喉の奥まで言葉があふれかかっているのに、声を出せない。言葉にできない。
だけど、言音はどうしても、宏樹と紫音に言葉を残したかった。
宏樹の腕の中で視線を動かして、ローテーブルの上に置かれた絵本にふと目が留まる。
『あめのひ、はれのひ』
言音が子どもの頃から大好きだった本。
先ほど紫音が読んでいて、テーブルの上に置いたものだ。
じっと目を凝らしてみると、本の端からはみ出している、あるものに視線が吸い寄せられた。
あれは確か……付箋だ。
『あめのひ、はれのひ』が大好きだった言音は、特に好きなセリフが書いてあるページに、付箋を貼ったのだ。いつでもその言葉を見返せるように。最初は栞を挟んでいたのだけれど、母親が「絵本に栞じゃ、すぐ取れちゃうでしょ」と付箋に変えてくれた。可愛らしいひよこ柄の黄色い付箋だ。今も色褪せることなく、言音の大切な一ページに貼られている。少しよれてしまっているけれど、ちゃんと栞として機能してくれていることが分かった。
あれだ。
反射的にそう思った言音は、ぐっと足に力を入れて、もぞもぞと身体を動かす。
「どうした花音」
宏樹の驚いた声が降ってくる。その声をいったん無視して、宏樹の腕の中から脱出する。
腕を前に、足で床を蹴って——。
お尻を浮かして全身に力を入れた。
思っていたよりも全然上手くいかなくて、身体は前に進まない。それでも諦めずに腕と足を交互に動かすと、ようやく前に進むことができた。
「え、花音がずり這いしてる!」
興奮した宏樹の声に、ブロックで遊んでいた紫音がはっと顔を上げる。
「わあ、ほんとだ! すごいすごい!」
ぴょんぴょんと身体を跳ねさせて、満面の笑みを浮かべる紫音。二人の反応が嬉しくて、言音はがぜん力が湧いてきた。
そのまま一歩ずつ前へと進んでいく。宏樹が座っていた場所からローテーブルまで、ほんの近くなのに、今の言音にはとても遠くに感じられた。
「頑張れ、頑張れ」
「カノちゃんがんばれー!」
それでも、二人が熱い声援を送ってくれるので、言音は諦めずに前に進むことができた。
あの本の付箋のページを、二人に見せるために。
その一心でローテーブルの下まで着くと、上を見上げて二人に必死にアピールする。
「どうした?」
宏樹の不思議そうな声が響く。
「あっ、もしかしてカノちゃん、絵本がよみたいんじゃない?」
紫音の鶴の一声に、言音は首を縦に振って頷こうとした。が、思うように動かせず、カクンと首が垂れる。
それでも、紫音と宏樹には言音の真意が伝わったようだ。
二人は顔を見合わせてにんまりと笑い合い、紫音が手を伸ばして「はい」と絵本を取ってくれた。
うつ伏せ状態になっている言音の前に差し出された絵本。自分でページをめくることができないので、絵本からはみ出している付箋を指で押さえて、宏樹と紫音の顔を交互に見つめる。
「あれ、こんなところに付箋なんてあったっけ?」
付箋の存在に気づいた宏樹が不思議そうに首を傾げた。
「ふせんって、なあに?」
「ほら、これだよ。糊のついたメモ。本やノートで大事なページに貼っておくと、すぐそのページを開けるだろ?」
宏樹が紫音に優しく教えると、宏樹が「なるほどー」と可愛らしく頷く。
その間も言音は付箋に触れて、両足をバタバタと動かしていた。
「カノちゃん、この付箋が気になるのかな。どれどれ、このページを開けてあげよう」
ようやく宏樹が付箋のページを開いてくれて、言音の視界いっぱいにやわらかいクレヨンタッチのイラストが広がった。
カエルとひよこのキャラクターが、隣で並んで歩いている絵だ。
カエルは傘を持ち長靴を履いていて、ひよこは何も持っていない。
カエルの頭上には雨が降り、ひよこの頭上には太陽が輝いている。
言音はそのページのセリフが大好きだった。
