***
ちりん、とかすかに鈴が鳴るような軽やかな音が聞こえた。
その瞬間、千絵の意識が急速に覚醒していく。
(ここは……)
視界はなんだかぼやけていて、完全に目が覚めたと感じても、はっきりと輪郭を帯びることはなかった。ただ、自分が見慣れた自宅のフローリングの上に座っていることだけは分かる。
どこからか漂ってくる匂いは、新緑の爽やかな香り。
千絵が戻ったのは、千絵が亡くなってから一ヶ月が経過した、五月半ばの時期だ。
この時期に戻ってきたのは理由があった。
とある人物に、会うためだ。
千絵は無理やり瞳を動かして、リビングに誰もいないことを確認する。どうやらその人物は今、この家にいないらしい。諦めてゆっくりと首を下に傾けてみると、小麦色の毛が生えた前足が二本、ちょこんとそこに存在していた。
(本当にわおんになったのね)
飼い犬のラブラドール、わおんの身体の中に入っていることを確信した千絵は、世の中にはまだこんなにも不思議なことが起きるものなのかといたく感心してしまった。
千絵は、「うんしょ」と心の中で声を上げながら、なんとか前足と後ろ足に力を入れて、身体を起こそうと試みる。が、想像以上に難しく、思うようにいかない。
十二歳の老犬のわおんは、千絵が生きていた頃から身体に力が入らないようになっていた。人間で言えば九十歳を超えているから、仕方のないことだ。
最近は散歩も億劫になってきたのか、一日中家の中にいることも多い。
リビングで眠っている時間が増えて、わおんの世話も一際大変になっていた。
その矢先に、千絵は死んでしまったのだ。
今、この家でわおんの世話をしているのは勇のはずである。が、勇は認知症なので、わおんの世話を忘れているかもしれなかった。
だからこそ、あの人に会いたかったのだけれど……。
と、千絵は心の中で不安が増していった。
どうしたものかとただ家の床にぽつんと存在していた千絵だったが、しばらく経って、玄関のほうでドンドンと音がするのが聞こえてきた。
「田畑さん、田畑さーん、ご在宅でしょうかー?」
求めていた聞き馴染みのある声が表から響いて、わおんとなった千絵の耳がぴくんと動く。
海辺の片田舎にある田畑家は、築年数もかなり古い小さな戸建ての家だ。玄関には一応インターホンはあるものの、音が小さすぎて鳴らしても勇は気づかないことが多い。
だから、田畑家の事情をよく知っている人間はインターホンを鳴らさずに直接戸を叩いて声をかけてくることがほとんどだった。
と言っても、うちに来る人間なんて、郵便局のお兄さんか、彼女——ケアマネージャーの戸倉優子だけだと、千絵はそっと生前の日常を振り返る。
「田畑さん? いらっしゃらない?」
戸倉が不思議そうに首を傾げる姿が、千絵の脳裏にありありと浮かんでくる。
ああ、やっぱり……。
彼女はきっと今頃、千絵が亡くなったことを知らずに、千絵が家から出てこないことを疑問に思っているのだろう。
ケアマネージャーの戸倉と普段から連絡を取っているのは千絵だけだ。千絵のほうの親戚にもほとんど話したことがないし、ちらっと話したことはあっても連絡先までは伝えていなかった。
さらに、勇が彼女に自ら連絡をすることもないので、戸倉にとっては千絵だけが田畑家と繋がれる唯一の存在だった。
もちろん、緊急連絡先として勇の弟、つまり千絵にとっての義弟の連絡先を伝えてはいるが、千絵が亡くなったことを知らされていなければ、戸倉が義弟に連絡を取ることもない。
今日は、ケアマネージャーである戸倉が月に一度訪問に来てくれる日だった。
だからあえてこの日を選んで、現世に戻ってきたのだけれど。
肝心の勇が、どこにもいない。二階の自室だろうか。だとすれば、今のわおんの身体で階段を上るのは大変なので、勇が気づいて下りてくるのを待つしかなかった。
「田畑さーん」
その間も、戸倉がめげずに玄関扉を叩く音が響き渡る。
千絵は居ても立ってもいられなくなって、なんとか老体を起こし、四本足で立ち上がった。
(かなり重いわね……)
わおんとしての身体は予想以上に重みがあって、立ち上がった瞬間、心が挫けそうになった。が、戸倉になんとしてでも自分が死んでしまって、もうこの家にはいないということを伝えなければいけない。
リビングに隣接している和室の棚に、自分の遺影と骨壺が置かれているのを発見した。
きっと、義弟が置いてくれたのだろう。勇はもう、千絵のことを認識できない日が多くなっていたから。もしかしたら千絵が死んでしまったことすら、理解していないかもしれない。
千絵はふらふらと玄関のほうへ歩いていく。
四本足で歩くのがまず慣れなくて、もどかしさを覚えた。
(もしかしたら勇も、こんな気持ちだったのかしら)
記憶が曖昧になるということは、日常生活で多くの支障が出るのと同義だ。実際、勇がお箸の持ち方を忘れて手で食事を鷲掴みにしていたり、手元にあるはずの財布を「ない、ない」と怒りながら探していたりしていたのを思い出す。
そんな夫の姿を見るたびに、千絵の胸ははがゆさと切なさでいっぱいになっていた。
(大変だったわよね……)
今も、千絵がいなくなって、きっと勇は大変な思いをしているだろう。
だから早く、戸倉に現状を伝えなければいけなかった。
