***
ちりん。
どこかで聞き覚えのある風鈴のような音に、閉じていたまぶたをゆっくりと持ち上げる。
視界には白いもやがかかっていて、もやの向こうにはすっかり見慣れてしまった本棚が浮かび上がっていた。
「おかえりなさい」
まだ愛する家族と心を通じ合えた喜びで満たされている中、降り注ぐ声は確かな丸みを帯びて、やわらかかった。
「ただいま」
『言の葉書房』の店主、ハルサカに向かって言音は返事をする。
「すっきりした顔をしてはりますね。憑き物が落ちたようです」
「はい。ハルサカさんとお話しして、もう一度現世に戻って、家族に伝えたい言葉を伝えてきました」
言音が堂々とそう言うと、ハルサカがすっと目を細めて口元を緩めた。
「そうですか。でもええんですか? まだあと、十二時間ほど制限時間が残っていますが。十二時間、ご家族と一緒にいられますよ」
ハルサカの質問に、言音は静かに首を横に振った。
「いいです、もう。私は十分、家族と話ができましたから。言葉が通じなくても、伝えられることがあるって気づい
たから。これからの時間はもう、ヒロと紫音、花音の時間です。三人は支え合って生きていけるって、今、自信を持って言うことができるので」
力強い言葉を口にする言音に、ハルサカは心底驚いた様子で目を丸くした。
言音の胸には、確かにまだ家族に会いたい気持ちや恋しく思う気持ちは残っている。だけど、限られた条件の中で、言音は十分やりきったと思ったのだ。
だからこれ以上、三人のところへ行かなくても大丈夫。
「言葉は……私にとって、さよならの時までずっと挟んでおきたい栞みたいなものでした。さよならをした後、それでもまだ伝えられることがあるって、続いていくものがあるって、信じていたいです」
この六十時間の奇跡の中で気づいたこと。
それは、想いは残り続けるということ。
言音が家族に残した想いは、きっとこれから先、長い人生を生きていくみんなの拠り所になる。
そう信じられるから、言音の胸は切なさの中にもすっきりとした清々しさで満たされていた。
「言葉は栞、か……」
ハルサカが何かを悟った様子で思案するまなざしを言音に向けた。
ハルサカが、「さよならまでの切符」と表現した言葉について、言音は自分自身で違う答えを見つけたのだ。
ハルサカにとってもそれが嬉しかったのか、はにかみながら言った。
「未練解消ですね」
言音がたどり着いた答えを肯定するでもなく、否定するでもなく、ただありのままに受け入れてくれたようだった。そして、近くの本棚から一冊のノートを取り出した。A5サイズほどのノートで、背表紙に『内海言音』と言音の名前が書かれている。
「それはなんですか?」
突然、自分の名前が書かれたノートが出てきて、言音は当然ながら気になった。
「これは、〝現世で言葉を残せなかった人〟の記録みたいなものです。未練を解消したら、その人の人生で大切にしていた言葉や気持ちを書いて、ここにしまっておくんです」
説明しながら、どこからともなく取り出したペンで、つらつらと文章を綴っているのが分かった。たぶん、さっき言音が言った『言葉は栞』の話を書いているのだろう。
『ゆっくりほっくり』の言葉も綴られているかもしれないし、他にもたくさん書かれているのかもしれない。言音はノートの中身をあえて見せてもらおうとは思わなかった。
だってその言葉たちは、言音の胸の中にあるものだから。
書き終わったハルサカがノートをぱたんと閉じて、本棚に戻す。
「あなたの大切な人たちが、これからあなたの言葉を大切にしながら生きてくれますよ」
優しい雨のような言葉が、言音の胸をひたひたにして、温めていく。言音の瞳の端からツーッと一筋の涙がこぼれ落ちた。
ハルサカは、先ほどの本棚に収まっている別のノートに視線を移した。
背表紙には何も書かれていない。まだきっと中身も空欄なのだろう。
「次の方が来られますね」
ハルサカのその言葉を聞いて、言音はもう自分はさよならをする時なのだと悟った。
涙を手で拭って、しっかりとハルサカの目を見据える。
「ハルサカさん。私を現世に連れて行ってくれて、ありがとうございました。もう二度と家族には会えないけれど、会えなくても大丈夫だって思うことができました。言葉の大切さも、言葉以外で気持ちが伝えられることも……今更だけど、気づけて良かったです。さようなら」
言音がハルサカに感謝を伝えると同時に、言音の身体は光に包まれる。
『言の葉書房』から消える寸前、ハルサカがはっと驚いたような顔になり、それからいつもの柔和な笑みを浮かべて「お疲れ様でした。良い旅を」と囁くのを、言音は温かな気持ちで受け止めたのだった。
