「ここって、死後の世界なのねえ」
千絵は、導き出した一つの答えを口にする。
「ご明察。ここに来て、あなたのように冷静な方にお会いするとは思ってもみませんでしたよ、田畑千絵さん」
ハルサカが自然に千絵の名前を口にしたので、千絵はなるほど、そういうことかと妙に納得がいった。
「もしかしてあなたは、死者を冥界へ導く天使様か何か?」
「ほほう、天使ですか。そう言われてみれば確かにそんな感じかもしれませんねえ」
頬を綻ばせて、ちょび髭をすりすりと撫でるハルサカ。千絵は舞台役者を見ているかのような感覚でハルサカを眺める。
「それにしても、死後の世界がこんなふうになっているなんて、思いもしなかったわ」
「ふふ、それはそうでしょうね。でも死者がみんな、この場所にたどり着けるわけではありませんよ」
「どういうことかしら?」
「ここには——『言の葉書房』には、とある条件のある人しか、来ることができないのです。愚弟的には、生前〝言
葉を残すことができなかった人〟です」
「言葉を……」
「はい。残せなかった言葉に対して、後悔を抱えてはる人の魂が、亡くなってから二十四時間以内に『言の葉書房』に集まります」
ハルサカにそう言われて、千絵はふと生前のことに思いを馳せてみた。
千絵が言葉に対して後悔をしているとすれば、それは——。
「心当たりがあるようですね」
「ええ、私は夫に……」
そこまで言いかけたところで、千絵の胸は初めてぎゅっと締め付けられ、暴れ始めた。
「夫の勇に、暴言を吐いてしまったの。夫は一年前に認知症が発覚して、どんどん物忘れがひどくなっていっ
て……」
生前の記憶は、まだ命を失ったばかりの千絵にはあまりにも生々しく思い出される。
「夫から、手を上げられたことがあったわ。病気になるまでは穏やかで優しい人だったのに。私のことを時々忘れて、その時に叩かれたり蹴られたり……。犬を飼っているのだけどね。『わおん』っていう名前のラブラドール。……わおんにも、八つ当たりするようになったの。次第に暴力的になっていく夫に対して、つい『あなたなんかいないほうがいい』って言ってしまったんだわ……」
あれは、今考えても絶対に言ってはいけない言葉だった。
でも、どんなに勇に身を尽くして介護をしても、勇は自分のことを忘れてしまう。それが悲しくて、悔しくて、ついに手まで上げられて、咄嗟に本心がこぼれ落ちた。
「その時、夫の目に一瞬悲しみの色が浮かんだのを、忘れられないのよ。けれどその後すぐ、私は倒れてしまって……」
何の運命のいたずらか、千絵の命は儚くもそこで終わってしまった。夫に、最悪最低な言葉だけを残して、千絵は死んでしまったのだ。
「一言、『ごめんね』って言いたいだけなの。ひどい言葉をかけてごめんなさいって。たとえ夫が私を忘れていても、私が夫の心を傷つけたことは変わりないから」
千絵が残せなかった言葉。それは、謝罪以外の何ものでもなかった。
勇と結婚してから四十年以上、夫婦で寄り添って生きてきたのに、最後の言葉が「あなたなんかいないほうがいい」であることが、どうしようもなく悲しくて、やるせない。
「分かりました」
ハルサカは千絵の後悔の話を、ただ静かに受け入れて頷いた。
千絵が吐き出した醜い言葉も、この人は真正面から受け止めてくれているのだと安心することができた。
「後悔を抱えているあなたは、〝言葉を話すことができない生き物〟に擬態することで、七十二時間限定で現世に戻り、会いたい人に会いに行くことができます」
「現世に戻る……? そんなお伽話みたいなことが起こるのかしら?」
「はい、起こります。『言の葉書房』の店主である私がご案内差し上げますので」
にっこりと微笑みながら言うハルサカに、千絵は妙に納得させられるところがあった。
現世に戻れるなんて、信じがたいけれど。
(ハルサカさんというこの方は、嘘をつかない気がするわ)
千絵は長年生きてきたおかげか、大抵のことは「まあそんなこともあるわよね」と達観して受け入れることができた。
「大体分かったわ。でも、〝言葉を話すことができない生き物に擬態する〟というのはどういうことかしら」
ハルサカの説明を聞いて、一つだけ分からなかったこと。
その疑問をぶつけると、ハルサカは「そうですね」と博士のような口調で再び説明をしてくれた。
