどこ……?」
頭の中が混乱していて、自分がどうして古本屋の中にいるのか、何も思い出せずにいた。目を覚ます前の記憶を思い出そうとすると、カキーンと鋭い頭痛がした。
「まだ目覚めたばかりで混乱してはるのですよ。内海言音さん、よく聞いてください。あなたは現世でお亡くなりになりました」
「え?」
信じられない言葉が男性の口から紡ぎ出されて、一瞬言音の脳を素通りしていく。
「ここは、二十四時間以内に亡くなられた方が訪れる『言の葉書房』という場所です。私は店主のハルサカ。あなたの魂が現世で伝えられなかった言葉に対する後悔を抱えてはるから、この場所にやってきたのでしょう」
まさか、冗談でしょう。
と問い詰めようとしたが、見知らぬ不思議な男性の言葉からは、得体の知れないおぞましさを感じた。
「そろそろ少しずつ、思い出しませんか? あなたがここに来る直前に何をしていたのか」
「直前に……何を」
男性に記憶の扉をノックされて、言音は再び目を閉じた。視界から余計な情報が入ってこない分、頭の中に思い浮かぶ一つの光景があった。
そうだ。確か今日——私は生後五ヶ月の娘の花音を、予防接種のために病院に連れて行った。無事に予防接種を終え、帰り道にベビーカーを押しながら交差点で信号が変わるのを待っていたところで……。
「うっ」
そこまで思い出した時、言音はこめかみに鋭い痛みが駆け抜けて、頭を抑えた。
フラッシュバックしたのは、キキーッという大型トラックのクラクション。それから、横転した車が地面を滑る時の耳をつんざくような摩擦音。
そして、滑ってきた車が花音のベビーカーに衝突しようとした瞬間の映像。
「わ、私……もしかしてあの時……」
言音は、咄嗟に花音を守ろうとして、ベビーカーごと花音を突き飛ばした記憶が蘇ってきて、ぶるぶると身体の震えが止まらなくなった。
「私は……死んだの?」
大型トラックと普通乗用車の右直事故だった。
交差点で待っていた言音と花音に、横転してきた普通乗用車が襲い掛かり、巻き込まれる形で事故に遭った。
そこまでは覚えている。逆に言えば、そこまでしか覚えていないということは、言音はあの時命を落としてしまった——そう考えられるのではないか。
「信じられない……まさか本当に私が死んだなんて」
両手を開いたり閉じたりしながら、言音は自分の手の感覚を確かめる。確かに生きている時と変わりがないのに、見覚えのない場所に立っていることが、彼の——ハルサカの言葉に真実味を持たせていた。
「信じられへんのも無理はありません。ここに来られる方はみなさん、同じような反応をしはります」
他にもここに来る人がいるのだと分かっても、言音の心が慰められることはない。
「花音は……花音はどうなったの」
「お嬢さんなら無事ですよ。多少怪我はしましたが、命に別状はありません」
「そう……」
ハルサカの言葉を聞いて、言音の瞳からぶわりと涙があふれ出す。
花音を守れたことは嬉しい。でもこれからあの子は、母親がいない世界を生きていくのだ。花音だけじゃない。花音の上には紫音という、四歳の息子がいた。赤ん坊の花音より子どもの彼のほうがよっぽど寂しい思いをするだろう。
それに、二人のことを男手一人で育てなくてはいけなくなった、夫の宏樹のことも……。
埃臭さも混じっているのだが、嫌な感じはしない。
言音は、障子と襖に囲まれたおばあちゃんの家の部屋を思い出した。
これは……たぶん、紙の匂い。
それも新品のコピー用紙なんかではなく、使い古されたような紙の。
子どもの頃から本を読むのが好きだった言音は、自然と学校の図書館を思い浮かべる。
そこでふっと、もやだらけだった視界が晴れた。
突然のことで、まぶしくて目を瞑る。
暗闇の中でカメラのフラッシュの光を浴びたかのように、まぶたの裏には明るい光の珠がぼんやりと浮かび上がった。
「ようやくお目覚めですか、内海言音さん」