『ゆっくりほっくり あるいていこう』
「ゆっくりほっくり」
ひらがなを覚えたばかりの紫音が、一音ずつ口ずさむ。
言音がこのセリフが好きだと思うのは、いつどんな時でも焦らなくていいんだと安心できるからだ。
雨の日も晴れの日も、自分のペースで歩いていけばいい。
特にこの、「ほっくり」という言葉の語呂が好きで、子どもの頃、何度も口に出して楽しんでいた。温かみがあって、優しい響き。この絵本でこの一文に出会ってから、言音は学校でどんなに嫌なことがあっても、「ゆっくりほっくり」と心の中で三回唱えれば心を落ち着かせることができた。明日も焦らなくていいと思うことができたんだ。
大人になって結婚して、日々大変な育児に追われる中で、言音自身も忘れていた。
あんなに大切にしていた言葉を、命を失った今、ようやく思い出したのだ。
「いい言葉だね」
しみじみとした声で宏樹が呟く。
「パパ、〝ほっくり〟ってどういう意味?」
紫音も言音と同じように〝ほっくり〟という言葉が気になったようだ。
「うーん、たぶん、あったかいってことじゃないかな?」
「あったかい? あったかく歩くってこと?」
「まあ、直訳するとそうなるけど。でもこのセリフが伝えたいのは、自分のペースを崩さずに、温かい気持ちで歩いて行こうってことじゃないかな?」
宏樹が一生懸命、このセリフの意味を紫音に教え諭す。言音自身も、このセリフの真意を正しく理解できているかは分からないし、宏樹の回答が合っているかどうかも判断がつかない。
でも、今の紫音にとっては、父親の言葉が一番大切な〝答え〟だ。
紫音は「そっかぁ」と目を細めて優しく微笑む。その表情を見て、「ああ、言いたいことが伝えられて良かった」と心から思った。
「この本ってさ、ママが買ってくれたの?」
ふと宏樹が疑問に思ったかのように紫音に尋ねる。
紫音は首を横に振った。
「ちがうよ。これ、ママの絵本。ママが子どもの頃によんでたんだって」
「え、そうなんだ。じゃあこの付箋はママが貼ったんだね」
「うん。ぼく、気づかなかった」
「ははっ、そんなに大きい付箋じゃないもんな。でもなんか、嬉しい。カノちゃんがママの言葉を届けてくれたみたいだ」
宏樹の双眸に、またじんわりと涙が滲む。
でも今回は、苦しそうに腕で目を抑えることはなかった。
彼の赤くなった瞳に溜まる水滴は真珠のように綺麗で、思わず見入ってしまうほどだった。
「あう、あうあう」
自然と言音の口から声が漏れる。赤ちゃんの「あうあう」という言葉は喃語というらしい。言葉を喋るようになるまでの第一歩。花音はこれから宏樹や紫音、それから友達や先生、時には絵本や本からたくさんの言葉を覚えて、自分の気持ちを言葉にできるようになっていくんだ。
紫音も同じ。宏樹も——大人だって、ままならない感情を吐き出していいし、愛する人に、たくさん言葉を伝えるべきだ。
「カノちゃんもこのセリフが好きなんだって。やっぱりママみたいだね」
「ママの子どもだからな。パパもママも、紫音とカノちゃんのこと大好きだから」
「だいすきな人とだいすきなものがいっしょって、うれしいね」
二人の言葉が言音の心に染み込んできた瞬間、置いてきぼりだった気持ちが救われた気がした。
ああ、もう大丈夫だ。
(私は大丈夫)
宏樹も紫音も、それから花音だってもう大丈夫だ。
「言音、俺たちはこの先も、〝ゆっくりほっくり〟歩いていくよ」
宏樹の愛しいものを慈しむような声を聞いて、言音の心がふっと軽くなる。
現世での最後のひとときに、心が満足していることが分かった。
言音は、親子で笑い合っている愛する人たちに、心の中で最後のお別れを告げた。
宏樹、紫音、花音。
三人に出会えたことが、私の人生で一番の幸せでした。
またいつか会える日まで。