「たとえば犬や猫なんかの動物、虫や植物のように、言葉を発することができない生き物になることで、現世に留まることができるということです。前にいらした方は、赤ん坊に擬態してはりましたねえ」
「なるほど……」
ようやく、ハルサカが言わんとしていることを完全に理解することができた。
「その、擬態する生き物というのは自分で選べるの?」
「はい、おっしゃる通りです。できれば、これから会いに行く方に近い存在であることが好ましいですね。動物園で
暮らしているサルなんかに擬態したところで、会いたい人に会えないでしょうから」
そこまで聞いて、千絵はもう何に擬態して現世に戻るのか、はっきりと決めることができた。
ハルサカも、千絵の心がすぐに固まったことを察したのか「お決まりのようですね」と目元を細めた。
「はい。擬態するのは飼い犬のわおんにします。そうすれば確実に夫に会えるでしょうから」
「懸命なご判断です。先にもお伝えしましたが、現世に戻れる時間は七十二時間までです。その間でしたら、いつでも『言の葉書房』に戻ってくることができます。もちろん、途中で『言の葉書房』に戻る必要はありませんし、七十
二時間すべてフルに使わなくても構いませせん」
「『言の葉書房』に戻りたい時はどうすればいいのかしら」
「心の中で、〝戻りたい〟と念じてください。私が田畑さまの魂を『言の葉書房』まで導きます」
「なるほど、分かったわ」
たったそれだけのことで、現世と『言の葉書房』を行き来することができるのか、と千絵は感心した。
「あ、あと……現世っていっても、時期はいつ頃なの?」
「すみません、伝え忘れていましたね。行きたい日時はご自身で決めていただけます。ただ、連続した七十二時間になるので、最初の日付を選んだら、そこから三日間ということになります」
ハルサカの説明を受けて、千絵はようやくこの〝死に戻り〟のルールを一通り頭に入れることができた。
「では、そろそろ現世に行きましょうか」
ハルサカが、ぱちんと指を鳴らす。
千絵は唾をのみ込んで、目を瞑る。世界がまばゆい光に包まれていくのを、まぶたの裏で感じるのだった。
千絵は、導き出した一つの答えを口にする。
「ご明察。ここに来て、あなたのように冷静な方にお会いするとは思ってもみませんでしたよ、田畑千絵さん」
ハルサカが自然に千絵の名前を口にしたので、千絵はなるほど、そういうことかと妙に納得がいった。
「もしかしてあなたは、死者を冥界へ導く天使様か何か?」
「ほほう、天使ですか。そう言われてみれば確かにそんな感じかもしれませんねえ」
頬を綻ばせて、ちょび髭をすりすりと撫でるハルサカ。千絵は舞台役者を見ているかのような感覚でハルサカを眺める。
「それにしても、死後の世界がこんなふうになっているなんて、思いもしなかったわ」
「ふふ、それはそうでしょうね。でも死者がみんな、この場所にたどり着けるわけではありませんよ」
「どういうことかしら?」
「ここには——『言の葉書房』には、とある条件のある人しか、来ることができないのです。愚弟的には、生前〝言
葉を残すことができなかった人〟です」
「言葉を……」
「はい。残せなかった言葉に対して、後悔を抱えてはる人の魂が、亡くなってから二十四時間以内に『言の葉書房』に集まります」
ハルサカにそう言われて、千絵はふと生前のことに思いを馳せてみた。
千絵が言葉に対して後悔をしているとすれば、それは——。
「心当たりがあるようですね」
「ええ、私は夫に……」
そこまで言いかけたところで、千絵の胸は初めてぎゅっと締め付けられ、暴れ始めた。
「夫の勇に、暴言を吐いてしまったの。夫は一年前に認知症が発覚して、どんどん物忘れがひどくなっていっ
て……」
生前の記憶は、まだ命を失ったばかりの千絵にはあまりにも生々しく思い出される。
「夫から、手を上げられたことがあったわ。病気になるまでは穏やかで優しい人だったのに。私のことを時々忘れて、その時に叩かれたり蹴られたり……。犬を飼っているのだけどね。『わおん』っていう名前のラブラドール。……わおんにも、八つ当たりするようになったの。次第に暴力的になっていく夫に対して、つい『あなたなんかいないほうがいい』って言ってしまったんだわ……」