関西のイントネーションをした男性の声が後ろから響いてきて、目を開けてはたと振り返る。そこには、全身が白いタキシードに包まれた男性が立っていた。背は180cmぐらいと長身で、鼻の下に髭が生えている。最初は中年男性だと感じたのだが、よく見れば中年男性にしては肌艶がよく、三十代とも、十代とも言われたらそれはそれで納得してしまう——そんな不思議なオーラを放っていた。
さらに、男性から視線を逸らして周りの景色を眺めたところで気がついた。
木製の本棚にずらりと並んだ本の背表紙が、360°どこを見回しても存在している。言音はようやく自分が本屋さん——おそらく古本屋の店内に立っていることに気づいた。
だとすれば目の前の男性はお店の店主だろうか。
それにしてもどうして言音の名前を知っているのか、言音には理解ができない。
「えっと、ここはどこ……?」
頭の中が混乱していて、自分がどうして古本屋の中にいるのか、何も思い出せずにいた。目を覚ます前の記憶を思い出そうとすると、カキーンと鋭い頭痛がした。
「まだ目覚めたばかりで混乱してはるのですよ。内海言音さん、よく聞いてください。あなたは現世でお亡くなりになりました」
「え?」
信じられない言葉が男性の口から紡ぎ出されて、一瞬言音の脳を素通りしていく。
「ここは、二十四時間以内に亡くなられた方が訪れる『言の葉書房』という場所です。私は店主のハルサカ。あなたの魂が現世で伝えられなかった言葉に対する後悔を抱えてはるから、この場所にやってきたのでしょう」
まさか、冗談でしょう。
と問い詰めようとしたが、見知らぬ不思議な男性の言葉からは、得体の知れないおぞましさを感じた。
「そろそろ少しずつ、思い出しませんか? あなたがここに来る直前に何をしていたのか」
「直前に……何を」
男性に記憶の扉をノックされて、言音は再び目を閉じた。視界から余計な情報が入ってこない分、頭の中に思い浮かぶ一つの光景があった。
そうだ。確か今日——私は生後五ヶ月の娘の花音を、予防接種のために病院に連れて行った。無事に予防接種を終え、帰り道にベビーカーを押しながら交差点で信号が変わるのを待っていたところで……。
「うっ」
そこまで思い出した時、言音はこめかみに鋭い痛みが駆け抜けて、頭を抑えた。
フラッシュバックしたのは、キキーッという大型トラックのクラクション。それから、横転した車が地面を滑る時の耳をつんざくような摩擦音。
そして、滑ってきた車が花音のベビーカーに衝突しようとした瞬間の映像。
「わ、私……もしかしてあの時……」
言音は、咄嗟に花音を守ろうとして、ベビーカーごと花音を突き飛ばした記憶が蘇ってきて、ぶるぶると身体の震えが止まらなくなった。
「私は……死んだの?」
大型トラックと普通乗用車の右直事故だった。
交差点で待っていた言音と花音に、横転してきた普通乗用車が襲い掛かり、巻き込まれる形で事故に遭った。
そこまでは覚えている。逆に言えば、そこまでしか覚えていないということは、言音はあの時命を落としてしまった——そう考えられるのではないか。
「信じられない……まさか本当に私が死んだなんて」
両手を開いたり閉じたりしながら、言音は自分の手の感覚を確かめる。確かに生きている時と変わりがないのに、見覚えのない場所に立っていることが、彼の——ハルサカの言葉に真実味を持たせていた。
「信じられへんのも無理はありません。ここに来られる方はみなさん、同じような反応をしはります」
他にもここに来る人がいるのだと分かっても、言音の心が慰められることはない。
「花音は……花音はどうなったの」
「お嬢さんなら無事ですよ。多少怪我はしましたが、命に別状はありません」
「そう……」
ハルサカの言葉を聞いて、言音の瞳からぶわりと涙があふれ出す。
花音を守れたことは嬉しい。でもこれからあの子は、母親がいない世界を生きていくのだ。花音だけじゃない。花音の上には紫音という、四歳の息子がいた。赤ん坊の花音より子どもの彼のほうがよっぽど寂しい思いをするだろう。
それに、二人のことを男手一人で育てなくてはいけなくなった、夫の宏樹のことも……。