ゆっくりほっくり、待っているから。
だけど、言音はどうしても、宏樹と紫音に言葉を残したかった。
宏樹の腕の中で視線を動かして、ローテーブルの上に置かれた絵本にふと目が留まる。
『あめのひ、はれのひ』
言音が子どもの頃から大好きだった本。
先ほど紫音が読んでいて、テーブルの上に置いたものだ。
じっと目を凝らしてみると、本の端からはみ出している、あるものに視線が吸い寄せられた。
あれは確か……付箋だ。
『あめのひ、はれのひ』が大好きだった言音は、特に好きなセリフが書いてあるページに、付箋を貼ったのだ。いつでもその言葉を見返せるように。最初は栞を挟んでいたのだけれど、母親が「絵本に栞じゃ、すぐ取れちゃうでしょ」と付箋に変えてくれた。可愛らしいひよこ柄の黄色い付箋だ。今も色褪せることなく、言音の大切な一ページに貼られている。少しよれてしまっているけれど、ちゃんと栞として機能してくれていることが分かった。
あれだ。
反射的にそう思った言音は、ぐっと足に力を入れて、もぞもぞと身体を動かす。
「どうした花音」
宏樹の驚いた声が降ってくる。その声をいったん無視して、宏樹の腕の中から脱出する。
腕を前に、足で床を蹴って——。
お尻を浮かして全身に力を入れた。
思っていたよりも全然上手くいかなくて、身体は前に進まない。それでも諦めずに腕と足を交互に動かすと、ようやく前に進むことができた。
「え、花音がずり這いしてる!」
興奮した宏樹の声に、ブロックで遊んでいた紫音がはっと顔を上げる。
「わあ、ほんとだ! すごいすごい!」
ぴょんぴょんと身体を跳ねさせて、満面の笑みを浮かべる紫音。二人の反応が嬉しくて、言音はがぜん力が湧いてきた。
そのまま一歩ずつ前へと進んでいく。宏樹が座っていた場所からローテーブルまで、ほんの近くなのに、今の言音にはとても遠くに感じられた。
「頑張れ、頑張れ」
「カノちゃんがんばれー!」
それでも、二人が熱い声援を送ってくれるので、言音は諦めずに前に進むことができた。
あの本の付箋のページを、二人に見せるために。
その一心でローテーブルの下まで着くと、上を見上げて二人に必死にアピールする。
「どうした?」
宏樹の不思議そうな声が響く。
「あっ、もしかしてカノちゃん、絵本がよみたいんじゃない?」
紫音の鶴の一声に、言音は首を縦に振って頷こうとした。が、思うように動かせず、カクンと首が垂れる。
それでも、紫音と宏樹には言音の真意が伝わったようだ。
二人は顔を見合わせてにんまりと笑い合い、紫音が手を伸ばして「はい」と絵本を取ってくれた。
うつ伏せ状態になっている言音の前に差し出された絵本。自分でページをめくることができないので、絵本からはみ出している付箋を指で押さえて、宏樹と紫音の顔を交互に見つめる。
「あれ、こんなところに付箋なんてあったっけ?」
付箋の存在に気づいた宏樹が不思議そうに首を傾げた。
「ふせんって、なあに?」
「ほら、これだよ。糊のついたメモ。本やノートで大事なページに貼っておくと、すぐそのページを開けるだろ?」
宏樹が紫音に優しく教えると、宏樹が「なるほどー」と可愛らしく頷く。
その間も言音は付箋に触れて、両足をバタバタと動かしていた。
「カノちゃん、この付箋が気になるのかな。どれどれ、このページを開けてあげよう」
ようやく宏樹が付箋のページを開いてくれて、言音の視界いっぱいにやわらかいクレヨンタッチのイラストが広がった。
カエルとひよこのキャラクターが、隣で並んで歩いている絵だ。
カエルは傘を持ち長靴を履いていて、ひよこは何も持っていない。
カエルの頭上には雨が降り、ひよこの頭上には太陽が輝いている。
言音はそのページのセリフが大好きだった。
『ゆっくりほっくり あるいていこう』
