言の葉はさよならまでの栞

 自分がこれから永い眠りにつくことを、田畑千絵(たばたちえ)はなんとなく悟っていた。
 七十四年間、長いようで短い人生だった。
生まれた頃は戦後、数年が経った時代。戦後直後の混乱は落ち着いてきたものの、千絵の家は貧しく、決して贅沢はできなかった。子ども時代の生活を言葉にするなら、我慢と忍耐。狭い家で、今みたいに家電も十分ではなく、夏の暑さ、冬の寒さを直に感じて生活は大変だった。
 だけど、今と比べて昔は不便で苦労したな、という感情にはならない。 
 昔のことよりも、今の——夫・(いさむ)との生活が大変だから。
 でも、もう大変な思いをすることすらできない。
 だって千絵は、急性肺炎で倒れて今まさに、息を引き取ったのだから。

「ここはどこかしら……」

 自分は確かに死んだはずなのに、どうしてか目の前が明るくて、手や足なんかがちゃんとあって、動かすこともできる。夢を見ているのだろうか。死に際の夢。よく、〝三途の川〟という表現をされることがあるけれど、千絵が今いる場所に、川はどこにもない。代わりに、見渡す限り、本棚が存在していた。

「本屋さんかしら。それにしても、なんだかぼやぼやとしてよく見えないわね」

 千絵の視界は白いもやのようなもので覆い尽くされていて、本当に夢でも見ているかのような気分だった。老眼の影響かとも思ったが、どうもそうではないらしい。しばらくきょろきょろと辺りを見回していると、だんだんと視界がはっきりしてきた。
 本棚に囲まれた空間にいるせいか、千絵は紙の匂いを感じた。真新しい本ではなく、古い本の香りだ。同じ紙の匂いでも、両者は全然違うということを、長年の人生で理解していた。

「おや、いらっしゃい」

 冬の毛布みたいにやわらかい声が後ろから響いて、千絵は振り返る。
 そこに立っていたのは、白いタキシードを着た長身の男性だった。
 鼻の下に、いわゆる〝ちょび髭〟が生えていて、この時代にもまだいるのねえ、と笑ってしまう。
 年齢は千絵より二十……いや、三十歳以上は年下だろうか。もっと若くも見えるし、もう少し歳が近いようにも見える。彼の存在自体がふわふわと幻想めいていて、不思議な感覚に陥った。

「あなたは、誰でしょうか」

 疑問に思うことはすぐに解消したくなる千絵は早速彼に尋ねた。周りには他に人間がいないし、自分が今置かれている状況も、彼しか知り得ないような気がしたから。

「私はここ、『言の葉書房』の店主、ハルサカと申します。みなさん、気軽に〝ハルサカさん〟と呼んでくださっているので、よければそうお呼びください。あ、呼び捨てでも構いませんよ」

 関西のイントネーションでそう自己紹介をしてくれたハルサカに、千絵は「はあ」と頷く。

「『言の葉書房』っていうのが、このお店の名前?」

「そうです。一応、古本屋、と申しておきましょうか。懐かしい匂いがしませんか」

「懐かしい——そうね。こういった本の香りは好きだわ」

「お気に召していただけて何よりです」

 紳士のように腰を90°に折り曲げて恭しく礼をするハルサカ。千絵は、夫の勇以外とこうしてまともに会話をしたのが久しぶりで、ハルサカの落ち着いた声に心が安らいだ。
 それにしても、ここが『言の葉書房』という古本屋だということは分かったが、一体どうして自分はこんなところにいるのだろうという新たな疑問が湧き上がってくる。

「どうしてこんなところにいるのか、疑問に思ってはるようですね」

 千絵の心中を見透かしたかのようなハルサカの言葉に、千絵は驚きつつも素直に頷く。

「ええ。私、ここで目が覚める前、ひどい胸の痛みに襲われて、息ができなくなったの。咳も止まらなくて……救急
車で運ばれて、お医者さんが『急性肺炎だ』と話す声が聞こえたのだけど、そこからもう本当に苦しくて。ああ、とうとう死んじゃうんだなって思ったのよ」

 同世代の旧友たちが老衰や病気で亡くなったという報告を、ここ一、二年の間にポツポツと受けるようになった。
 だから「この時代の七十四歳なんて、まだまだ元気だから大丈夫」とは、千絵には思えなかった。
 同居していた同い年の勇は、中程度の認知症を患っていた。
 日々物忘れがひどくなっていく勇を見ていると、自分もいつかああなってしまうかもしれない(・・・・・・・・・・・・・・)という恐ろしさを覚えた。介護をしながら、どこか冷めた目で勇のことを見てしまう自分がいたのだ。
 だから、医者の口から「急性肺炎」という言葉を聞いて、自分にもとうとうお迎えが来たのだと悟った。
 同じ年の女性たちからすれば、少しだけ早いお迎えが。
 実際、病に苦しんでいる最中、本当に何もかもが終わりだという気がして、気づいたら薄もやの中に佇んでいたのだ。