ちりん、とかすかに鈴が鳴るような軽やかな音が聞こえた。
その瞬間、千絵の意識が急速に覚醒していく。
(ここは……)
視界はなんだかぼやけていて、完全に目が覚めたと感じても、はっきりと輪郭を帯びることはなかった。ただ、自分が見慣れた自宅のフローリングの上に座っていることだけは分かる。
どこからか漂ってくる匂いは、新緑の爽やかな香り。
千絵が戻ったのは、千絵が亡くなってから一ヶ月が経過した、五月半ばの時期だ。
この時期に戻ってきたのは理由があった。
とある人物に、会うためだ。
千絵は無理やり瞳を動かして、リビングに誰もいないことを確認する。どうやらその人物は今、この家にいないらしい。諦めてゆっくりと首を下に傾けてみると、小麦色の毛が生えた前足が二本、ちょこんとそこに存在していた。
(本当にわおんになったのね)
飼い犬のラブラドール、わおんの身体の中に入っていることを確信した千絵は、世の中にはまだこんなにも不思議なことが起きるものなのかといたく感心してしまった。
千絵は、「うんしょ」と心の中で声を上げながら、なんとか前足と後ろ足に力を入れて、身体を起こそうと試みる。が、想像以上に難しく、思うようにいかない。
十二歳の老犬のわおんは、千絵が生きていた頃から身体に力が入らないようになっていた。人間で言えば九十歳を超えているから、仕方のないことだ。
最近は散歩も億劫になってきたのか、一日中家の中にいることも多い。
リビングで眠っている時間が増えて、わおんの世話も一際大変になっていた。
その矢先に、千絵は死んでしまったのだ。
今、この家でわおんの世話をしているのは勇のはずである。が、勇は認知症なので、わおんの世話を忘れているかもしれなかった。
だからこそ、あの人に会いたかったのだけれど……。
と、千絵は心の中で不安が増していった。
どうしたものかとただ家の床にぽつんと存在していた千絵だったが、しばらく経って、玄関のほうでドンドンと音がするのが聞こえてきた。
「田畑さん、田畑さーん、ご在宅でしょうかー?」
求めていた聞き馴染みのある声が表から響いて、わおんとなった千絵の耳がぴくんと動く。
海辺の片田舎にある田畑家は、築年数もかなり古い小さな戸建ての家だ。玄関には一応インターホンはあるものの、音が小さすぎて鳴らしても勇は気づかないことが多い。
だから、田畑家の事情をよく知っている人間はインターホンを鳴らさずに直接戸を叩いて声をかけてくることがほとんどだった。
と言っても、うちに来る人間なんて、郵便局のお兄さんか、彼女——ケアマネージャーの戸倉優子だけだと、千絵はそっと生前の日常を振り返る。
「田畑さん? いらっしゃらない?」
戸倉が不思議そうに首を傾げる姿が、千絵の脳裏にありありと浮かんでくる。
ああ、やっぱり……。
彼女はきっと今頃、千絵が亡くなったことを知らずに、千絵が家から出てこないことを疑問に思っているのだろう。
ケアマネージャーの戸倉と普段から連絡を取っているのは千絵だけだ。千絵のほうの親戚にもほとんど話したことがないし、ちらっと話したことはあっても連絡先までは伝えていなかった。
さらに、勇が彼女に自ら連絡をすることもないので、戸倉にとっては千絵だけが田畑家と繋がれる唯一の存在だった。
もちろん、緊急連絡先として勇の弟、つまり千絵にとっての義弟の連絡先を伝えてはいるが、千絵が亡くなったことを知らされていなければ、戸倉が義弟に連絡を取ることもない。
今日は、ケアマネージャーである戸倉が月に一度訪問に来てくれる日だった。
だからあえてこの日を選んで、現世に戻ってきたのだけれど。
肝心の勇が、どこにもいない。二階の自室だろうか。だとすれば、今のわおんの身体で階段を上るのは大変なので、勇が気づいて下りてくるのを待つしかなかった。
「田畑さーん」
その間も、戸倉がめげずに玄関扉を叩く音が響き渡る。
千絵は居ても立ってもいられなくなって、なんとか老体を起こし、四本足で立ち上がった。
(かなり重いわね……)
わおんとしての身体は予想以上に重みがあって、立ち上がった瞬間、心が挫けそうになった。が、戸倉になんとしてでも自分が死んでしまって、もうこの家にはいないということを伝えなければいけない。
リビングに隣接している和室の棚に、自分の遺影と骨壺が置かれているのを発見した。
きっと、義弟が置いてくれたのだろう。勇はもう、千絵のことを認識できない日が多くなっていたから。もしかしたら千絵が死んでしまったことすら、理解していないかもしれない。
千絵はふらふらと玄関のほうへ歩いていく。
四本足で歩くのがまず慣れなくて、もどかしさを覚えた。
(もしかしたら勇も、こんな気持ちだったのかしら)
記憶が曖昧になるということは、日常生活で多くの支障が出るのと同義だ。実際、勇がお箸の持ち方を忘れて手で食事を鷲掴みにしていたり、手元にあるはずの財布を「ない、ない」と怒りながら探していたりしていたのを思い出す。
そんな夫の姿を見るたびに、千絵の胸ははがゆさと切なさでいっぱいになっていた。
(大変だったわよね……)
今も、千絵がいなくなって、きっと勇は大変な思いをしているだろう。
だから早く、戸倉に現状を伝えなければいけなかった。