ちりん。
どこかで聞き覚えのある風鈴のような音に、閉じていたまぶたをゆっくりと持ち上げる。
視界には白いもやがかかっていて、もやの向こうにはすっかり見慣れてしまった本棚が浮かび上がっていた。
「おかえりなさい」
まだ愛する家族と心を通じ合えた喜びで満たされている中、降り注ぐ声は確かな丸みを帯びて、やわらかかった。
「ただいま」
『言の葉書房』の店主、ハルサカに向かって言音は返事をする。
「すっきりした顔をしてはりますね。憑き物が落ちたようです」
「はい。ハルサカさんとお話しして、もう一度現世に戻って、家族に伝えたい言葉を伝えてきました」
言音が堂々とそう言うと、ハルサカがすっと目を細めて口元を緩めた。
「そうですか。でもええんですか? まだあと、十二時間ほど制限時間が残っていますが。十二時間、ご家族と一緒にいられますよ」
ハルサカの質問に、言音は静かに首を横に振った。
「いいです、もう。私は十分、家族と話ができましたから。言葉が通じなくても、伝えられることがあるって気づい
たから。これからの時間はもう、ヒロと紫音、花音の時間です。三人は支え合って生きていけるって、今、自信を持って言うことができるので」
力強い言葉を口にする言音に、ハルサカは心底驚いた様子で目を丸くした。
言音の胸には、確かにまだ家族に会いたい気持ちや恋しく思う気持ちは残っている。だけど、限られた条件の中で、言音は十分やりきったと思ったのだ。
だからこれ以上、三人のところへ行かなくても大丈夫。
「言葉は……私にとって、さよならの時までずっと挟んでおきたい栞みたいなものでした。さよならをした後、それでもまだ伝えられることがあるって、続いていくものがあるって、信じていたいです」
この六十時間の奇跡の中で気づいたこと。
それは、想いは残り続けるということ。
言音が家族に残した想いは、きっとこれから先、長い人生を生きていくみんなの拠り所になる。
そう信じられるから、言音の胸は切なさの中にもすっきりとした清々しさで満たされていた。
「言葉は栞、か……」
ハルサカが何かを悟った様子で思案するまなざしを言音に向けた。
ハルサカが、「さよならまでの切符」と表現した言葉について、言音は自分自身で違う答えを見つけたのだ。
ハルサカにとってもそれが嬉しかったのか、はにかみながら言った。
「未練解消ですね」
言音がたどり着いた答えを肯定するでもなく、否定するでもなく、ただありのままに受け入れてくれたようだった。そして、近くの本棚から一冊のノートを取り出した。A5サイズほどのノートで、背表紙に『内海言音』と言音の名前が書かれている。
「それはなんですか?」
突然、自分の名前が書かれたノートが出てきて、言音は当然ながら気になった。
「これは、〝現世で言葉を残せなかった人〟の記録みたいなものです。未練を解消したら、その人の人生で大切にしていた言葉や気持ちを書いて、ここにしまっておくんです」
説明しながら、どこからともなく取り出したペンで、つらつらと文章を綴っているのが分かった。たぶん、さっき言音が言った『言葉は栞』の話を書いているのだろう。
『ゆっくりほっくり』の言葉も綴られているかもしれないし、他にもたくさん書かれているのかもしれない。言音はノートの中身をあえて見せてもらおうとは思わなかった。
だってその言葉たちは、言音の胸の中にあるものだから。
書き終わったハルサカがノートをぱたんと閉じて、本棚に戻す。
「あなたの大切な人たちが、これからあなたの言葉を大切にしながら生きてくれますよ」
優しい雨のような言葉が、言音の胸をひたひたにして、温めていく。言音の瞳の端からツーッと一筋の涙がこぼれ落ちた。
ハルサカは、先ほどの本棚に収まっている別のノートに視線を移した。
背表紙には何も書かれていない。まだきっと中身も空欄なのだろう。
「次の方が来られますね」
ハルサカのその言葉を聞いて、言音はもう自分はさよならをする時なのだと悟った。
涙を手で拭って、しっかりとハルサカの目を見据える。
「ハルサカさん。私を現世に連れて行ってくれて、ありがとうございました。もう二度と家族には会えないけれど、会えなくても大丈夫だって思うことができました。言葉の大切さも、言葉以外で気持ちが伝えられることも……今更だけど、気づけて良かったです。さようなら」
言音がハルサカに感謝を伝えると同時に、言音の身体は光に包まれる。
『言の葉書房』から消える寸前、ハルサカがはっと驚いたような顔になり、それからいつもの柔和な笑みを浮かべて「お疲れ様でした。良い旅を」と囁くのを、言音は温かな気持ちで受け止めたのだった。



