言の葉はさよならまでの栞

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 とても昔の記憶の夢を見た後、長い眠りから覚めた千絵は、ちょっぴり切ない気持ちがじわりと胸に広がっていた。
 勇との馴れ初めを、誰かに話したことはほとんどない。
 自分の中で大事にしてきたお守りみたいな記憶だ。
 誰かに踏み荒らされたくないという気持ちがあったのかもしれない。

(あの栞、そういえば、最近は見てないわね)

 千絵が勇にあげた栞を目にしなくなったのは、いつからだろうか。
 栞は常に、勇が読んでいる本のすぐそばにあった。でもここ数年……それこそ、勇の物忘れ(・・・)がひどくなりだした頃から、ぱったりと栞を見ることがなくなっていた。
 もっとも、押し花はとっくに色褪せて見るに耐えない姿になっていたし、むしろそんなに長い時間使ってくれていたことのほうが驚きだ。寂しくはあるけれど、それだけ長く使ってくれたのだからもういいか、という気持ちにもなった。
 千絵は勇の所在を確かめようと、ゆっくりと視線を動かしてみる。
 勇はやっぱりリビングにはいない。きっと二階にいるのだろう。
リビングの窓から見える外の風景を見てすっかり夜になってしまったのだと分かった。

(戸倉さんは……)

 気配を感じない。戸倉はいつも昼間に訪問に来て夜には帰っていくから、もう家から出て行ったんだろう。ということは、この家は千絵と勇の二人きりというわけだ。
 普段から勇と二人で過ごしてきたはずなのに、この心細さはなんだろう。
 わおんに擬態することで、勇の名前を呼ぶことも、勇の世話をすることもできないことに、余計もどかしさを覚えた。
 と、その時だ。
 二階からタン、タン、タン、と勇の足音が聞こえてきたのは。

「ちえ~」

(え……?)

 今、確かに勇が千絵の名前を呼んだ。気のせいかと思ったが、再び千絵の耳に「ちえ」と勇の声が響いた。

「ちえ~飯はまだかぁ? お腹すいたよおっ!」

 まるで駄々っ子のように喚きながら、一階に降りてきて千絵を探す勇。
 目が合った。
 でも、勇はわおんが千絵であることなんてもちろん知らない。彼はわおんを見つめながら、突然怒ったような顔つきになり、「なんだ、この汚い犬はっ!」と叫んだ。そして、勇が右手を振り上げる。そこまでの動作があまりにも素早く、老体のわおんは避けることができなかった。ペシッと頭に勇の手のひらがぶつかる衝撃に、両目をぎゅっと瞑る。

(い、痛い……やめて、勇……!)

 千絵が心の中でそう叫んでも、勇は再びわおんを殴った。
「くぅん」というか弱げな声が口から漏れる。千絵は必死に勇を見つめて、「勇!」と叫ぶように「ワンッ!」と吠える。

「うるさい犬だなぁ!」

 わおんの声が耳障りだったのか、今度は勇がむしゃくしゃと白髪だらけの頭を掻きむしり、ダンダンッと地団駄を踏んだ。

(勇、どうしてこんなこと……)

 分かっている。勇が怒りっぽく暴力的になっているのは、認知症のせいだって。
 でも、病気を発症する前はあんなに優しかった勇が愛犬に暴力を振るうなんて考えたくなかった。

(そうだ、私……生きていた頃だってずっと)

 こうやって勇の暴力に耐えてきたんだ。
 千絵のことを忘れて、千絵が何かを指摘するとすぐに手を上げるようになった勇。千絵はそれでも、もちろんやり返すことなんてできなくて、頭を抱えて部屋の隅でうずくまっていた。
 勇も高齢者なので、幸い怪我をするほどの力では殴られなかった。
 でも、一発叩かれるたびに、千絵の心が縮んだ。
 同時に、若かりし頃に勇と過ごした幸せな時間の記憶が、一つ一つ弾け飛んでいくような感覚に襲われた。糸が切れて、使い古したシャツのボタンが取れてしまうみたいに。
 せっかく現世に戻っても、こうやってまた勇に暴力を振るわれて辛い思いをするぐらいなら、もう戻って来ないほうがいいんだろうか。
 確か、ハルサカが言っていた。
 心の中で〝戻りたい〟と唱えると『言の葉書房』に帰ることができる。
 現世に留まるかどうかも、自分で決めることができると。
 千絵はもう、勇と分かり合えることなんてないと思った。
 ただ言葉を話せないだけならまだしも、話せたところで認知症患者を相手に、どうやって気持ちを伝えればいいんだろう。

 勇には千絵がいない現実を受け入れて、なんとかして前を向いて生きてほしかった。
 願わくは施設に入り、安全な場所で過ごしてほしい。
 だけど、それを本人に伝えることはできない。
 千絵がいなくなったことで、勇の心は少なからずダメージを負っているはずだ。そんな勇を、見ているだけしかできないのは辛い。そして、これ以上痛い思いをするのも耐えられそうになかった。
 だったら、ハルサカに頼んで現世に留まるのをやめてしまおう——そう決意した時だ。