のそのそと歩いて玄関までようやくたどり着いた千絵は、今なお「田畑さん、いませんか?」と戸を叩きながら大きな声を上げる戸倉に答えるように、「ワン!」と吠えた。
「わおんくん、いるのね?」
「ワンワン!」
千絵は必死に吠えながら、なんとか口を使って玄関扉の鍵を開けた。
ガチャリ、という音がしたので、戸倉も鍵が開いたことが分かったのだろう。「ちょっと失礼するわね」と言って、ガラガラと引き戸を開けてくれた。
一ヶ月ぶりに見る戸倉は普段と変わった様子もなく、「わおんくん、こんにちは。開けてくれてありがとう」と優しい母親のような笑みを浮かべた。彼女のほうが千絵よりもずっと年下なのに、わおんとなった千絵にはそう感じたから不思議だ。
「わおんくん、千絵さんと勇さんは?」
戸倉にそう尋ねられて、千絵はどうしたものかと困った。
勇はともかく、千絵は……。
千絵が死んでしまったことを、どうやって戸倉に伝えたらいいのだろうか。
と、頭を捻らせたが、「そういえば」と先ほど和室で見た光景を思い出す。
「ワンワン」
口では「こっち」と言っているつもりだが、もちろんわおんの口からは犬の鳴き声しか出てこない。
「どうしたの? お腹でも空いた?」
今度は戸倉が困ったように眉を下げる。
千絵はそんな戸倉のズボンの裾を口で噛んで、中に上がるように促した。
「あ、リビングに行くのね。もしかしてお昼寝中だったかしら?」
ようやくなんとなく千絵の言っていることが伝わったように、戸倉は「勝手に上がらせてもらうわね」と靴を脱いでくれた。
千絵は戸倉をリビングまで導いて、それから隣の和室に入るよう促す。
「千絵さん、いないわねえ。え、和室?」
不思議がる戸倉に構わず、彼女を和室まで連れてくると、ようやく棚の上に設置されている千絵の遺影と骨壺を、戸倉が視界に捉えたのが分かった。
「これ……本当?」
戸倉の顔がみるみるうちに青ざめて、この世の終わりみたいに絶望したまなざしに変わった。千絵は鈍い痛みを覚えながらも、自分の死に対してちゃんとショックを受けてくれる人がいることに、ちょっと救われた気分だった。
だが、話はそう簡単なことではない。
千絵が亡き今、この家には認知症である勇がたった一人残されていることを、戸倉はようやく理解してくれたようだ。
「そんな、どうして……。最近連絡がないと思ってたのよ。お忙しいのかと思って、連絡を遠慮してたけど、まさか亡くなってたなんて……」
戸倉の声がわなわなと震え出す。千絵はそんな戸倉を足元から見上げることしかできなかった。
「わおんくん、あなたは大丈夫? ちゃんとご飯もらえてる?」
今度は戸倉がしゃがみこみ、心配そうにわおんの顔を覗き込んだ。
千絵は何か言わなければ、と思ったが、「くぅん」と自分の口から寂しげな声が漏れるばかり。
そういえば、確かにお腹が空いてるな……。
現世に降りてから現状を把握するのに必死で、そんなことにも気づかなかった。
「お腹が空いてるのね。待ってて、確か台所にドッグフードがあったはず」
戸倉は、勝手知ったる様子でキッチンへと向い、ごそごそと棚からドッグフードを取り出して、お皿に入れて持ってきてくれた。
「これ食べて。勇さんにはあとで報告しておくから」
差し出されたドッグフードはよくある市販のものだ。昔はわおんのご飯も手作りをしていたものだが、ここ最近は勇の世話で手一杯で、わおんのご飯まで手が回らなかった。
ドッグフードなんて絶対に食べられない——そう思うのに、千絵は不思議とドッグフードの匂いを嗅いで、「食べたい」という欲求が沸き起こった。
がふがふとそれを口にすると、予想の何倍もおいしくて、どんどん食が進んだ。
戸倉が用意してくれた水からは、優しい温もりの味がした。
千絵がものすごい勢いでドッグフードを食べ、水を飲み干すと、「たくさん食べて偉いわね」と戸倉が頭を撫でてくれた。
(温かいなあ)
誰かに優しい気持ちで触れられるのって、こんなにも心地良いものだったのか。
千絵は今までの人生で忘れかけていたことに気づかされる。反対に、勇に手を上げられたことも思い出して、ちくりと胸に棘が刺さったような心地がした。
「わおんくん、勇さんはどこにいるか分かる?」
戸倉の問いに、千絵は彼女を階段のほうへと連れて行った。
おそらく勇は、二階の自室にこもっているだろう。
千絵が生きている時もほとんど部屋に引きこもっていた。だから今日もいつもと変わらず、自室にいると思った。
「そっか。二階ね。わおんくんも来る?」
千絵はどうしようか迷った。ずっと身体が重いので、階段を上れるか心配だったのだ。が、勇の顔を見に現世に戻ってきたのだ。勇に会わないわけにはいかない。
(ちょっと怖いけれど……行こう)
階段を上るのも、勇の顔を見るのも、なんとなく怖くて後ろめたい気持ちがつきまとう。それでも勇気を振り絞って、千絵は身体を左右に揺らしながら戸倉の後について階段を上った。