あれは、今考えても絶対に言ってはいけない言葉だった。
でも、どんなに勇に身を尽くして介護をしても、勇は自分のことを忘れてしまう。それが悲しくて、悔しくて、ついに手まで上げられて、咄嗟に本心がこぼれ落ちた。
「その時、夫の目に一瞬悲しみの色が浮かんだのを、忘れられないのよ。けれどその後すぐ、私は倒れてしまって……」
何の運命のいたずらか、千絵の命は儚くもそこで終わってしまった。夫に、最悪最低な言葉だけを残して、千絵は死んでしまったのだ。
「一言、『ごめんね』って言いたいだけなの。ひどい言葉をかけてごめんなさいって。たとえ夫が私を忘れていても、私が夫の心を傷つけたことは変わりないから」
千絵が残せなかった言葉。それは、謝罪以外の何ものでもなかった。
勇と結婚してから四十年以上、夫婦で寄り添って生きてきたのに、最後の言葉が「あなたなんかいないほうがいい」であることが、どうしようもなく悲しくて、やるせない。
「分かりました」
ハルサカは千絵の後悔の話を、ただ静かに受け入れて頷いた。
千絵が吐き出した醜い言葉も、この人は真正面から受け止めてくれているのだと安心することができた。
「後悔を抱えているあなたは、〝言葉を話すことができない生き物〟に擬態することで、七十二時間限定で現世に戻り、会いたい人に会いに行くことができます」
「現世に戻る……? そんなお伽話みたいなことが起こるのかしら?」
「はい、起こります。『言の葉書房』の店主である私がご案内差し上げますので」
にっこりと微笑みながら言うハルサカに、千絵は妙に納得させられるところがあった。
現世に戻れるなんて、信じがたいけれど。
(ハルサカさんというこの方は、嘘をつかない気がするわ)
千絵は長年生きてきたおかげか、大抵のことは「まあそんなこともあるわよね」と達観して受け入れることができた。
「大体分かったわ。でも、〝言葉を話すことができない生き物に擬態する〟というのはどういうことかしら」
ハルサカの説明を聞いて、一つだけ分からなかったこと。
その疑問をぶつけると、ハルサカは「そうですね」と博士のような口調で再び説明をしてくれた。
「たとえば犬や猫なんかの動物、虫や植物のように、言葉を発することができない生き物になることで、現世に留まることができるということです。前にいらした方は、赤ん坊に擬態してはりましたねえ」
「なるほど……」
ようやく、ハルサカが言わんとしていることを完全に理解することができた。
「その、擬態する生き物というのは自分で選べるの?」
「はい、おっしゃる通りです。できれば、これから会いに行く方に近い存在であることが好ましいですね。動物園で
暮らしているサルなんかに擬態したところで、会いたい人に会えないでしょうから」
そこまで聞いて、千絵はもう何に擬態して現世に戻るのか、はっきりと決めることができた。
ハルサカも、千絵の心がすぐに固まったことを察したのか「お決まりのようですね」と目元を細めた。
「はい。擬態するのは飼い犬のわおんにします。そうすれば確実に夫に会えるでしょうから」
「懸命なご判断です。先にもお伝えしましたが、現世に戻れる時間は七十二時間までです。その間でしたら、いつでも『言の葉書房』に戻ってくることができます。もちろん、途中で『言の葉書房』に戻る必要はありませんし、七十
二時間すべてフルに使わなくても構いませせん」
「『言の葉書房』に戻りたい時はどうすればいいのかしら」
「心の中で、〝戻りたい〟と念じてください。私が田畑さまの魂を『言の葉書房』まで導きます」
「なるほど、分かったわ」
たったそれだけのことで、現世と『言の葉書房』を行き来することができるのか、と千絵は感心した。
「あ、あと……現世っていっても、時期はいつ頃なの?」
「すみません、伝え忘れていましたね。行きたい日時はご自身で決めていただけます。ただ、連続した七十二時間になるので、最初の日付を選んだら、そこから三日間ということになります」
ハルサカの説明を受けて、千絵はようやくこの〝死に戻り〟のルールを一通り頭に入れることができた。
「では、そろそろ現世に行きましょうか」
ハルサカが、ぱちんと指を鳴らす。
千絵は唾をのみ込んで、目を瞑る。世界がまばゆい光に包まれていくのを、まぶたの裏で感じるのだった。



