言の葉はさよならまでの栞

 なんとか二階にたどり着くと、二つ並んでいる部屋のうちの左の部屋の扉の前に立つ。こっちが勇の部屋で、右隣が千絵の部屋だ。
 カレンダー上では一ヶ月ぶりに上った二階の廊下の風景は、当たり前だが生前と何も変わらない。

「勇さん、戸倉です。こんにちは」

 戸倉さんが勇の部屋の扉をコンコンとノックしながら声をかける。
 だが、当然のように勇から返事は返ってこない。

「勇さん、入りますね?」

 勇から返事がないことは想定内のことだったのか、戸倉は特にためらう様子もなく扉を押し開けた。

「失礼します」

 戸倉が扉を開けた先に千絵が目にしたのは、床に座り込んで何やらブツブツと独り言を言っている勇の姿だった。
 部屋の中は日頃千絵が綺麗に掃除をしていたとは思えないほど、荒れている。
 クローゼットの中身の衣服はベッドの上に散らばり、ティッシュやお菓子の袋なんかのごみが床に散乱していた。
 しかし、一番気になったのは先ほどから一人で何かを唱えている勇のことだった。
 頬は痩せこけ、もともと細いと思っていた身体が千絵の記憶の中の彼よりずっと細くなっていた。
 おそらく、ろくに食事もとっていないのだろう。
 食事をとることを忘れていたか、もしくは食べたと思い込んで何も食べていない日が続いているか。どちらにせよ、健康状態が悪いということは一目瞭然だった。

「……えらなくちゃ」

「勇さん、私です。戸倉です。分かりますか?」

「かえらなくちゃ」

 帰らなくちゃ。

 焦点の定まらない勇の瞳が、千絵の心を激しく揺さぶる。

「勇さん、帰るってどこに?」

「家」

「ここが、勇さんの家ですよ」

 戸倉さんが事実を伝えた途端、勇の目がカッと見開かれ、唇がむっとへの字に曲がった。「ちがう! ここじゃない」
 突然怒り出した勇を見て、戸倉さんが「ああ、そうだったわね。ごめんなさいね」と先ほどのセリフを訂正する。

「勇さんの家に帰らなくちゃいけないわね」

「そうだ」

 勇のような中程度の認知症患者は、時間や今自分がいる場所が分からなくなるという見当識障害が悪化することが多い。この見当識障害が進むと、徘徊が始まるという。
 だが、千絵が生きている頃は、まだこういった見当識障害は見られなかったはずなのに。
 千絵が死んで一ヶ月経った今、確実に勇の症状が進行しているのだと思い知らされた。
 徘徊なんてされたら、勇は事故にでも遭ってしまうんじゃないかしら……。
 真っ先に不安を覚える。
 戸倉も、勇の見当違いを訂正したらより激昂されると悟ったのか、勇の言葉を肯定するしかないようだった。

「勇さん、このわんちゃんの名前は分かる?」

 今度は戸倉が千絵のほうを指差して、そう聞いた。
 千絵の心臓が早鐘を打つ。

(あなた……)

 心の中で呼びかけても、もちろん勇には届かない。それでも、わおんのことは忘れていませんように、と願った。

「知らん」

 千絵の願いも虚しく、部屋には残酷な答えが響き渡る。ドクン、と一回心臓が大きく鳴って、「ああ、本当に覚えてないんだ」と実感してしまった。
 覚えていなかったから、わおんもお腹を空かせていたのよね……。
 自分の食事もままならなくなるほどだ。わおんのことを忘れていても仕方がない。

「そ、そう。分かったわ。じゃあ……あなたの奥さん——千絵さんのことは知ってる?」

 今度は戸倉が自分について尋ねた。千絵の心臓が、より一層激しく暴れ回る。
 勇は戸倉から「千絵」と妻の名前を聞いた瞬間、焦点の定まらない瞳をはっと揺らした。それから、きょろきょろと辺りを見渡しながら、「ちえ……」とか細く呟いた。
 まるで、迷子になった子どもが母親を探しているような心許なさだった。

「知らん。誰だ、それは」

「……っ!」

 先ほどのわおんの時と同じ言葉であるはずなのに、今度こそ千絵は心臓を撃ち抜かれたような衝撃を覚えた。
 千絵が生きていた頃も、千絵のことを忘れていることがあったから、初めてのことではないのに。死んだら思い出してくれるかも、なんて都合の良い妄想をしていた自分は馬鹿だ、と思う。
 死んでしまったからこそ、勇の記憶から千絵が完全に排除されるのは分かりきっていた話じゃないか。

「待って、わおん!」

 千絵はダッシュでその場から逃げ出した。あんなに重たいと思っていた身体が、皮肉なことに今は身軽に感じてしまった。
 二階から一階に駆け下りて、リビングの端でうずくまる。

(勇……)

 ずっと、あなただけを愛して生きてきた。
 子どもを授からなかった千絵と勇は、だからこそ夫婦の時間を大切にして生きてきた。お互いがなくてはならない存在で、ご近所さんからは常に「田畑さんはおしどり夫婦でいいわねえ」と羨ましがられてきた。

(もう戻れないのかしら……)

 死んだのに、「戻る」なんて表現がおかしいことぐらい、千絵は弁えている。でも、心がどうしても願ってしまうのだ。勇と心を通じ合えていた日に戻りたい、と。
 千絵はゆっくりとまぶたを閉じる。
 いろんなことが起こりすぎて、脳がショートしてしまったみたいだ。
 次第に鈍くなっていく意識が、眠りの底に沈んでいく。気がつけば千絵は完全に眠ってしまっていた。眠りながら、まだ若かった自分が勇と交際を始めた頃の夢を見ていた。