「わおんくん、いるのね?」
「ワンワン!」
千絵は必死に吠えながら、なんとか口を使って玄関扉の鍵を開けた。
ガチャリ、という音がしたので、戸倉も鍵が開いたことが分かったのだろう。「ちょっと失礼するわね」と言って、ガラガラと引き戸を開けてくれた。
一ヶ月ぶりに見る戸倉は普段と変わった様子もなく、「わおんくん、こんにちは。開けてくれてありがとう」と優しい母親のような笑みを浮かべた。彼女のほうが千絵よりもずっと年下なのに、わおんとなった千絵にはそう感じたから不思議だ。
「わおんくん、千絵さんと勇さんは?」
戸倉にそう尋ねられて、千絵はどうしたものかと困った。
勇はともかく、千絵は……。
千絵が死んでしまったことを、どうやって戸倉に伝えたらいいのだろうか。
と、頭を捻らせたが、「そういえば」と先ほど和室で見た光景を思い出す。
「ワンワン」
口では「こっち」と言っているつもりだが、もちろんわおんの口からは犬の鳴き声しか出てこない。
「どうしたの? お腹でも空いた?」
今度は戸倉が困ったように眉を下げる。
千絵はそんな戸倉のズボンの裾を口で噛んで、中に上がるように促した。
「あ、リビングに行くのね。もしかしてお昼寝中だったかしら?」
ようやくなんとなく千絵の言っていることが伝わったように、戸倉は「勝手に上がらせてもらうわね」と靴を脱いでくれた。
千絵は戸倉をリビングまで導いて、それから隣の和室に入るよう促す。
「千絵さん、いないわねえ。え、和室?」
不思議がる戸倉に構わず、彼女を和室まで連れてくると、ようやく棚の上に設置されている千絵の遺影と骨壺を、戸倉が視界に捉えたのが分かった。
「これ……本当?」
戸倉の顔がみるみるうちに青ざめて、この世の終わりみたいに絶望したまなざしに変わった。千絵は鈍い痛みを覚えながらも、自分の死に対してちゃんとショックを受けてくれる人がいることに、ちょっと救われた気分だった。
だが、話はそう簡単なことではない。
千絵が亡き今、この家には認知症である勇がたった一人残されていることを、戸倉はようやく理解してくれたようだ。
「そんな、どうして……。最近連絡がないと思ってたのよ。お忙しいのかと思って、連絡を遠慮してたけど、まさか亡くなってたなんて……」
戸倉の声がわなわなと震え出す。千絵はそんな戸倉を足元から見上げることしかできなかった。
「わおんくん、あなたは大丈夫? ちゃんとご飯もらえてる?」
今度は戸倉がしゃがみこみ、心配そうにわおんの顔を覗き込んだ。
千絵は何か言わなければ、と思ったが、「くぅん」と自分の口から寂しげな声が漏れるばかり。
そういえば、確かにお腹が空いてるな……。
現世に降りてから現状を把握するのに必死で、そんなことにも気づかなかった。
「お腹が空いてるのね。待ってて、確か台所にドッグフードがあったはず」
戸倉は、勝手知ったる様子でキッチンへと向い、ごそごそと棚からドッグフードを取り出して、お皿に入れて持ってきてくれた。
「これ食べて。勇さんにはあとで報告しておくから」
差し出されたドッグフードはよくある市販のものだ。昔はわおんのご飯も手作りをしていたものだが、ここ最近は勇の世話で手一杯で、わおんのご飯まで手が回らなかった。
ドッグフードなんて絶対に食べられない——そう思うのに、千絵は不思議とドッグフードの匂いを嗅いで、「食べたい」という欲求が沸き起こった。
がふがふとそれを口にすると、予想の何倍もおいしくて、どんどん食が進んだ。
戸倉が用意してくれた水からは、優しい温もりの味がした。
千絵がものすごい勢いでドッグフードを食べ、水を飲み干すと、「たくさん食べて偉いわね」と戸倉が頭を撫でてくれた。
(温かいなあ)
誰かに優しい気持ちで触れられるのって、こんなにも心地良いものだったのか。
千絵は今までの人生で忘れかけていたことに気づかされる。反対に、勇に手を上げられたことも思い出して、ちくりと胸に棘が刺さったような心地がした。
「わおんくん、勇さんはどこにいるか分かる?」
戸倉の問いに、千絵は彼女を階段のほうへと連れて行った。
おそらく勇は、二階の自室にこもっているだろう。
千絵が生きている時もほとんど部屋に引きこもっていた。だから今日もいつもと変わらず、自室にいると思った。
「そっか。二階ね。わおんくんも来る?」
千絵はどうしようか迷った。ずっと身体が重いので、階段を上れるか心配だったのだ。が、勇の顔を見に現世に戻ってきたのだ。勇に会わないわけにはいかない。
(ちょっと怖いけれど……行こう)
階段を上るのも、勇の顔を見るのも、なんとなく怖くて後ろめたい気持ちがつきまとう。それでも勇気を振り絞って、千絵は身体を左右に揺らしながら戸倉の後について階段を上った。