「ゆっくりほっくり」
ひらがなを覚えたばかりの紫音が、一音ずつ口ずさむ。
言音がこのセリフが好きだと思うのは、いつどんな時でも焦らなくていいんだと安心できるからだ。
雨の日も晴れの日も、自分のペースで歩いていけばいい。
特にこの、「ほっくり」という言葉の語呂が好きで、子どもの頃、何度も口に出して楽しんでいた。温かみがあって、優しい響き。この絵本でこの一文に出会ってから、言音は学校でどんなに嫌なことがあっても、「ゆっくりほっくり」と心の中で三回唱えれば心を落ち着かせることができた。明日も焦らなくていいと思うことができたんだ。
大人になって結婚して、日々大変な育児に追われる中で、言音自身も忘れていた。
あんなに大切にしていた言葉を、命を失った今、ようやく思い出したのだ。
「いい言葉だね」
しみじみとした声で宏樹が呟く。
「パパ、〝ほっくり〟ってどういう意味?」
紫音も言音と同じように〝ほっくり〟という言葉が気になったようだ。
「うーん、たぶん、あったかいってことじゃないかな?」
「あったかい? あったかく歩くってこと?」
「まあ、直訳するとそうなるけど。でもこのセリフが伝えたいのは、自分のペースを崩さずに、温かい気持ちで歩いて行こうってことじゃないかな?」
宏樹が一生懸命、このセリフの意味を紫音に教え諭す。言音自身も、このセリフの真意を正しく理解できているかは分からないし、宏樹の回答が合っているかどうかも判断がつかない。
でも、今の紫音にとっては、父親の言葉が一番大切な〝答え〟だ。
紫音は「そっかぁ」と目を細めて優しく微笑む。その表情を見て、「ああ、言いたいことが伝えられて良かった」と心から思った。
「この本ってさ、ママが買ってくれたの?」
ふと宏樹が疑問に思ったかのように紫音に尋ねる。
紫音は首を横に振った。
「ちがうよ。これ、ママの絵本。ママが子どもの頃によんでたんだって」
「え、そうなんだ。じゃあこの付箋はママが貼ったんだね」
「うん。ぼく、気づかなかった」
「ははっ、そんなに大きい付箋じゃないもんな。でもなんか、嬉しい。カノちゃんがママの言葉を届けてくれたみたいだ」
宏樹の双眸に、またじんわりと涙が滲む。
でも今回は、苦しそうに腕で目を抑えることはなかった。
彼の赤くなった瞳に溜まる水滴は真珠のように綺麗で、思わず見入ってしまうほどだった。
「あう、あうあう」
自然と言音の口から声が漏れる。赤ちゃんの「あうあう」という言葉は喃語というらしい。言葉を喋るようになるまでの第一歩。花音はこれから宏樹や紫音、それから友達や先生、時には絵本や本からたくさんの言葉を覚えて、自分の気持ちを言葉にできるようになっていくんだ。
紫音も同じ。宏樹も——大人だって、ままならない感情を吐き出していいし、愛する人に、たくさん言葉を伝えるべきだ。
「カノちゃんもこのセリフが好きなんだって。やっぱりママみたいだね」
「ママの子どもだからな。パパもママも、紫音とカノちゃんのこと大好きだから」
「だいすきな人とだいすきなものがいっしょって、うれしいね」
二人の言葉が言音の心に染み込んできた瞬間、置いてきぼりだった気持ちが救われた気がした。
ああ、もう大丈夫だ。
(私は大丈夫)
宏樹も紫音も、それから花音だってもう大丈夫だ。
「言音、俺たちはこの先も、〝ゆっくりほっくり〟歩いていくよ」
宏樹の愛しいものを慈しむような声を聞いて、言音の心がふっと軽くなる。
現世での最後のひとときに、心が満足していることが分かった。
言音は、親子で笑い合っている愛する人たちに、心の中で最後のお別れを告げた。
宏樹、紫音、花音。
三人に出会えたことが、私の人生で一番の幸せでした。
またいつか会える日まで。
ゆっくりほっくり、待っているから。



